12.29.2007

パラメヒコ

今年も年甲斐もなく随分とサッカーやフットサルをプレイしたものだが、先週末の土曜にフットサル、そして日曜にサッカーの大会へ出場することでボールの蹴り納めとなった。しかしスパイク着用OKのサッカーに出場するのは数ヶ月ぶりのことで、ちょうど私は2足持っていたトレーニングシューズのうち1足を履き潰してしまっていたこともあり、せっかくだから久々に新しくスパイクでも購入しようかという気分になっていた。

土曜の早い時間にフットサルを終えた後、帰りがけにスポーツショップへと向かった。棚には数多くのシューズが陳列していて、その時点ではスパイクを買ってもいいかなと思いつつもトレーニングシューズでもいいやと、更に言えば金欠気味だし1足残ったシューズで明日の大会に臨んでもいいかなと、非常に優柔不断な態度で棚を眺めていたのだが、やがて一対の白いスパイクが目に留まった。

プーマのパラメヒコである。この靴は昔、私が中学や高校のサッカー部に所属していた頃には既に存在していたブランドで、当時カンガルー革製と謳うこのスパイクの性能と、耳慣れないスペイン語のネーミングには大いに惹かれていたものの、定価2万弱という価格設定に手を出せず、泣く泣く所有が叶わなかった青春の思い出詰まる一品なのだ。だが、なんとそこに置かれている白いパラメヒコには超特価と銘打たれ8000円台の値札が貼られていた。

「おーい」
私は、フットサル後もショッピングに付き合ってくれたMを呼んだ。
「これどう思う?」「おっ、パラメヒコじゃん。懐かしいなあ。」
どうやらMも青春の思い出を共有していたようだ。これが後押しとなり私は齢30を優に越えてからようやく、カンガルー革のパラメヒコホルダーとなったのだ。物を粗末に扱う悪癖のある私にしては珍しく、帰宅後すぐに取り出して丁寧に靴紐を通す。一穴通すごとに新品スパイクへの愛しさが募る。

あくる日、天気予報は雨だったがサッカー大会の時間には嘘のように空は晴れていた。平均年齢30台半ばの我がチームは、一回りは年齢が下と見られる他の参加チームを相手に決勝トーナメント進出を目指して戦いに挑んだ。が、あっという間に初戦を0-1で惜敗。
「あーもったいなかったなあ。今の相手が今日対戦する中で一番弱かったんじゃないの?」
なんていう声が仲間内で上がった。ということは、予選リーグの残り3試合を大差で敗北することになるのか・・別の仲間がこんなことを言った。
「(野球の)野村監督が、勝敗を決めるのは強弱ではなく、チャンスをものにするかどうかだと言ってましたよ!」
初戦は、良く守ったものの得点チャンスゼロだったんだけど・・

ともあれ、そんな檄が利いたのかどうか、2戦目の我々はディフェンスラインを高くして攻撃的に挑んだ。相手の攻めを守備の要・Hがカット。カウンター攻撃のチャンスである。そのまま中央でフリーの私に縦パスが渡り、前を向くと丁度、Sさんが後ろ向きながらもゴール前右寄りの位置でマークを外したところだった。私は迷わず右足を一閃する。インサイドで強く蹴ったボールは長い距離を滑ってSさんの足元へ。Sさんはそれをヒールで左にはたき、そこに飛び込んだMがゴールに流し込む、先制点だ。おおパラメヒコよ、おまえは早速美しい得点に絡んだぞ!

この試合は点の取り合いとなり、3-3の引き分けで終わったが、私は密かに"あの一蹴り"に満足してしまっていた。そしてこの後は、普段はサイドでのドリブル突破を無上の喜びとしているにも関わらず、"今日はパラメヒコでスルーパスを出す日"と勝手にテーマを決めてピッチ中央を王様の如くうろうろする時間が続いた。しかしあとの2試合は実力差があり過ぎて完敗。我々の大会はここで終わりを告げた。

1分け3敗という結果を残したが、それでも私は更に別の満足感を得ていた。ニュースパイクを着用しながらも、4戦を終えて靴づれができなかったのである。こんなことは今までになかったことで、さすがカンガルー革だと一人悦に入ってしまった。来年もパラメヒコと共に頑張ります。

12.21.2007

自動車免許の再取得 -まとめ-

年の瀬となった。何ヶ月も前に長々と書き連ねた"自動車免許の再取得"についての文章がなんとも的を得ないものになってしまい、不評を買っていたので、ここで有益かと思われる情報をまとめてお伝えしようと思う。


・教習所へ行く必要があるのか?

私の場合は行きましたが、実技教習のみで学科のない所を選びました。実技教習に関しても自分がやりたい回数だけチケットを購入して教えてもらうという融通の利く教習所でした。こういった教習所のデメリットは、

「試験を教習所で受けられず、運転免許試験場で受けなければならない」

ということです。運転免許試験場での実技試験は教習所で受けるものより大分合格のハードルが高くなっているような気がしました。もっとも、私が最初に免許を取得した10年以上前とは教習所のスタイルが変化し、教習でハンコをもらうのが容易になった分試験を難しくしたという話を某教習所関係者から聞いたこともあり、今では教習所で受けようが免許試験場で受けようが差はないのかもしれません。ともあれ免許を所持していた頃それなりに運転履歴を重ねていた人であれば、悪くとも何回か不合格を重ねれば合格へたどり着くはずです。再取得までのコストや時間を考えると、普通の教習所で学科も実技も学び直して試験を受けるよりは、私のように実技教習のみを何度か受講して試験に臨むというやり方をお勧めします。全く教習を受けずに試験へトライするというのもいいでしょうが、以前に路上で身につけた悪癖というのはなかなか落ちないものです。その癖が試験結果に影響するので気をつけてください。

・再取得までの流れ

1.取消処分者講習(2日間)
2.仮免許筆記試験
3.仮免許実技試験
4.特定講習(7時間ぐらい、1日にまとめられる)
5.本免許筆記試験
6.本免許実技試験

という順番がベストかと思います。1の取消処分者講習では2日間とも簡単な、仮免許実技試験のレクチャーを受けることができるので、その時間を無駄にしなければ試験結果へと結びつくはずです(私は仮免許取得後にこの講習を受けたので、そのメリットを享受することができませんでした)。従って1から3まではなるべく短いスパンでこなすことを求められます。筆記で落ちないようにしてください。4の特定講習は本免許試験後に受けることもできますが、試験合格の当日に免許証を交付されるという喜びを得たければ上記の流れがいいでしょう。5と6は都道府県によって順番が逆転します。なお、1の講習は私の場合、非常に混雑した時期に予約したため2ヶ月待ちという羽目に陥りました。通常でも2週間程度は待たされるようです。

・心構え

まず厳しいことを言えば、筆記で落ちるというのは論外だと思います。大体再取得に挑戦する人というのは、仕事の合い間を縫って、ない暇をやり繰りしてチャレンジするのだと思いますが、そこで筆記試験を複数回受験するという時間の浪費は痛恨の極みでしょう。何があっても合格できるというところまで参考書を読み込んでから受験するぐらいで丁度良いのではないかと思います。反対に、実技試験にはそれほど切羽詰った状態で臨まないほうが良いのではないかと思います。緊張が運転にも影響しますし、次に受かるための模擬試験だというぐらいの心持ちでいってください。仮に落ちたとしても、そのぐらいリラックスしていた方が、何故落ちたのかをよりよく理解できるはずです。

・まとめ

そもそも運転免許の再取得という行為は非日常的なもので、免許を一旦取得した人の中でも数%程度しか体験しない出来事でしょう。後ろめたさや、再取得しないと体裁が悪いなんていう考え方をいっそのこと捨てて、自分は今、普通じゃできないことを経験しているのだという前向きな姿勢で、好奇心を持って運転免許取得に関する全てのことに目を光らせていけば、辛いことも楽しく感じられるのではないかと思います。


そして私は4月に免許を再取得して以降、実家の車やレンタカーなどを乗り回す日々が続いている。免許を失効してから3年近く運転とは離れていたものの、それでも再取得してみると運転する必要のある用事が積み重なるもので、逆に言えば私が免許を所持していなかった3年もの間、周りには迷惑を掛けていたのだと思い知らされた。現在私は、新車の購入を計画している。

11.28.2007

自転車旅行 -銚子編- 2

滑川駅から電車に乗ること1時間。銚子に着いたのは夜の8時で、人口減に悩むこの街への第一印象は暗がりの下、うら寂しく感じられるものであった。A君とT君は先に晩飯を済ませていたが、その2人が先に腰を落ち着けた"鮪蔵"という店の閉店時間が迫っていたので、私とO君は取りも直さずタクシーを用いてその店へ直行。着いた周辺には魚料理を食べさせる料理屋が軒を並べ、魚市場らしき大きな建物もあって、駅前と比べてやや活気を漂わせていた。

店に入りO君と乾杯する。程なく出てきた刺身や天麩羅の数々に舌鼓を打つ、期待通りの味だ。特に金目鯛が旨い。自転車を長時間走らせていると本当にお腹が空くので、私は年甲斐もなく丼飯を3杯もおかわりしてしまった。すっかり満足した我々は宿へと歩き、ようやく先に着いていた2人との再会を果たす。しばしの歓談後、既に夜も更けていたのでそれぞれ床に就いた。が、先に噂では聞いていたA君のイビキというのが、想像を遥かに超えた日本代表級の凄まじさで、前夜も寝不足で疲労しているというのになかなか寝付くことができない。最初はイビキのバリエーションが豊かなことに笑いが止まらず眠れない、そのうち慣れてはくるが、あまりの音量の大きさに眠ることができない・・

結局、準備良く耳栓を持参していたT君こそ熟睡できたものの、私とO君はあまり睡眠時間を取れないまま朝を迎えた。まあこれは自転車を置いて電車で来た我々に対する天罰ということなのかもしれない。ともあれ、我々4名は朝食を終えて宿をチェックアウトした。歩いて駅まで向かい、銚子電鉄で犬吠崎へと向かう。

経営難やぬれせんべいの販売、ファンが多いことなど何かと話題の多いこの銚子電鉄であるが、休日ということもあってか車内は乗客でそこそこ埋まっていた。江ノ電のように駅間は短く、狭いところを縫うように走る。そのうちに車窓には畑が広がるようになり、そう時間も経たないうちに終点手前の犬吠駅に到着。駅から犬吠崎灯台までの道程には、やたらと"地球が丸く見える"というキャッチフレーズの広告が目立つ。確かに長く伸びた水平線を眺めていると、それは真っ直ぐではなく丸まって見えるのだ。雄大な海を見やりつつも5分歩くと灯台の下へと来た。150円払って敷地に入る。99段の螺旋急階段を登ると、灯台の上から地球がやはり、丸く見えた。灯台の敷地には他にもちょっとしたミュージアムが併設されていて、安価な入場料にしては内容が充実していた。

その後、駅から見えた巨大な、成金趣味の寺院にも行ってみた。ここに巨額の寄付金を贈った人は石碑を建ててもらえるようで、何十本と建つ石碑の中に寄付5000万円と銘打たれたものがあるのには驚かされた。そんなこんなで昼時を迎え、我々は銚子市街へと戻り昼食をとることにした。銚子駅までは戻らず手前の駅で降り、昨夜訪れた飲食店密集地の辺りへと歩く。ヤマサの大きな工場からは醤油の匂いが強く漂っている。閑散とした町並みを越え目的地に辿り着くと、その通りにだけ大勢の人々が現れ、飲食店の前に列を成していた。これはかなり予想外の出来事で、我々もその中の一店舗にあたりをつけ並んだが、いざ料理を目前にするまでにそれから1時間近くを要した。私は昨夜の味が忘れられず、金目の刺身定食を注文。やはり旨い。いつの間にか我々は、これから自転車で帰宅するというのにも関わらずビールを何本か空け、すっかり気分のいい状態になってしまった。

さて、帰宅である。A君とT君は自転車を分解し袋に入れ、共に家近くの駅まで電車で帰ることにしていた。私は自転車を置いてきた滑河駅で降り、その先を考えなければならない。だんだんと帰りが憂鬱になるも、私は滑川から自転車を1時間ほど走らせ、成田から京成スカイライナーで帰るというルートを憂鬱の中で選択した。銚子駅で50分待って乗った電車は、1時間掛けて滑川に着いた。3人と別れ、自転車をゆっくりとスタートさせる。既に夕暮れ時で、間もなく暗くなった。周辺の民家から発生する焚き火の煙が、自転車に乗った私を直撃し悩ませた。わずか1時間のツーリングながらもすっかり疲弊した状態で私は成田駅へと辿り着いた。早速、自転車を分解し始めるのだが、1年半ぶり2度目のこの作業に手間取る。「ここはこうして・・あれー?」などと独り言を発しながらの分解・袋詰め作業には30分を要し、乗車予定のスカイライナーにはぎりぎりのタイミングで乗れず、そこから45分間、次のスカイライナーを待つことになった。なんとも待ち時間の長い旅であった。

11.26.2007

自転車旅行 -銚子編-

いつの間にやら木枯らしの吹く季節となった。アツい夏の間、結局どこへも冒険に出向くことなく日々を過ごした私の元に、秋も深まった頃合いで友人から「自転車で銚子まで行かないか」というオファーが届いた。

今回は十日町への旅に同行してもらったT君を含む、A君、O君との四人旅である。しかし、四人で併走する姿なども思い浮かべながら臨んだ"打ち合わせ"と称する飲み会(於:アントニオ猪木酒場)の中で、元よりいい加減なこのメンバーでは何も決まることもなく、ただ現地集合ということだけが定められた。従って、各人がルートや出発時間をまちまちに計画立てることになったわけだが、私は一応朝8時出発で千葉県中央部を通っていくということに決めた。

しかし物事は予定通りには運ばないものである。アントニオ猪木氏は「一寸先はハプニング」などという造語をよく用いているが、私の身にも前夜にあるハプニングが降臨し、眠れなくなってしまった。朝7時にセットした目覚まし時計が鳴り、それを一睡もできずに止める。そしてその直後に睡魔が襲い、起きたら10時を過ぎていた。呆然としているところにA君からの電話が入った。「今どこら辺?」と聞かれ、寝坊してまだ在宅している旨を伝えた。彼は電車に自転車を乗せ取手に向かい、下車して既に走り始めているということだった。

天候は良く、ツーリングにはもってこいの日だ。しかし睡眠不足といきなりの予定変更によって、私のモチベーションは大きく下がってしまった。ゆっくりと朝食を食べ、コーヒーをおかわりしているうちに正午を過ぎる。他のメンバーはどうしているのかと思いO君の動向に探りを入れると、彼もまたモチベーションが低下しているようでまだ家にいるということがわかる。ここで相乗効果が発生し、益々私の足取りは重くなる。こうしてアントニオ氏の言うような「迷わず行けよ、行けばわかるさ」というわけにはいかなくなり、迷い抜いた挙句、結局1時頃ようやくスタートすることになった。

明治通りから国道6号を走って松戸に至る。道は自動車で混み合い、側道も狭く危険を感じ主に歩道を走ったため、思うように距離が稼げず疲労も普段より蓄積する。6号線から逸れて松戸市内を抜け、北総開発鉄道沿いの国道に入るとようやく走り易くなり、スピードを上げてぐいぐいと進む。だが既に3時を過ぎ、早くも夕暮れ時に差し掛かっている。銚子まで完走するのは無理だということはスタートが遅れた時点でわかっていたが、そろそろ目的地を定めないといけない。私は白井駅付近で休憩がてらにラーメンをすすりながら地図を広げ、成田という選択肢と利根川沿いまで行くという選択肢の間で悩んだ。成田であれば、特急電車も停まるだろうし自転車を乗り捨てた後銚子まで行くルートに広がりを持たせられる、しかし利根川沿いの自転車道を少しでも走ってみたい。私は少し不安を抱きながらも、利根川沿いまで北上することを選んだ。まあ、行けばわかるさ。

北総開発鉄道沿いの道に別れを告げ、北上ルートを辿って利根川へ。日は沈み、時計の針は5時を回っていた。満月を進行方向に仰ぎながら、暗がりの土手上にある自転車道に合流する。左手には河口まで70キロ近くもあるのに、早くも雄大な佇まいを誇示する利根の流れが蛇行している。幻想的な光景であった。私は20キロほど先にある滑川という駅を終着の地と定め、ラストスパートを開始した。T君から連絡があり、A君と共に銚子に着いているということと、O君の所在が不明であるということを聞いた。

6時過ぎ、滑川駅着。ちょうど5時間のサイクリングだった。ここから銚子駅までは電車で1時間ぐらいのはずである。が、時刻表を見ると、なんと次の電車まで50分待たなくてはならないことが判明した。そこで待ち時間を使って、私はO君の所在を確かめることにした。携帯電話からメールを送ると程なくして返事が来た。彼は私より更に2時間も迷っていたようで、3時にようやく出発。東京から千葉駅まで自転車を漕いで、そこから電車で銚子に向かっているとのことであった。その後長いこと待たされてようやく滑河駅に到着した銚子行きの電車には、偶然そのO君が乗っていて、二人とも同じ電車で銚子へ向かうという、なんともしまらない顛末で往路を終えたのである。

(続く)

11.12.2007

MP3 PLAYERと、私

相も変わらず自転車に乗り続けている私だが、少し遠くへ行く際にはipodのお世話になるという癖がついてしまった。元々私はipodになぞ興味がないどころか、アンチを貫いていたにも関わらず・・

何故私がipod(というより、携帯型の音楽再生機全般)を問題視していたのかというと、それがユーザーの自己愛と鈍感力を助長しているとしか思えなかったからだ。電車に乗っていても、疲労感を顕わにした老人がヨボヨボと立っているその前に、どっかりと股を広げて腰掛けている若者の耳にイヤホンが突き刺さっている姿は今や日常茶飯事の如く目に入る光景である。この若者は多分、自分で選び抜いた音楽の世界に入ってしまって、目の前で座りたそうにしている人がいるということに気がついていないんだと思う。

また、ニューヨークのような格好いい都会にはじめて出かけたとしよう。空港へ降り立ち出国手続きを終え、地下鉄に乗ってマンハッタンへいざ行かんとする若者の耳にはやはり、イヤホンから流れる「自分のフェイバリットソングス・NYCバージョン」が鳴り響いているのではないか。少なからず存在するであろうそういった人たちについて私は、もったいないと思わずにはいられないのだ。見聞という言葉があるけど、はじめての場所で街の音から耳を閉ざしていては、半分(つまり見聞の、見)しか世界が広がらないではないか。そんなに自分の世界を守って、愛してどうするんだよ・・

なんていう持論を抱えた私に、とある知人がタイ土産という名目で小さなipodをプレゼントしてくれた。何故タイの土産がipodなのかは全くもって謎に包まれているのだが、一応タイっぽいイメージのゴールドカラーであったことを記しておこう。兎に角、期せずしてipodを所有することになってしまったのである。

いくら頂いたからといっても、そんなに嫌いならば放っておけば済む話なのだが、私はipod(シャッフルとかいう機種です)の余りの小ささに心を奪われてしまった。元来音楽好きで、またPCではiTunesをプレイヤーソフトとして使用していたせいか、この小さな機械にお気に入りの音楽を詰め込み、街へ出て行くまでにそう時間はかからなかった。最初は「自転車に乗るときは危ないから止めよう」と思っていたものだが、一度それを試すと、疲労が半減するような気がした。その効果を理由に自転車外出の際、ipodが手放せなくなってしまったのである。

こうして、晴れて自己愛の囚人と化した私は今日(正確に言えば昨日)も所用をこなしに台東区から板橋区へと、音楽を聴きながら自転車を走らせた。用を済ませ、外していたipodを再び装着して外に出ると雨が降っていたが、それでもイヤホンをつけたまま台東区へと戻る。道中、雨は徐々に激しさを増し、自転車のスピードも鈍る。が、流れてくる音楽に勇気付けられつつなんとか台東区へ入り、家の近所までたどり着いた。目の前に迫る信号は変わらず青のままで、私は右折すべく体を傾けた。右折した先に、車線を逆走してきた自転車2台が突然視界に現れた。急ブレーキをかけてハイドロプレーン現象を起こした私の愛車は大きく傾き、とっさに伸ばした右足でなんとか転倒を防いだ私の体は、気がつけばサドルから降りて車道に立ち尽くしていた。何の挨拶もなく2台の対向車は遠くへ過ぎ去り、私は呆然としたまま左手でかろうじて自転車のハンドルを握り締め、右耳からはイヤホンが抜け落ちていた。

雨で視界不良の中、聴覚を自ら塞いでいた私の落ち度であった。

10.17.2007

自転車で帰郷

帰郷なんて書くと大げさだが、去る週末に現在居を構えている板橋から実家のある藤沢までを自転車で往復することにした。復路の途中、あざみ野でフットサルを2時間プレイするというオプション込みでの挑戦だ。オプションを除いて考えても、十日町まで行った経験以外では今までで最長の距離を走ることになる。

思えばこの夏、私は昨年と同様にどこか遠くまで自転車で行ければと願いつつも叶わず、その間の暴食もたたって気がつけば中量級のK-1マックスに出場できるか怪しいところまでに体重が増加していた(もちろん、K-1側からオファーが来ているわけではない)。十日町遠征時に激ヤセした効果の再現も少し期待しつつ、予定よりやや遅い14時過ぎに板橋をスタート。目標時間はやや余裕を持たせて、6時間と設定した。

実は1年前十日町へ行って以降、私の愛車はメンテナンス不足もたたって不調を極めた。複数の部品が壊れ交換し、2度に渡って自転車屋にメンテナンスをお願いした。スーパーマーケットで購入した安物のBMXなので、さほど耐久力も強くないのであろう。新車購入をも視野に入れている私は、この自転車とのロングツーリングも最後かもしれないという感傷を抱きながらペダルをこぎ始めたのであるが、意外やこのツーリングは順調な滑り出しとなる。

山手通りを南下し、神泉からR246を西へ。二子玉川到着までに休憩含め2時間と見積もっていたが、30分も早くかの地を通過する。事前にメンテナンスを行っていた甲斐あって愛車の調子がいい。工事中の山手通りも、車道を走るのが難しい代わりに工事の好影響で歩道がやたらと広い。こういう時に車道と歩道を選択しながら進めるのは段差に弱いロードバイクと違う、BMXのいい所だ。

途中ラーメン屋にピットイン。自転車をこぎ続けると実に腹が減るので、これはダイエット中といえども仕方がなかろう。R246も神奈川県に入ると坂が多く、また自転車通行を禁じた箇所も増えて、スムーズに事は運ばなくなる。が、あざみ野通過を想定時間の1時間も早く達成してしまう。これは随分と早く実家に辿り着いてしまうなと思ったが、夕暮れ時になり、闇の世界が私に迫っていた。このまままっすぐ西へ行くと、境川を越える。神奈川県中部を流れ江ノ島付近に河口を持ち相模湾へと続くこの細い川に沿って自転車道が整備されているという情報を事前に仕入れていた私は、R246を降りて少し迷いながらも境川の自転車道を発見し、下流に向かって進むことにした。

しかしその時点ですっかり夜になっていた。自転車道はそこそこ整備されているものの、照明など何もなく大変暗い。この先スピードダウンを余儀なくされた私は持ち合わせていたipodから流れる音楽を聴きながら、ひたすら田舎道を進んだ。自転車道ということで自動車に気兼ねせず走れるのは大変好ましいのであるが、コンビニや自販機などがまったく存在せず休憩スポットを設定できないのはつらい。暗がりの中を、多少感じてきた疲労感と戦いながらゆっくり進んでいくと、ipodから友人の弟(ラッパー)がリリースした曲が流れてきた。横浜の、それも特にドリームランド周辺をテーマにした曲に耳を傾けていると、本当にドリームランドの夜景が見えてきた。このあたりはそれこそ自転車で、中学生時代に走っていた地域だ。引越しを繰り返してきた私に久しく訪れなかった"地元愛"のような感覚が、疲労と相成って湧き上がった。そこからはかつて知ったる道を辿りながら、実家に到着した。出発から5時間、当初予定より1時間早かったが、あざみ野通過時点からは予定を短縮することができなかった。

あくる日、実家で英気を養った私は16時にあざみ野で開始するフットサルに向けて13時前に実家を出発した。境川沿いを戻っていくつもりであったが地図を見たらドリームランド付近から環状4号-中原街道といった道を行くほうが距離としては短いはずだとわかったので、昼の境川にも未練はあったものの、距離短縮を優先させることにした。

東京と比べて、横浜はアップダウンの多い地形だ。往路にもそれは実感したが、復路の環状4号-中原街道において私はそのことを痛感させられた。それでも黙々とペダルを漕いでいくと、あざみ野のフットサルコートには2時間強でたどり着いてしまった。涼やかな秋の曇り空の下、びっしょりと汗をかいた私はアイスクリームをほおばりながら仲間の到着を待った。

程なくして仲間も集い、フットサルが始まった。事前の予想では、私はこの時点でボールを追いかけて走れるような体調にはないだろうと思っていたのだが、実際に相当疲労していたにも関わらず私はパブロフの犬が如く、スペースがあればそこへ走りこみ、カウンターを食らえばあわてて戻るという行為を繰り返していた。2時間後、疲労し切ってしまった私は「帰りたくない」なんていう我侭を仲間に洩らしながらも、帰らなければならないという現実に直面しつつ、重い足を回し始めた。往路は2時間で済ませた距離を、再びラーメン屋込みで3時間かけて板橋に至ることとなった。シャワーを浴びてから計量したところ、私の体重は1.5キロ減少していたのだった。

10.06.2007

植村直己について

諸事情が重なり、台東区から板橋区へと引っ越すことになった。実は数ヶ月前から両区を行ったり来たりしているのだが、年末には台東区の家を引き払う予定だ。

引越し先から程近いところにある商店街を歩いていると、古い構えの豆腐屋があった。そこは1984年にマッキンリーで行方不明となった植村直己にゆかりのある店だという噂を聞いて、植村のことを調べてみると、彼は最後に消息を絶つまでの10数年間を板橋区民として過ごしたということがわかった(最も、半分ぐらいは海外などに遠征していたようだが)。また、植村冒険館という施設が区内に存在することも判明したので、暇をみて行ってみようと思い立った。

それから、なかなかその日程を組むこともできずに月日は流れ行き、その間に私は植村に関する著作を読みふけったりもして、益々彼への憧憬を膨らませながら過ごしたわけなのであるが、ついに先日、暇を見つけて植村冒険館を訪れることができたのである。

板橋区の新居から自転車で出発。そこから冒険館までの道程は偶然にも、半年前まで通っていた自動車教習所へ行くバスのルートと一致していた。懐かしい風景を堪能しながら私は、植村の魅力について思いを募らせ、それを整理しながらペダルを漕いだ。

私が惹かれた植村の魅力を一言で表現すれば、「単独行」という彼のこだわりに尽きるのである。植村はまだ無名だった若い頃にエベレスト日本人初登頂を目指す一隊に加わり、そのずば抜けた体力を買われて最終的な登頂アタッカーへと抜擢され見事にそれを成し遂げるのであるが、その過程においては多くの人々に支えられたということに感謝し、また大勢の人に支えられながらも一握りの者しか栄誉を勝ち取れないという冒険の在り方に疑問を覚える。そこから、彼の単独行志向がはじまる。

そんな植村の精神は、有名になった後年、スポンサーがつくようになってからも変わることなく続いた。自分の冒険のために集められた資金を冒険以外のことに使用することを厳密に禁じた。北極にて偉業を成し遂げた直後、米国政府からねぎらいのレセプションに呼ばれた際に「私はそのような場に出る服を持ち合わせていず、また冒険のために集められた資金を礼服の購入に用いるのは筋違いなので、私が持っている服で出席してもいいようなレセプションでなければ断って欲しい」というような主張を曲げなかったというエピソードは、彼にまつわる様々なエピソードの中でも私が好きなものの一つである。

そういった事前に仕入れた植村のイメージで頭を膨らませながら、私は目的地に辿り着いた。入館料は無料だった。ここで詳細を記すことは止しておくが、生誕からの彼にまつわる出来事が年表化されてパネルになっており、私はそのいちいちに思いを巡らせ、植村観を膨らませたり修正したりしながら、メイン展示場に進んだ。そこでは植村を単独行へと向かわせた、エベレスト登頂時に使われた登山用具の数々が置かれていた。私は登山に詳しいほうではないのだが、そこにあった用具は皆当時の最先端をいく物であったのにも関わらず、私の想像を超えるような便利なものではなく、現代なら手軽に調達できそうな物ばかりであった。もう40年以上前に使用されたものなので無理はないが、当時はこんな装備で極地へ向かっていたということに感嘆した。

エベレスト登頂時のディスプレイを見終えると最後に、大型テレビで植村のDVDが放映されていた。若き日の植村夫人もそこには登場していた。結婚した数ヵ月後には長期の遠征に出ていた植村を、結婚生活の多くにおいて、最愛の人の生死をテーマにしていたであろう彼女の心理状況とは、いったいどのようなものなのだったであろうということを否応なしに連想させられた。

ここに余すことなく表記すると何行に渡るかわからないほどの感傷を抱え、展示室を後にしようとする私に、受付にいる初老の女性が欲のない、実に純粋な表情で「ありがとうございました」と声を掛けてくれた。どことなくDVDで見た植村夫人の趣が重なって、「あなたは植村さんの奥様ですか」と聞きたくなったのだが、できなかった。帰りがけに通りすがった古い構えの豆腐屋は、夫人の旧姓に豆腐店という文字が連なる名称であった。

9.13.2007

懐かしき山盛りのラーメン

先日体重計に乗ったら、過去最大の数値を示していた。これはまずいと思って数日の間意識的に体を動かすようにしていた矢先の出来事である。

夜、池袋で用事を済ませ、さてどうしようかと思いながら街をぶらつきだすと、学生の頃に幾度となく足を運び、社会人になってからも最低数年に一度は顔を出しているラーメンチェーン店の看板を見かけてしまった。ほぼ反射的に、入店を待つ人の行列へ向かい、その一員となる。

しかし私はダイエット中の身であり、更に言うと、その時点で腹を空かせている訳でもなかったのだ。ここのラーメンは量が尋常ではないことで良く知られている。ここはひとつ、ラーメンを諦めて家に帰るべきかとも考えたが、その時点で私の後ろにも既に数人並んでいるという人気っぷりにも押され、なんとなく躊躇しながらも並び続けることにした。

この店は量と共に、注文の仕方が特殊であることでも有名だ。大盛りやチャーシューの数を増やすというチョイスは有料で行われるが、それ以外にも無料で野菜やニンニクの量、味の加減などを調節してくれる。それらを、ラーメンが運ばれてくる直前に要望するのだが、並びながら先に座っているお客さんを眺めていると、無料オーダーのやり方が私の覚えているやり方と若干違っていることに気付いた。

これは池袋店だけの話なのかもしれないのだが、私の知る限りでは、例えば野菜を増やして欲しい場合は「野菜」とか「野菜増し」と言えば良かった。しかしここでは「野菜増し増し」と要望するお客さんが多かった。そうして運ばれてくるラーメンに乗っかった野菜は、以前私が「野菜」とだけ注文して出されたものに乗っかっていた野菜の量と同じ、剣山のように盛り上がった異常な量のそれであった。また、従来私がやっていたように「野菜」とだけオーダーする人もいたので、その人に運ばれてくるラーメンを注目して見たが、「野菜増し増し」とは明らかに違う、常識的なトッピング量のものだったのだ。

そんな観察をしながらも私が席に座る番になり、程なくしてトッピングの具合を聞かれた。私はまたしても反射的に、今覚えたばかりの「野菜増し増し、辛め」などという呪文を唱えていた。スープの上に富士山の如く盛り付けられた野菜が乗っかった一物が目前に届けられた。チャーシューも麺もトッピングの下に埋もれて見つからない。なんとか食べ終えて帰宅し体重計に乗ると、数日前の数値を大きく更新していたことは言うまでもないだろう。

8.11.2007

打楽器の調べ(あるいは、その周辺)

友人Oが運営に関わっているという打楽器中心のコンサートを見に、また新潟県の十日町まで行ってきた。今年は自転車でなく自動車で赴いた。実は去年自転車で当地を訪れた際にも滞在期間中に"世界太鼓フェスティバル"というコンサートを見ていて、見るだけでなく会場の設営や撤収の手伝いまでしたのであるが、この度見たコンサートの出演者は"世界太鼓フェスティバル"にも出ていた音太鼓座(おんでこざ)とPURIの2組。更に言うと、今年も運営のお手伝いをしたので、焼き直しのような体験をしたとも表現できそうだが・・

私を含めた今回のコンサートを手伝う人数名を乗せた車が現地の宿舎に到着したのは夜の12時頃だった。利口な人はここで明日に備えて眠りにつくのだが、馬鹿な私と友人O、そして馬鹿ではないが好奇心旺盛な同行者の一部がビールを片手に宿の外にあるオープンデッキへ足を運ぶと、先客2名が既に酩酊した状態で会話を繰り広げていた。一人は数日前からここでボランティアとして生活しているという青年、もう一人は60歳前後の紳士で、コンサートに出演するアーティストのマネージメントをしている会社の社長ということだった。2人のオープンな雰囲気にのまれ、合流した我々は酒を振舞われつつもとりとめもなく話を続け気付いたら時計の針は4時を回っていた。ここでまだ飲んでいる先客の2人を残して我々は退散。僅かばかりの睡眠を取った。

2時間程度休息した後、早朝から我々はコンサート当日の行動を開始した。とはいえ、当初の予想以上にコンサートの準備はこの時点で完成していたため、座席を整えた後、私はOと共に会場近くの駅前にチケットブースを開き、イベントの告知を兼ねてチケット販売を行うことになった。10時ごろから販売を開始。しかし駅前といえど、そこは田舎なのでまず人通り自体がほとんどない。そう、ここは山と林と棚田に囲まれた静かな田舎町なのである。途中チケット販売を別のコンビに交代してもらったが、17時までブースを開いて全体で売れたチケットはなんと1枚のみであった。

それでも前売りで相当量売れていたらしく、屋外にある会場は開演時間が迫るにつれ徐々に埋まっていった。開演の頃にはほぼスペースが埋まっていたように思う。私はビデオ撮影による記録係を任ぜられていたのでスタンバイしたところ、プロのカメラマンが何人か入っていたので、彼らに遠慮して周辺からの撮影に徹することにした。しかしこれが私の体力を大きく消耗させる要因になった。三脚を持って様々な場所を彷徨いながらの撮影、下手糞ながらも元来撮影好きであるため、朦朧としながらも夢中になってファインダーを覗く。そんなこんなでコンサートが終わったときに私は倒れそうになっていた。

音楽自体は大変聴き応えのあるものであった。"世界太鼓フェスティバル"を見たときから密かに注目していたPURIは、去年より難易度を下げた演目に終始した感もあったが、それでも独特の、様々な拍子をコンパイルした不思議な音を鳴らし、音太鼓座は相変わらずの迫力あふれる演奏に加え、剣玉によるパフォーマンスなどで観客を魅了していた。撮影なんかしていなかったらおそらく、打楽器のリズムが遠く棚田の方にまで沁み伝わっていくような幻想的な感覚を味わえることができただろうが、私はむしろカメラを通した狭い視点から見ていたせいか、狭い屋内で演奏を聞いているような感覚になってしまったのが残念といえば残念だ。

宴は終わり、会場の撤収作業の後軽い食事を取ると、もう夜の12時近くになっていた。私は宿に戻りすぐにベッドへ入ったのだが、何故か3時前には起きてしまった。仕方がないので前夜と同じくオープンデッキに足を運ぶと、なんとまたボランティアの青年と社長が酒を飲んでいるではないか。この人たちは一体いつ寝ているのだろうか?私は唖然としながら、そこからまた6時ぐらいまで彼らの酒に付き合うことにした。思えば昨年も、十日町に到着後の日々は夜な夜な酒を囲み語らい寝ないというものであったので、やはり前述の通りある意味コピー体験となったのであるが、しかしどうして毎度こんなにも無茶なことをして体がもつのだろうか。

あくる日東京へ帰る車中で、同行者の一人がふと(この人は連日夜明けまで酒席にいたわけではないのだが、それでも大して眠れなかったらしい)「あまり眠れなくても、こういう空気の澄んだ場所だと眠りが深くなるのか、日中も起きていられるのよね」というようなことを洩らした。それは実に腑に落ちる言葉で、私はああなるほどと思い、東京に着いた途端に吸った空気のまずさが急に気になるようになった。

7.24.2007

PC同時多発クラッシュ顛末記

7月某日、某所で私が他者と共有しているPCのOSが起動しなくなった。原因はサービスパックのアップグレードがうまくいかず、2種類のOSが変な具合に混合してしまったためと思われる。OSメーカーのせいにしたいところだが、アップグレード作業を行ったのは私なので、PCを共有する他者の暖かい理解と協力を得ながら、またIT関係に詳しい友人の知恵を拝借しながら復旧作業に取り組んだ。

まずは友人の好意により頂いたOSメーカーの有料サービスチケットを元にメーカーへ電話連絡。なかなかつながらずもようやく出た先方は、症状を一通り聞いた後でにべもなく「PC本体のメーカーに問い合わせて、それでも直らなければ再度連絡してください」と言う。言っていることに筋は通っているし理解はできるが、こうした問い合わせをしてくる者の状況や心理をもう少し酌んでくれないものかな、と思う。気を取り直してPCメーカーに連絡。この電話もなかなかつながらなかったのだが、出てきた人のガイドに従い色々と調べていくうちに、やはりハードディスクの障害はなくOSに問題があるということがわかり、こちらでは「OSを再インストールするしかないですね」という、ある結論を導いていただいた。

そんなこんなで、緊急に使用する必要があるというほどではなかったためPCの回復作業を次週以降に持ち越し、週末実家に戻ると、もう8年も使っている実家のPCが起動しなくなっていた。これはもうなんとも原因不明というか、寿命というか、特に大切なデータはバックアップを取っていて、またPCの故障復旧にはげんなりしていたこともあって、その時私はあっさりと"回復不可能"という烙印を押した。

そして東京の自宅に戻り、自分のノートPCを開いてスイッチを押すと、なんとこれまた立ち上がらないのだ。いったいこの異常事態をどう説明したら良いのか、私の手先から邪悪な電流でも流れているのだろうか・・触るPCが皆傷ついていくという現象に私は恐れをなした。PCを使用し始めてから約10年、今までこういったトラブルとは無縁できたのだが、数日間で一気に3台も使用不能状態になるとは。

週が明けると、私は必然的に複数のトラブルを解決するために奔走することになった。まずは共有しているPCの復旧である。困ったことにこのPCと私のプライベートPCに関しては、ハードディスクからデータを抽出する必要があった。私は再度OSメーカーに問い合わせると、この時の担当は何とも親切でプロフェッショナルな人であった。電話を片手に2時間強もの間、彼は声色に疲れ一つ見せず、それどころか私の疲れを敏感に察知しねぎらいの言葉をかけながらもナビゲートしてくださった。CDからの起動もなかなかままならず、DOSの画面からコマンドを打ち続けなんとか起動に成功。バックアップデータを取得し、OSの再インストールで復旧ができるところまでこぎつけた。

大きな問題を抱えていたのは、自分のノートPCであった。こちらはハードディスクに障害を持ってしまったようで、電話サポートではにっちもさっちもいかないよ、と思わせる趣きを湛えていた。私は彼女が使用しているMACを、「これも壊すんじゃないか?」などと恐れつつも使用させてもらいインターネット上を検索。秋葉原のとある会社にあたりを付け、データの復旧作業をお願いすることにした(彼女のMACは幸いにして無事である)。現在データは外付けのハードディスクに保管され戻ってきたものの、ハードディスクは取替える必要があり、OSや各種ソフトも購入しなければならないという状態なので、この際新たにPCを購入したほうがいいのかもしれないと思案しているところ(姉妹サイトである「世界の風景(仮)」は、この問題を解決次第再開します)。

共有PCはその後、OSの再インストール時に私の無知から紆余曲折を招いたものの、復帰を果たした。最も不思議であったのは実家にある古PCで、翌週末に何気なくスイッチを押したところ、何事もなかったかのように起動したのだった。前の週にあのタイミングで起動しなかったのは、何かの嫌がらせとしか思えないような出来事だ。PCだって人間のようにベテランにもなると、一筋縄ではいかないものなのかな。

7.12.2007

自転車旅行 -十日町編- 2

3日目の朝、熟睡から目覚めたらいよいよ脚が上がらなくなっていた。昨日までに肩と、臀部の痛みは発症していたのだが、いよいよ本命がやってきたという感じだ。

昨日自転車の大クラッシュにより負傷した友人は、どうやら旅を続行する気である。途中で「輪行バッグ」なるものを買って、自転車をそのバッグへ入れて電車に乗って追いかけるということだ。輪行とは自転車界ではメジャーな用語であるらしいのだが、私はその時初めて耳にした言葉であった。自転車を別の交通手段に積載して、自らもその交通手段を用いて目的地まで行くような意味なのであるが、例えばJRでは裸で自転車を電車に載せるわけにはいかず、分解して袋に入れて載せることが義務付けられている。そのための袋が輪行バッグというわけだ。これは後々使いそうだと思ったので、私の分もバッグを購入してもらうよう友人にはお願いした。

この日は山越えである。東京から沼田までの道程においては、沼田付近に到るまで特に目立つ坂道などなかったのだが、昨日の夕刻ごろ走った沼田周辺では素人には厳しい登り坂と、それに続く長い下り坂が待ち受けていた。快晴の朝、猛暑の中ノロノロと私はペダルを漕ぎ始めたが、脚が思うように回らない。6段変速ギアの中で、昨日までは6速を使っていたような平坦な所でも3か4速しか使えず、3速で登っていたような坂では1速しか使えないような体たらくだ。

しばらく走ると、三国峠という本格的な山道に差し掛かった。山道と言っても自動車用のもので、しっかりと舗装されたものなのだが、歩道はほとんどなく、側道も狭いので自転車にとっては非常に危険な場所だ。1速で少し進み、やがて自転車を降りて押して歩くという行為を繰り返す。そのうち全く自転車にまたがらなくなり、ひたすら押して歩くようになる。周囲は完全に森の中で、携帯電話のアンテナも立たない。太陽は道路を容赦なく照りつける。だんだんと、私は何でこんなことをやっているのだろうか?という気になり、更にはシジフォスの神話であるかのごとく、私はこの不条理をあるがままに受け入れるようになる。私は、下るためにこの厳しい上り坂を歩いている。そして下り坂は、その後また上るために存在しているに過ぎない。その繰り返しなのだ、と。

ふと気がつくと、トンネルの入口が見えてきた。その先は新潟県だと表記もされている。どうやら登るのはここまでということらしいが、いったいどれぐらいの時間が経ったのであろうと思って時計を見ると、まだ正午を過ぎたぐらいのところを針は指していた。永遠にも感じられた時間は、たったの3時間弱だったのである。これには拍子抜けした。ここから先の長い下り道は実に痛快なものであった。まさに上り坂は、下り坂を走るためのものであることが再確認されたわけであるが、その意味合いは先程までのシジフォス的無感情なものではなく、大変前向きなものへと変化を遂げていた。苗場のあたりで友人からの連絡が入り、越後湯沢駅で待っているとのことであった。その後上り坂があり、再び地獄へ落とされたかのようなショックを受けたものの、その坂は大したものではなく、また長い下りが続き、平地へ降りるとすぐそこに越後湯沢駅があった。

越後湯沢から十日町まではまた大きな峠を登って降りる必要があるのだが、私は友人と会い、1も2もなくここから十日町までは輪行しようということになる。電車を使ってシジフォスの輪廻から脱却しようというわけだ。はじめての輪行である。近所のレンタカー事務所からレンチを借り、自転車を分解し袋に詰める。慣れないのもあって30分ほどかかった。この先私たちは電車に乗り、何泊かした十日町でも濃厚な時を過ごしたのだが、自転車旅行としてのハイライトはまさにここに綴った3日間であり、その後の経過は省略する。この旅によって体重が5キロも落ちた私も大変なことは大変だったが、不慮の事故によって怪我まで負った友人のその後の奮闘振りには今でも頭が下がる思いだ。

ここまで、去年の思い出話が長くなってしまったのだが、先日その友人を含む4名で落ち合い、馬鹿な話に興じていたところ、「今年も自転車でどこかへ行こう」ということで盛り上がり、皆で場所を検討しあったのであった。遠出初体験の新潟行きを超えたインパクトのある、非日常体験をするのは容易ではないかもしれないが、一度このような無謀な冒険を行ってしまうと、その再現を夢想したり調査したりするという時間が発生し、それ自体がまた非日常的で楽しいものなのだと今、感じている。

7.09.2007

自転車旅行 -十日町編-

今年もアツい夏が到来した。

内輪話から始まり恐縮なのだが、去年の今頃だろうか、仲間内の一部で「アツい夏」という言葉がキーワードとなった。その先鞭をつけたのはおそらく私が突発的に「自転車で東京から新潟県まで行ってくる」と発表したからである。私が乗っている自転車は近所のスーパーで購入したシボレー製のモトクロス風バイクで、とても遠出に適しているとは言えず、また自転車に責任転嫁するまでもなく、私自身が普段から特に体を鍛えてもいず、自転車を趣味として乗り回しているわけでもなかった。つまり無謀な企みだったのである。

しかし私には幸いにも、この発表を受けて賛同し、共だってくれる友人が存在した。私はその彼とスケジュールをすり合わせつつも、同時に出発することが難しそうな状況であったため、去年の8月某日夜に自宅のある東京を離れた。何故夜に出発したかというと、真夏の日差しを少しでも避けるという狙いと、目的地である新潟県十日町市までの距離やどこに宿泊地を設定するか、私が1日にどの程度の距離を走れるかなどを想定した結果、導き出された判断なのであるが、1日にどれほど動けるかなんてことは、今までに一度も自転車で遠出をしたことがない者にとって計算のたつものではない。結局のところ、直感で決めたわけだ。

初日の夜は3時間程度走り、大宮の先にある街道沿いの漫画喫茶で休止し一夜を明かした。しかし士気が高揚してしまいなかなか寝付けず、ほとんど徹夜に近い状態のまま次の日を迎えた。友人はこの日、千葉県の自宅から私を追いかけてくることになっていた。

2日目、どこまでも平坦(に見えるが、おそらく緩やかな登り傾斜なのであろう)な埼玉県を走る。ほぼ徹夜明けの体にも関わらず快調に時速20キロ平均で飛ばしていく。「マルホランド・ドライブ」という映画で、デビッド・リンチはマルホランド・ドライブと書かれた道路標識がゆっくりと流れていく車窓を何カットか効果的に使用しているのだが、20キロで走る自転車から見た"高崎まで何キロ"なんていう標識の移ろいはまさに、そのカットの臨場感を再現しているかのようだった。自転車を走らせて得る爽快さと、徹夜明けの気だるさ、それにそろそろ気になりだした荷を背負う肩の痛みを複合的に感じながら、昼過ぎには群馬県に入る。気のせいか、急に道が良くなったような印象を受ける。ここまで内地へ来ても、利根川が大河の趣きを残していることに、やはり隅田川や多摩川とは格が違うなと感じ入る。

と、至極順調なサイクリングを遂行していた私に衝撃的な一報が届けられたのは、私が高崎・前橋と過ぎ渋川付近の街道沿いにあった温泉で休憩している最中であった。昼を越え、夕方に差しかかろうという時である。私を追いかけていた友人の自転車が、走行中にいきなり前輪を外し、バランスを失った友人は顔面から道路に突っ込んで負傷したというのだ。電話から聞こえる友人の声は比較的平静なものであると理解したが、その友人は元々、相当に肝の据わった性質なので、怪我の具合やツーリング続行の可能性が今ひとつ判断できない。私は気の利いた台詞を言うこともままならず報告を受け、とりあえず出発。沼田にある温泉施設のカプセルルームに投宿した。

(長くなりましたので続編を設けることにします)

6.27.2007

「世界難民の日」フットサル大会

先日、友人達の誘いに乗って「世界難民の日」フットサル大会という催しを観戦した。今年で4年目を迎えるというこの大会は、協力・後援の一覧にJICA(国際協力機構)やUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)などの公的な名前が並び、ゲストに岡田武史・元サッカー日本代表監督のようなビッグネームを招きつつも、都内の公立中学校グラウンドで実にアットホームな雰囲気の中開催された。ちなみに岡田氏はこういった国際問題に関心があるのか、第1回目からこの催しに協力をしているのだそうだ。

ところで難民について少しウンチクを語ろう。
「人種・宗教・国籍・政治的信条などが原因で、自国の政府から迫害を受ける恐れがあるために国外に逃れた者」と難民条約によって定義付けられたいわゆる政治難民の他にも、天災や戦争、あるいは経済的な理由によって別地域への移動を余儀なくされた人までも加えた広義の難民は、世界に何千万人と存在しているらしい。こうした人たちを受け入れ、救済するような国際条約の類は徐々に整備されていき、日本もそれらに加入しているのだが、他諸国に比べ受け入れ人数が少な過ぎるという批判を受けている様子。調べたところ、1982年から2005年の間に日本で難民認定を申請した人は3928人、その内認定された人は376人という数字が出てきた(法務省出入国管理局発表)。ウンチクはここで打ち止めとするが、とにもかくにもこういった人数の日本在住難民たちが、出生地区毎にチームを結成して、フットサル競技で優勝を争おうというのがこの大会の流れなのである。

参加チームは*ビルマ(2チーム)、ラオス、カンボジア、ベトナム、クルド、アフガンなどに加えて難民を日ごろサポートしている日本人弁護士チームなど、計12チーム。予選グループリーグがはじまった。レベルは結構高い。私自身普段からフットサルをたしなんでいるのだが、たまに参加するフットサル大会で「強いなあ」と思わせる相手チームのレベルと遜色ないぐらいだ。特に目を惹いたのは、難民チームたちのシュート技術である。パスやドリブルはそこそこでもシュートだけは各チームとも実に強烈かつ正確だ。話が飛躍しすぎていることは承知だが、よくサッカー日本代表について語られる「決定力不足」というレッテルについて、なるほどなあと追認してしまうような光景が各ゲームで繰り広げられていた。

様々なチームが出場している中で、私はビルマのチームに着目した。というのは大会のパンフレットに、"ビルマは軍事政権になる前の1975年にアジアのサッカーチャンピオンになった""その頃トップレベルだった選手が参加している"というような件が紹介されていたからである。私は、誰がその選手なのだろうと思いビルマのゲームを凝視した。しかしビルマチームの選手は大半が小太りのおじさんで、明確な見分けがつかない。特にこれといったスーパープレイもないままそのゲームは進み、凝視し続けていた私の緊張がふっと緩んだ刹那。コート中央でビルマの小太りおじさんがパスを受けた。前に相手のマークは1人。おじさんは、全く体を弛緩させたような状態で上半身を揺らした、見事なフェイントだ!マーカーの動きを無力化させ、抜き去る。そして数歩進んでシュート。ボールはサイドネットに突き刺さり、私はその一連の動きにしばし釘付けとなった。

友人達へ「誰がトップレベルの選手かわかったよ」と自慢げに話す私。だが、プレイは覚えていても顔や体系は覚えていなかった。他のビルマ選手達と酷似していたからだ。それでもまあ、次の試合からもスーパープレイを見せてくれるだろうと期待して、その後もビルマの試合には注目していたのだが、ビルマはその後、輝いたプレイを見せることなくベスト4で敗退した。決勝にはユニフォームを揃え新しいスパイクを皆履いた、比較的資金力があると想像させるカンボジアとベトナムが勝ち上がった。

いつの間にかビルマを心から応援していた私にとって、この決勝戦はほとんど興味のないものとなっていた。

*ビルマについては現在、ミャンマーと表記されることが多いのですが、ミャンマーという呼び名にすることを要請したのは現軍事政権で、国交を結んでいる日本としてもそれに倣ったという経緯と、その軍事政権に反対している難民が本稿の主題であったということから、ビルマという表記に統一しました。なお今大会は、選手たちのプライバシーを考慮して写真撮影禁止ということになっており、様々な写真を公開している姉妹サイト(世界の風景(仮))にもその様子はアップロードされないことをご了承ください。

5.24.2007

「GOAL !」謎のカットについての妄想的考察

先日、TVで放映されていた映画「GOAL !」を観賞した。今週末には続編も公開されるそうだ。

映画自体は元々の期待値が低かったこともあり、案外と楽しめた。主人公がリザーブリーグからトップチームへと昇格するあたりの演出には良い意味でのハリウッド的スペクタクルを堪能することができたし、脇を固めるスティーヴン・ディレイン、マーセル・ユーレスといった俳優の演技も見ごたえがあった。ストーリーの設定にもギリギリのリアリズムを感じさせるものがあった。

しかし私がここで展開しようとしているのはそういった映画の全体的な感想ではなくて、ハイライト・シーンに存在する1つの摩訶不思議なカットについてである。主人公サンティの所属するチームは大事なゲームの終盤、相手ゴールから右よりの位置でフリーキックの機会を得て、それをサンティが見事に直接ゴールへ蹴り込むのであるが、彼はその時左足でフリーキックを蹴るのである。それまでのシーンで幾度となく右利きであることを証明しているのにも関わらず、である。

これを見たサッカーを少しでも知っている観客の9割方は、首をひねったはずだ。それぐらいこのカットには違和感がある。一体どのような経緯を経てこのカットが採用されてのであろうか。

まず考えられるのは、演出上「相手ゴール右よりの位置からフリーキックを蹴らせる」必然性があった、ということである。通常右よりから蹴る場合は左足でフリーキックを蹴ったほうが都合は良い。逆に言えば左よりの位置から蹴るのであれば右利きのサンティが右足でフリーキックを蹴る、という設定で問題がなくなるのだけど、その場合カメラは正反対の位置取りをすることになり、例えばキックするサンティの背景は違うものとなる。このカットは大分引き(つまりキックする主人公が小さく、その分背景が大きく映る)のサイズで撮影されているので、"引き"のサイズであることを優先事項とすれば、背景の重要性も増すことになる。しかし舞台となったサッカー場(セント・ジェームス・パーク)のことはあまりよく分からないけど、メインスタンド側とバックスタンド側で、右利きの選手が左足でフリーキックを蹴るという違和感を無視しなければいけないほど、そんなにも風景が異なるものだろうか?しかもピントは主人公に定められているので、背景はボヤけているというのに・・

次に考えたのが、続編以降へつなげる示唆という可能性についてである。この映画は最初から3部作ということで製作されているらしく、続編でサンティはレアル・マドリッドに移籍するようなのだが、そのことを示唆するシーンは存在している。ストーリー上全く関係のないマドリッドの選手(ベッカム・ジダン・ラウル)が登場する一幕が用意されているのだ。こうした演出と同じように、続編あるいは続々編においてこの主人公は、突然自分が本来左利きであったことに目覚め、スランプを克服する、といった破天荒なストーリーが待ち受けているのではないか。しかしこの仮説にも問題がある。私は冒頭でこの映画の根底に流れるリアリズムについて触れた。その詳細に触れることは避けるし、リアリティーのある映画こそが良い映画だと言うつもりも更々ないが、ハイライト・シーンまで持ちこたえていたギリギリのリアリティーが件のフリーキックシーンでいきなり破綻したことに私は疑念と興味を持っているのであり、「実は左利きだった」という破綻の上塗りが真相だったとすれば、それまでのリアリティーは一体何だったのかということになる。

最後に考えたのが、「映画制作における分業の徹底と監督のイマジネーション」ということについてである。映画やテレビの世界では、通常サラリーマンがビジネス活動をするような感覚では考えられないほと分業が徹底していて、その中にはもちろん、今問題にしているような「違和感」を指摘して注進するという役割だけに没頭するという人もいるのだが、その人が当然このフリーキックシーンの違和感に気付いたとして監督やプロデューサーにその声が届いても、最終的な演出上の決定権を持つのはやはり監督ということになる。この映画を撮った監督は、ハイライト手前まで通じていたリアリティーを見る限り、サッカーとそれを取り巻く状況を知らない人ではあるまい、というよりも、よく知っている人なのではないかと思う。そんな人が何故右利きの選手に左足でフリーキックを蹴らせたのか。

話は逸れるが、「フチボウ-美しきブラジルの蹴球」という本がある。この本は非常に面白くて、私のようにある程度はサッカーについて知っているという自負のある者の価値観を叩き割るような力が、紹介されているエピソードの数々に備わっている(特にガリンシャという選手にまつわる話は、サッカー好きには必読に値すると思う)。「GOAL !」の監督はもしかしたら、元々知りえていたサッカーについての物事を一旦壊しにかかるような作業を自らに課したのではないだろうか。その過程に「フチボウ」が関わっているかどうかはともかく、既成概念を破っていく道程において監督はふと、「別に右利きの奴が左でも同等に蹴れたっていいじゃないか、むしろ左で蹴ることに意義があるんじゃないのか」なんていうことを考え、「この思いつきはフットボールの概念を超えた素晴らしいアイデアだ」と思うに至り、周囲に違和感を指摘されても頑固にそのアイデアを守り通したのではないか?

以上、1映画の1シーンについての考察をまとめてみたのだが、真相はどこにあるのだろうか。私は案外、一番最後に書いた妄想めいたものがそれに近いのではないかと思っている。ところで今から数十分後にはプロサッカー界における今年のハイライト・UEFAチャンピオンズリーグ決勝戦が開催されるわけだが、できうればサッカーの既成概念を打ち破るようなとんでもないプレーを見ることができたら素敵だな。

5.17.2007

自動車免許の再取得10

4月中に筆記試験を通過し、残るは実技試験のみとなったものの、その予約を行おうとするとゴールデンウィークを挟んでいることもあって2週間先まで受験できないことが判明した。最後の最後までスケジューリングに苦労するとは・・

と、今回は免許取得関連の混雑具合に対する愚痴から書き出してみたものの、ここまできて油断したのか、ゴールデンウィーク明けの最終試験で私は、今までにないミスを犯してしまった。寝坊である。朝起きて時計を見て、既に集合時間の30分前であることをぼんやりと確認した私は、もう今から出向いても間に合わないので、とりあえず免許センターへ電話連絡を入れた。予約の変更は前日までとされているが、ひょっとすると当日の時間前でも許されるかもしれないという甘い考えを抱いたからである。果たしてその甘い願望は叶い、私は数日後に再予約をすることができた。もし許されなかったら鮫洲まで予約のために出向かなければならず、それだけで家からの往復時間を含めると数時間の作業となるので、助かった。

しかし「好事魔多し」とはよく言ったものだ。
数日後の試験前夜、私は原因不明の歯痛に襲われた。私は口周りに関しては生まれた時から健康そのものであり、歯医者のお世話になったことがほとんどないのだが、この晩はいきなり経験不足の痛みと戦うことになり、ほとんど眠れぬまま試験当日を迎ることになった。これはこれで寝坊はせずに済んだのであるが、ひどい体調の中で運転しなくてはならなかったのである。

それでも私はよくやった、と思う。本免許の実技試験は路上で教官の指示に従って運転する項目、ある地点からある地点まで自主経路というものを決めて指示のない中で運転する項目、それと免許センター内での縦列駐車あるいは方向転換行為という3種目によって構成されているのだが、私は序盤に、寝不足でぼーっとしていたこともあり2車線の右側をずっと走ってしまったり、信号が変わったのに数秒の間気付かなかったりと、リラックスを通り越してあまりに緩慢な動きを教官に見せてしまったのだが、それでも自主経路を走る頃には気を取り直して、教習所で教わった色々な細かいことを思い出しながら、しっかりとした運転ができていた、と思う。しかし序盤の失点が響き、最後の縦列駐車等の項目に進むことができなかった。この試験は基本的に2人1組で行うため、もう1人が運転する時は後部座席に同乗し、自分が運転する時もその人が付き合っているわけだが、私よりはそつなく運転していたかと思われるその人も最終項目へ進むことはできなかった。それでも私は最後に教官から「後半の動きは良かったんだけどね」と言われ、今回の敗因もはっきりしていたため、仮免許の実技試験に落ちた時のようには次回についての不安を抱かず、次に体調万全で臨めば結果もついてくるだろうという感想を抱いた。

ちなみに家に戻って、歯の痛みを散らすために飲んでいた薬の注意書きを読むと、これを飲んだら運転するなというようなことが書かれていた。私は歯医者へ行き治療を済ませ、また数日後の試験を迎えることになった。

雷交じりの悪天候となったこの日、しかし私の運転は快調そのものであった。助手席に座る教官は通常、何か減点になるようなことがある度にペンを走らせるのだが、私は運転しながらも教官が全くシートに何かを書き込んでいないということに気付いていた。浅田マオちゃんが言うところの「ノーミス」というやつである。私の車に同乗したもう1人の受験者は残念ながら、交差点の右折で横断歩道を歩く歩行者に気付かずアクセルを踏むという致命的な失態を犯し、私が思わず漏らした「あっ!」という声と共に教官にブレーキを踏まれ、そこで試験を終えることになった。最後に方向転換という項目をさらっとこなし、私はようやく合格した。再び自動車免許を得ることができたのである。想像していたよりも長い道程であった。

ここまで長々と免許取得までの出来事を書き連ねてきた。数人の読者から「読みづらい」という指摘をいただいたが、その反省を含め、また後日"これまでのまとめ編"を発表したいと思う。

5.08.2007

自動車免許の再取得9

取消処分者講習を終了すると、残るイベントは試験を除けば特定講習だけとなる。
これは私が以前免許を取得した10数年前に存在しなかったもので、救急介護や高速道路での運転などを特に教わるという内容の必須項目だ。内容ごとに数日に分けて受講することも出来たが、私はまとめて一日で修了するスケジュールを組み入れた。

この講習は科目によって受講者の入れ替わりこそあったが、どれも総勢数名という小規模なものであった。まずは救急介護の講習が行われたが、私はそこではじめて人工呼吸というものを体験した(と言っても人形相手であるが)。ここで興味深かったのが、人工呼吸を含む心肺蘇生法というものが国際ガイドラインによって確立されていて、この講習によって教えられる介護のやり方もそのガイドラインに沿って行われているという点であった。極端な表現をすると、自動車教習所で学ぶものは概ねローカルで局地的なもの(すなわち試験に合格するためのもの)であるという認識を、今までの体験を通じて持ち合わせてきたのだが、ここにきていきなりグローバルでかつ実践的な技術講習を受けることになったのだ。しかも直接的には自動車運転行為と関係のない内容であるということも面白い。私はいつになく真剣にこの講習を受講した。実践的と言いつつも実際にここで学んだことを生かす場に出くわすことがあるのかどうか、人生において実践的に人工呼吸を行う機会のある可能性を数値化すれば相当低い数字が算出されるのかもしれないが、それでも私は、このような講義を自動車免許取得過程において必修とすることには意義があるように思えた。

午後には運転実技を交えた高速教習などが行われた。取消処分者講習で非常に悪い印象を受けた、運転シミュレーターを用いた実習も含まれていたが、違う種類のシミュレーターだったせいか、この日は体調を崩すことはなかった。他の受講者も平気だったようだし、使用前後に「気分が悪くなる人もいる」という説明を受けることもなかった(取消処分者講習の時にはあった)。これらのことから類推するに、シミュレーターそのものが悪いのではなく、あくまで某財閥系メーカー製のそれが粗悪品なのだと思われる。私は以前その財閥系別会社に勤めていた経験もあり、それだけに残念なことであった。

いよいよ為すべきことを為し終え、残すところは本試験のみとなった。
仮免の時と同様に私は、所属する教習所の営業所へ出向き、無料の模擬試験を受けた。事前に少し勉強してから臨んだこともあってか、いきなり高得点を叩き出す事が出来た。営業所のおじいさんは「別の日にまた模擬試験をこなしてから本試験を受けに行きなさい」というアドバイスをくれたが、私はもう少し自宅で勉強すれば間違いなく本番も成功するという確信を抱いて、アドバイスを受け流した。

4月某日、私は鮫洲で本免許筆記試験を受けた。模擬試験後に抱いた確信は結果的に思い上がりではなく、合格。しかし合格率の低さには驚いた。受験番号が電光掲示されるのだが、私の番号010が最初に点灯し、つまり私の前9名が不合格で、その後の点灯状況を見ても合格確率はせいぜい1割台というものであった。しかるべき準備をすれば容易に合格すると思われる試験なのだが、皆受験料と時間に鷹揚なのだなと思えて仕方がなかった。

4.26.2007

自動車免許の再取得8

いきなり話を脱線させるが、皆さんは今年の6月2日より"中型免許"なるものが新設されることをご存知だろうか?これは基本的には従来の普通免許と大型免許の間に割り込んできたようなもので、例えは悪いがその圧迫を受けたような形で、6月2日以降に取得する普通免許で運転できる車の車両総重量や最大積載量は、6月2日以前に取得するものよりも小さくなるのだ。詳しくは、おそらくこの改正法の施行直前には一般にもニュースとして広まっているだろうから省略するが、ともかく最近、免許取得時に必要な講習や教習・試験などの予約状況が混み合っていたのは、こうした事情も絡んでいるのかもしれない。

2ヶ月待ってようやく受講できた取消処分者講習の話に戻る。
2日目の朝、最大の関心事はやはり前日講習中に倒れたおじさんの安否についてだったが、無事に参加していた。前日は体が回復するのを待ってタクシーで帰った、途中病院に寄る気力もなく、帰宅してすぐに寝たという話を後で耳にした。私などは現在、比較的スケジュールを自ら立てることの出来る生活をしているためまだ免許を取り直すといっても、それをし易いわけだが、会社勤めの人などの多くにとって、一度失った運転免許を再取得するという道のりは険しい。この講習にしても、2ヶ月待たされた上に平日しか開催されず、しかも2日連続という条件なのだから、そう簡単に受けられるものでもないだろう。実際に予約をしながら初日から来れなかったという人も何人か存在したし、この初日に倒れたおじさんも、体は大事だといっても次にいつ受けられるかわからないこの講習から脱落するわけにはいかないという決意が伝わってくる。私は身の引き締まる思いがした。

2日目の内容は、初日に行った運転適正検査の結果発表と説明、それと引き続き運転実技指導にレクチャーといったものだ。適性検査の結果は私にとって意外なものだった。10年以上前にはじめて受けた検査の結果は最悪のもので、「あなたは免許取得後、事故を起こす可能性があるから気をつけなさい」というようなことを当時教官から言われたと記憶しているのだが(実際に事故は起こさなかったが、免許取消処分を受けた)、今回は逆に最高レベルのもので、大変運転に向いているとのお墨付きを与えられた。こういった検査の結果にどの程度の精度があるのかわからないが、やはり10歳以上歳をとれば気付かぬうちにメンタリティーも大分変わってきているのだろう。

この日のレクチャーでは講師が「さて、突然だけど、事故は何故起こるのでしょうか?1人1つずつ答えてください」と、全員を当てて質問する時間があった。私は5番目ぐらいに当たり、「(運転技術に対する)慢心」と答えたら、次に当たった人は「自信過剰」と答え、その次の人は「過信」と答えていた。もはや同義語を言い当てる国語の授業と様変わりしたようで、可笑しかった。

夕方、講習の感想文を提出して終了という段になった。8つほどの項目について、1つの項目につき最低3行書かなければならないという制約があるのだけど、1人どうしても書き終わることができないおじさんがいた。その人はレクチャーの中でもわりと積極的に質問や発言をしていたのだが、どうにも文章を書くという行為が苦手のようなのである。色々な人がいるものだなあ、と改めて思い知らされた。

4.18.2007

マラッカの安宿で

私は学生の頃、いわゆるバックパッカーのようなスタイルでの中長期海外渡航を幾度か経験したことがある。その中では印象的な人たちとの出会いもあり、私などとは比較にもならないほどの凄まじい旅行体験を持った人とか、語らっている中で某国のスーパーエリートだということが判明した人だとか(そんな人が私と同じ安宿に泊まっていたことも興味深い)、それぞれの人が与えてくれた印象も様々なのであるが、共通してそんな人たちに抱いた感覚は年齢を超えた尊敬の念と、僭越ながら少しばかりのシンパシーなのであった。

はじめて海外へ旅立った時、私は無謀にも一人で、アムステルダム行きと1ヵ月後に成田へ戻るチケットだけを準備して、宿の予約を一切せずにその"修練"をスタートさせたのだが、甘ちゃんの私には想像以上にヨーロッパの壁が厚く、異文化の心地よい刺激を超えてホームシックが5日目あたりに襲来したのである。その時私はデン・ハーグという町の日本人が経営する宿にいた。そこで私と同じ日にチェック・インした人もまた、印象深い人物だった。

彼の名はもう忘れてしまったが、当時の私より10歳ほど年上で、高校の美術講師をしながらアーティスト活動を生業としているということだったと記憶している。彼が勤めている高校と私が当時通っていた大学の所在地が近かったということも記憶しているが、そんなエピソードを超えて私は彼に、共に過ごした期間が短いのにも関わらず強い敬意を覚えずにはいられなかった。とにかく垣根のない人なのである。大学で倫理学を専攻していた年少の私に哲学的な質問を、挑発的な雰囲気を全く感じさせない純粋な感覚でぶつけてきたり(大して勉強していなかった私はシドロモドロになった)、フランダースの犬というアニメが好きだったので、そのストーリーとゆかりのあるアントワープの教会で、犬の銅像にまたがって写真を撮ってもらったとかいう他愛のない彼の話に、というよりその話し方に私は惹かれたものだった。ホームシックにかかりながら自らそれを認めることが出来ないでいる私の前で、彼は奔放に振舞い、その姿が私の心の障壁を打ち砕いたのである。

私は天邪鬼な性質から、敬意を持った人には"いつかまた会える"という思いと"今の私には会う資格もないだろう"という考えから、再会を避けていく傾向があるので、その人ともその時限りのままでいるし、久しく忘れていた存在なのであったが、先日ふと彼の存在を思い出す機会に遭遇した。短期間ながら私は友人とマレーシア・シンガポールへと海外旅行に出かけ、久しぶりに安宿を泊まり歩くという体験をしたのだが、マラッカという町に滞在して2日目の夜、宿へ戻った私たちにホテル・スタッフが「日本人が今日から増えたよ」と言って宿泊者共有ロビーの方を指差した。そこには私より若いであろう青年が佇んでいた。

青年は明るく我々に挨拶をしてきた。聞くと大学で建築を学んでいるというその青年はちょうど、私がはじめて海外に出た頃の年齢で、そして私は昔出会ったアーティストと同じぐらいの年齢に達していた。私は仕事で建築学に関わったこともあり、興味のある分野だったので、その青年にそういった学問の話を持ちかけた。私の友人は青年が日本で住んでいる町と縁があったので、その町の話題で一時の語らいを構成していた。私たちは次の日、クアラルンプールへ移動したので一晩限りの付き合いとなってしまったが、私はデン・ハーグでの夜を思い出さずにはいられなかった。マラッカの青年は同年代の頃の私よりも大人びていたし、私がデン・ハーグのアーティストから受けたような敬意やシンパシーを、その青年に与えられるほどの存在ではなかっただろう。むしろ私のほうが忘れていた出来事を思い出し、何か初心のようなものを回想することになった。そんなマラッカの夜であった。

4.11.2007

自動車免許の再取得7

取消処分者講習の予約日が迫り、私は再び免許再取得に向けてのアクションを起こすことにした。
ここから本免許を得るまでに必要な項目を箇条書きにすると、以下のようになる。

・1日2時間以上で5日以上の路上運転履歴
・取消処分者講習(2日間)
・特定講習(7時間ぐらい)
・本免許筆記試験
・本免許実技試験

この中で特定講習というものは、順番として本免許試験合格後に受講してもいいものなのだが、その場合本免許試験合格の日に免許は交付されず、講習受講を証明する書類を後日免許センターに提出してはじめて交付されるという手間のかかる流れになる。私はとりあえず路上運転履歴を満たし、実技試験に向けてのテクニックを身につけるため、路上教習の予約を入れた。

数年ぶりに公道上を走るというので少し緊張しながら始まった路上教習において私は、すぐにカンを取り戻して運転の硬さこそほぐれたものの、つい2ヶ月前に仮免許対策として教わった正しく細かなドライビング・テクニックをあまり覚えておらず、1からやり直しとまではいかないものの、色々なことをその都度思い出しながら運転しなくてはならない状態になっていた。単純な左折1つをとっても、ウインカーを出すタイミング、車を左に寄せるタイミング、アクセルとブレーキのメリハリ、巻き込み確認の徹底etc..、知識というよりも体で覚える必要のあるポイントが幾つも存在した。仮免許を取得する直前の段階では、教習所のコース内で運転する限りにおいてはかなりのレベルで体に浸透していたのだが、もう忘れてしまっている。空白の期間が恨めしい。

また路上においては、例えば3速で40キロをキープしたり、4速で50キロをキープし続けるということが意外と難しい、というより精神的に苦痛であることがわかった。前を走る車は大抵もっと加速していくし、後ろを走る車がもっとスピードを上げていきたいと思っているのもよく伝わってくるという状況だと、制限速度を守らないと試験では減点されると理解していても、つい流れに沿ってアクセルを踏んでしまうという危険性があるわけだ。早い流れには逆らい、かといって50キロ制限の場所を40キロで走っても駄目で、速やかに時速50キロへと加速しそのスピードを保たないといけない。左折と並んで、これも実技試験では大きなポイントとなるだろうと予感させる体験であった。

路上教習を3日分行ったところでいよいよ取消処分者講習の日がやってきた。この講習は鮫洲や江東などの免許センターや、私が通っている教習所ではなく、また別の教習所で受講することになっていた。東京都内では3箇所でしか開催されていないということだ。朝早くその教習所に私が着くと、40歳代やそれ以上に歳をとった方々の姿が目についた。私の後に入所してきた人達を見ていても、年下であろうと思われる人の姿はあまり見当たらず、同世代かそれ以上の人ばかりだった。しかも全て男性だった。そんなメンバー構成で講習はスタートした。

初日には運転適性検査や、事故を起こさないためのレクチャー、運転実技指導などが行われた。運転適性検査は取消処分者講習に限らず、免許を取得するために公認の教習所に通えば大抵受けることになるもので、足し算や引き算、四角いマスの中に三角形をひたすら制限時間内に書くといった反射神経を測るものや、性格診断などで構成されていて、結果は2日目に発表するという流れになっていた。レクチャーはビデオ教材を用いたもので、いくつかの事故事例を挙げ、どのようにしてそれは起こったのかという検証によって構成されているのだが、ドキュメンタリーと銘打ったそのビデオは内容としてはむしろメロドラマの範疇で、私は本来目的とはやや違う意味で堪能してしまった。

そして実技指導。私を含む数名は仮免許を取得してからこの講習に臨んでいたものの、大半は仮免許取得前段階での受講だった。この文章を読んでいる方が私のように免許再取得を目指すことになった場合、取消処分者講習は仮免許取得前に受講することをお勧めしよう。これは受講してみてわかったことなのだが、この講習における実技指導は仮免許の実技試験を念頭においたものだからだ。コース外での指導は仮免許を持っていても行われず、私を含む数名の取得者はその時間帯を、車庫入れや縦列駐車の実践を行った以外は筆記試験対策に費やすことになり、私は少し損をした気分になった。実技指導では実車の他にも、シミュレーターを使ったものも行われたのだが、某財閥系工業会社が製作したこの運転シミュレーターは残念ながらどう考えても欠陥品としか思えない代物で、運転に関わる機能はうまく再現していると思うのだが、とにかくユーザーを車酔い(シミュレーター酔い?)させるのだ。私は軽く目眩と吐き気をもよおした程度で済んだが、私の前に体験した2人は終了後にぐったりとしていた。

初日も夕方になり、最後に軽くレクチャーの時間があったのだが、そこで事件が起きた。教官が我々に解答を求めるに当たって、その教官が眠っている受講者を発見し、「寝てはいけませんねえ」と言いながら近寄ったところ、その受講者は寝ていたというより気絶していたということが発覚したのだ。運転シミュレーターを終えてぐったりしていた2人のうちの1人だ。教官は青ざめ、救急車を呼ぶかどうかという判断を迫られた。気絶していた受講者は意識を取り戻し、救急車を呼ぶ必要はないと答えた。騒然とした雰囲気の中、最後はあわただしく初日のスケジュールが終わった。

3.29.2007

フラメンコ鑑賞

先日、来日したアントニオ・ガデス舞踏団の「カルメン」を観る機会に恵まれた。

私とフラメンコの関係は希薄なもので、パコ・デ・ルシア(フラメンコギタリストの第一人者)のアルバム数枚を愛聴する以外には、スペイン料理屋の余興で演じられるようなダンスを眺める程度のものに過ぎず、またいわゆるパフォーマンスを観賞すること自体についても、ここ数年興味を持ってピナ・バウシュやフィリップ・ドゥクフレといったコンテンポラリーの大物を見て楽しんだりはしたもののダンス観賞初心者の域を脱したとはとても言えず、こんな私がアントニオ・ガデス舞踏団について何か語るというのもおこがましい話ではあるのだが、逆に初心者ということもあってか、良質なパフォーマンスを見るたびに私は、未だにとても非日常的な知的興奮を覚えるのである。

アントニオ・ガデスという人は20世紀後半の伝説的なフラメンコダンサーで、2004年に亡くなった後、彼と関係の深い人々がその業績を継承すべく舞踏団を引き継いだ。カルロス・サウラ監督と一緒に何本かの映画を作ったことでも知られており、今回の「カルメン」公演も台本・振付にガデスと共にサウラの名がクレジットされている。つまり80年代に映画そして舞台用としてガデスらが製作したものを、今回ガデス舞踏団が演じるというわけだ。カルメン役のダンサーはガデス生存時の晩年に、公私共にガデスのパートナーであったダンサーからその座を引き継いだステラ・アラウソ。彼女は新生ガデス舞踏団の第一舞踏手としてだけではなく、芸術監督としても活動している。

ガデス版「カルメン」の舞台は一座全員によるリハーサルの場面という"虚"の世界から始まる。シンプルな作りだがカラフルで、品のよい衣装の躍動する様が実に美しい。やがて主役のカルメンも登場し、いつの間にか舞台は、本番(の場面)という"実"へと進んでいく。バレエ的な動きやコンテンポラリーな要素を交えつつ、それでもやはり伝統芸能としての基本を押さえたまま劇は続く。圧倒的な緊張感に包まれた世界は、途中和やかな場面も織り交ぜつつ、また突発的にテンションを高めるという演出の中、あっという間に最終局を迎える。休憩なしの2時間弱という構成は、間を入れることで観客のボルテージが一旦下がるのを防ぐということでもあり、また物凄い運動量を必要とすると推測されるフラメンコ・ダンスにおいて休憩を置かずに演じ切る限界がこの時間なのではないかとも推測できる。

ここで「カルメン」のあらすじを細かく記述することは、有名な劇でもあるし避けることにするが、勝気な若い娘と反目し、男性たちの間を彷徨いながら最後は嫉妬に駆られた男性によって殺されるというカルメンの姿は、虚実合わさった演出の上にもう一つ"現実"という要素を連想させる。ステラ・アラウソがガデスの相手役を勝ち取ったように、今カルメンを演じているステラもいずれこの劇に出演していた脇役の誰かに、その座を奪われることになるのだろう、という現実を。

そういった意味で「カルメン」は、とても残酷な物語だ。しかし私は、残酷さの中にもユーモアとある真実を織り交ぜたこの演目を、まさに目の覚めるような感覚で体感した。そしてアントニオ・ガデス舞踏団のこの演目をもう一度いつか観てみたいと思った。またある時、更にもう一度観る機会に恵まれたなら、その時も観てみたくなるだろうとも思い至ったのである。これが普遍的な伝統芸能、普遍的な物語の持つ魔力というものなのだろうか。

3.06.2007

自動車免許の再取得6

再試験の会場には、前回と違って複数の受験者が待機していた。私は電車の接続が悪くて5分遅刻したが、咎められることなく手続きを済ませ、試験に臨むことが出来た。しかしいくら注意されなかったからといっても、遅刻した当人としては、自分が悪いとはいえ出鼻をくじかれたというか、少しは遅刻によって受験できなかったという事態も覚悟して会場に駆けつけた手前、受けられてほっとした半面、"今回は受けられただけでも良しとするべきかな"というようなネガティブ思考を身に纏ってしまった。

私の順番は2番目で、前の受験者が運転する車に同乗して事前にコースを下見することが出来た。20歳前後であろう若い受験者の運転に、私はあまりミスを発見しなかった。運転自体はややぎこちないものの、ポイントは丁寧に押さえたドライビングに見えたのだが、彼は無情にも落第。これで私のネガティブ思考はますます増幅し、開き直りにまで昇華した。これで完全に落ち着くことが出来た。

私の番になった。坂道、踏切、交差点、直線45キロなどの項目を次々とこなしていく。もはや運転しながら自己採点していくことを放棄していた。今自分で運転している様が試験官にどう採点されるのかをほとんど気にすることのないまま、私はS字を超えクランクに入った。程なく「あ・・」という試験官の声が車内に響いた。前輪が縁石を軽く踏んでしまったのだ。私はS字・クランクに関しては何の心配もしていなかった。教習中も失敗したことがなく、前回の試験でも問題なくクリアしていた。よもやここで縁石を踏むことになろうとは思いもよらぬ事態だ。しかし私は、わずかコンマ何秒かの間に次のような仮説を頭に描いていた。"試験官が「あ・・」と発声したのはおそらく、ここまでミスがなかったのにこんな簡単なところでやってしまったからで、今のところうまくいっているのだ"と。ネガティブから出発した気分は、開き直りを経ていつの間にかこんなにもポジティブなものへと変貌を遂げていた。私は落ち着いた手つきでバックギアを入れ、車の姿勢を正し、クランクに再突入した・・

2度目の受験で、私は仮免許証を手に入れた。実際に教習所で車に乗り出してからここまで約半月程度。早くはないが遅くもなく、免許再取得までの道程において、ここで道半ばという具合だろうから、まあ3週間後ぐらいには晴れて目標を達成できるかなと、私はこれからの道筋を立てつつ軽い満足感に浸っていた。この後路上で数度にわたって教習を受け、特定講習を受講し、取消処分者講習というものに参加すれば本試験受験となる。

しかし、事は思うとおりに運ばないものだ。私は試験翌日、取消処分者講習の予約をするために東陽町の江東運転免許試験場へと向かった。本当は前日に試験後、鮫洲で予約をすれば良かったのだが、私はそれに気付かず、また用事もあったので仮免許交付後いそいそと鮫洲を後にしていたのだった。その日私は東陽町のほうが鮫洲に行くよりも都合が良かったので、江東試験場へと足を運ぶことにしたのである。鮫洲よりも新しく、やや空虚な感じを漂わせた場所だ。私は1階の受付で指定された窓口へ行き、その窓口で指定されたまた別の窓口で用件を伝え、返事を待った。

窓口の女性は一旦奥へ引っ込むと、カレンダーを持って現れた。カレンダーは2ヵ月後のページがめくられていた。「一番近いところで、この日になりますけどどうしますか?」彼女は少し申し訳なさそうに言った。私はまさか2ヶ月も待たされることになるとは思わなかったので、「どうしてもこの日まで受けられないんですか?」と訊ねてしまったのだが、そんなことで答えが変わるはずもなく、仕方なしに勧められた一番近い日の予約を入れた。

ここでようやく、この連載は現実の時間に追いついた。3月6日現在、私は取消処分者講習を受けるまでの2ヶ月間という、長い時間の真っ只中にいる。営業所にいる教官のおじいさんからは「取消処分者講習は大体、2週間後ぐらいまで埋まってますよー」なんて具合に聞かされていたのだが、2週間がどうなると2ヶ月になるのか。おじいさんがそこまで適当なことを言っているとも思えないが、私は、道路交通法の変更に伴って免許取消処分を受けた人が一気に増加したからなのではないか、そしてその変化に、おじいさんがまだ気付いていないのだろう、という風に推測している。

2.27.2007

自動車免許の再取得5

仮免実技試験の日、1週間ぶりの鮫洲試験場では再び受験生の数に驚かされた。マニュアル車に限って言えば、私1人だけ。オートマチック車で受験する人は数人いたが、とにかく私は、自分の前で運転する人の按配を確かめてから試験を受けられるものと思い込んでいた予定が簡単に覆され、試験の説明を聞くとさっそく乗車する運びとなってしまった。

予定外のことはまだ続く。乗車しクラッチとブレーキの具合を確かめると、これが異様に硬い。硬いという印象は、私が昔乗っていた車や教習所の車と比較したもので、本当はこれぐらいの硬さが適切で、私が経験してきたものが軟らかすぎるということなのかもしれない。この慣れぬ感触が逆作用を及ぼし、直線で45キロを出した後のブレーキングにおいて、私は慎重にブレーキを踏んだ結果、あまり減速せずあわてて何度もポンピングブレーキを繰り返した。いきなりの失点である。その後坂道発進などは無難に切り抜けたものの、ここでもう一つ、路上や教習所とは異なる予定外の条件に惑わされる。

それは、コース上に私の車と、オートマチックで受験しているもう1台の車しか走っていないということだった。基本的に教習所では他の教習車が大勢走っていて、度々流れが止まる。だから止まっている間に次の流れや項目を確認し、やらなければならないことに備えることができるのだが、試験本番の空いたコースではそうはいかなかった。私は赤信号のために速度を落とし、停止直前にギアをローに変えようとしたところで信号が青に変わった。ほとんど車は停止状態に近かったが、うっかりとギアをローに落とさないままセカンドで再び加速。エンストを起こしたわけでもなく、一見問題のない行為だがこれも減点対象になる。

こうして私は試験に落ちた。1週間後に再試験の予約を入れ、教習所にも不合格の知らせと、再試験までの間に追加実習をお願いする旨を伝えた。私は自動車免許試験に限らず、試験というもの自体を久しく体験していなかったので、筆記試験に合格した際は試験の難易度を超えた喜びを感じたものだが、不合格という体験もまた、忘却の彼方にあったものを掘り起こされたような、嫌なものであった。

再試験の前日に私は池袋から教習所へと向かい、再び実技教習を受けた。教官は不合格を残念がってくれたが、一方で「最初は慣れないということもあってよく落ちるものだが、2度目で絶対受かるようにしましょう」と言ってきた。内心では"鮫洲で受ける試験は相当難しいものだから、3回のうちに受かれば上等かな"と甘い考えを抱き始めていた私にはその言葉がプレッシャーとなり、また目を覚まされたような気にもなった。

2.23.2007

チャンピオンズリーグの生ストリーミング観戦

先日のこと、ふと朝4時に目覚めた私は、その45分後に開始するUEFAチャンピオンズリーグ(以下CL)のバルセロナ・リバプール戦をどうしても観たくなり、久しぶりにインターネットのストリーミング放送による生中継観戦を試みた。

そうは言っても、私は"スカパー!光"などのいわゆる正式な観戦ルートを持っているわけではないし、朝4時の段階で今から45分の間にそういったサービスへ加入することもできないから、簡単に視聴環境を整えるというわけにはいかない。実は1年ほど前にも、同じように昨年度のCLバルセロナ・ACミラン戦を生観戦しようとして悪戦苦闘した思い出がある。

その時は様々な角度からの検索を試みた結果、世界中のストリーミング放送を網羅するリンク集(http://wwitv.com/television/index.html)を発見し、その中のリンク先を1つずつ見て行った結果、目当ての番組がフィリピンのスポーツ局で流れていることを1時間ぐらいかけて発見することができた。バルセロナのサッカーを観る事が出来る喜びというよりはむしろ、フィリピンのサイトに行き当たるまでの苦行の成果が目前に現れていることへの達成感によって満足を得ていたことを覚えている。

その思い出を参考に、まずはフィリピンのスポーツ局へアクセスしようと思ったが、今はリンク集から外されていた。従って私は、再びリンク先を1つ1つ当たってみるしかなくなったのだが、1年前に身につけたノウハウというのが1つだけあって、そのノウハウによって、全てのサイトにアクセスすることなくアクセス先を絞り込むことにした。

ノウハウといっても大したことではなく、それは"先進国のストリーミング放送ではCLを生中継したりしない"というだけのものだ。先進国といっても純粋経済的な物言いとはニュアンスが異なり、サッカー中継に対するビジネス感覚や、ストリーミング放送そのもののビジネス的成熟度という項目においての先進国ということになるが、CLのような大イベントをネット上で無料生中継するとなると、この2項目について大らかな、発展途上の国でしか行われていないはずだという試論(+若干の経験則)は、この場合かなり有効なノウハウになっていると言えるのではないかと自負するところである。

とまあ、こんなニッチなところでのノウハウを朗々と語っても仕方のないことだとは自覚もしているが、とにかく西欧など"先進国"のサイトは避け、こつこつと作業を続けたところ、試合開始2分後ぐらいのタイミングでベトナムのVT1という放送局に、バルセロナとリバプールの面々が映し出された。画質はだいたい、YouTubeなどにアップロードされているようなものと同等かそれ以上。英語テロップ表示は何とか読めるし、悪くない画像だといえる。音質も良好(ただしベトナム語)。通信の具合も1試合の間に2度だけ少し乱れたが、概ね問題なく流れていた。

そういうわけで、1年ぶりのCL無料生ストリーミング観戦を十分に堪能できたのではあるが、試合結果のほうは、私にとっては最悪のもので朝から途方に暮れた次第である。

2.20.2007

自動車免許の再取得4

仮免の筆記試験に合格し、いよいよ車の運転を学ぶ時が来た。

教習所へは池袋駅からマイクロバスに乗って行くことになる。私は池袋という街に今まであまり縁がなかったのだが、サンシャインビル群のちょっとした狭間にある高速道路の入口からぐっと螺旋の坂を登り、トヨタのショールームらしきものがある不思議な形の建物や、巨大なドンキホーテなどを眼下にしながら走っていくバスの車窓はとても不思議で、30年前の人間が想像した20年後の都会を思わせるような風景だ。タルコフスキーの「惑星ソラリス」という映画を連想させる風景なのである。もっとも「惑星ソラリス」には実際に東京の首都高速が未来都市の風景として使われているのだが、この路線ではない。

教習所がある埼玉県の河川敷もまた、私には新鮮な風景が広がっていた。広域にわたって公園化されていて、それでいて施設が少ない、とてもゆったりとしたつくりになっている。遠くには大きな水門や高いアンテナが見えて、さらに遠くにはさいたま新都心のビル群を望むことができる。ここにおいて私は広大な北海道の風景を連想してしまう。

話は脱線するがこういった景色の第一印象というのはとても大事なことなのではないだろうか。私などは成田空港に用事があると、いつもそれを考える。日本を初めて訪れた外国人が空港から電車に乗り、トンネルを抜けて広がる景色を目の当たりにして何を思うか。とにかく私にとって、教習所へ到るまでの光景は極めて気分の良いものだったので、これからはじまる教習にも積極的な気分で臨めることになった。

結局この後、仮免の実技試験までに私はあと4回、この地へ通った。教官の指導は想像以上に(と言っては失礼だが)的確かつレベルの高いもので、免許取得後までを視野に入れた教え方のように思えた。車を運転すること自体が久しぶりで、しかも教習コースのようなところを走るのはそれこそ、以前教習生だった頃までさかのぼらないと経験していないことなので、とても楽しいのだが、その後路上で実際に運転していた時期が長かったこともあって、私はその時についた悪い癖を修正するのに骨を折った。運転技術というのはそう簡単に落ちるものでもなく、坂道発進やS字・クランクなどは訳もなく通過できるのに、癖を押さえ込むことはなかなかできない。私の弱点は停止時にギアをニュートラルに入れてしまうことと、時折セカンドギアで発進してしまうこと、ポンピングブレーキの局面で何度もブレーキを踏んでしまうこと(正しくは2回)だった。それでも運転はできる、というより路上でそうやって運転している人は多いのだが、それだと試験は受からない。教官はよく指導してくれたが、私はいつ弱点が露呈してもおかしくないという不安を拭えないまま、予定していた教習回数をこなし、試験日を迎えた。

2.09.2007

自動車免許の再取得3

はじめて受けた模擬試験で思わぬ高得点(と言っても合格点ではないのだが)をマークした私は数日後、その間何も準備をしないまま再び営業所へ出向き、別の模擬試験を受けたところ、50点満点中の30点台という体たらくで、続けざまにまた別種の試験を受けても30点台という、散々な結果を残した。

やはり油断してはならなかった。実技はともかく筆記試験は、労さえ惜しまなければ合格するものである。無駄な時間と金銭の浪費を避けるべく私は次に模擬試験を受けるまでに教科書を3回読み通した。そしてまた数日後、空いた時間に営業所へ行き、模擬試験を2つ受けると、ようやく2つとも合格点を揃えることができ、教官のおじいさんから「もう免許試験場に行って本番を受けてもいいんじゃないかな」とのお墨付きをもらった。

既述の通り、私が通っている教習所は公認のものではなく、仮免の筆記・実技試験及び本免の筆記・実技試験は公安委員会が管轄する免許試験場で受験することになる。公認とか非公認というのも、公安委員会が公認する(しない)ということであり、そもそも公安委員会とは各自治体知事の所轄下に置かれた、警察を管理するための上部組織なのであるが、実際にその大きな役目の一つである運転免許交付業務は警察に委任されているため、我々が免許を取得する際に様々な場面で対峙する人物というのは結局警察官だということになる。

ある日の朝、私は現在、東京都民なので品川区にある鮫洲運転免許試験所というところに足を運んだ。鮫洲駅から試験場へ向かう道程には幾つもの行政書士事務所や免許試験予備校があり、その社員たちが朝早くから街頭に出て客引きをしていた。試験場の建物は想像外に古びたもので、外国人の比率が高いのには驚かされた。しかも、建物の二階にいる外国人がハイソサエティー風な外観であるのに比べ、私の受験会場である三階には、あまり裕福とはいえない格好の外国人たちがたむろしていた。その高い比率の割に、施設案内の外国語表記は極めて脆弱に見えた。

会場の指定された椅子に座って更に驚いたのは、受験者の数とその内訳であった。その日の午前、仮免の筆記試験を鮫洲で受けるのはたったの5人。2人は黒人で、2人はいかにも不良風な日本人、そして私。前面の黒板には「仮免5 内英語検定2」と書かれていた。どうやら黒人の2人は英語で表記された試験を受けるようだ。そのうちに試験監督が入場して、説明をはじめた。説明の一切は日本語で行われたのだが英語で受験する2人はそれを理解できたのだろうか?

試験がはじまり、私は時間内に回答を終え、会場の外に出て結果発表の時を待った。程なくして日本語で「結果を発表するから、受験者は会場に戻ってください」というアナウンスが流れ、私は"これでは英語圏の彼らには伝わらないだろうから知らせてあげよう"との機転を利かせてあたりを見回したが、彼らは見つからなかった。会場に戻っても彼らはいなかったが、そこで試験監督の警察官に「英語で受験した2人にも伝えてください」と忠告するような機転は、残念ながらその時の私には働かなかった。もし働いていたとしても、結果だけ見ればそれは徒労に終わっていただろう。なぜなら合格者は私だけだったからだ。

私は合格という結果にほっとしたものの、その日朝から眺めてきた光景の数々を思い浮かべて何やら複雑な思いを抱きながら、鮫洲の町を後にした。

2.06.2007

自動車免許の再取得2

私が選んだ教習所は、都内に営業所が数箇所あり、運転コースは営業所とはまた別の場所にあって、そこまでは教習所が用意した無料バスで往復するという形態を取っている。1つ1つの営業所は小さなもので、せいぜい小学校の1教室分ほどのスペースしかない。
雑居ビルの一角に存在するその営業所へ私が入っていくと、そこにいたのは教官然としたおじいさんと若い受付嬢、そして机に向かう2人の中国人だった。

ひととおりの説明を受け契約を交わすと、教官然としたおじいさん(実際に教官なのだが、以降おじいさんと表記する)が「今もう少し時間があるなら、模擬試験を受けてみないか?」と聞いてきたので、私は早速中国人たちと並んで机に向かうこととなった。この教習所では学科授業がない代わりに数種類の模擬試験を無料で何度でも受けることが出来る。何度か受けて間違えた箇所を覚えていくうちに、やがて実際の試験に合格するレベルに達するというやり方だ。

かつて免許を持っていたことがあるといっても、試験を受けたのは10年以上も昔のことで、少しは勉強し直さないと高得点は取れないだろうと思いながら、あまり深く考えることもなく機械的にマークシートを埋めていき、私より随分先に始めていた2人に先だって解答を求める、50点満点で44点。合格には1問正解が足りなかったものの、事前の予測よりは随分とよい結果を得たので、私はこの時点で早々に油断し、まだ車を動かし始めてさえもいないのに"再取得までそう時間もかからないだろう"などとタカをくくっていた。

それでも私は間違えた問題の見直しをその場で行い出すと、中国人たちも試験を終え、おじいさんによる彼らへのレクチャーがはじまったので、私は見直し作業を続けながらも、おじいさんの言うことに耳を傾けずにはいられなかった。おじいさんは「Aさんは知識があるけど日本語を読む力は少し足りない、Bさんは引っ掛け問題を読み解く語学力を持っているけどもっと法律(道路交通法)の勉強をしないとダメだなあ。」などと説明していて、その飄々とした話し方には惹かれるものがあるのだが、この場合Aさんに日本語を教えたりもするのだろうか?とか、日本人でもよく引っ掛かるような免許試験の問題をBさんはよく解くことが出来るな、とか、このおじいさんが言っていることは結局のところ状況説明であって、教官として合格に導くようなことを特にしていないんじゃないのか?とか、色々な事を考えさせられてしまった。

その後私は幾度となく営業所や運転コースに足を運ぶことになるのだが、今のところ中国人の彼らには再会していない。
(注:2007年2月6日現在私は未だに免許取得活動中で、ここにある内容は少し前の出来事を描写したものです。)

(つづく)

2.01.2007

自動車免許の再取得

数年前の短期間内にまとめてスピード違反と駐車禁止行為に及んだ結果、自動車免許取り消し処分を受けた私は、何一つとして資格を持たないという身分のまま青春を謳歌していたものの、その間に何度か「ああ・・今免許があれば」といった体験をしたり、またここ数ヶ月は比較的自由に時間を使えるという状況を得たこともあって、ようやく重い腰を上げ再取得に向けて動き出すことにした。

免許を取り消された話をするとよく「再取得する場合はゼロからのスタートになるのか?」という質問をされるのだが、実はゼロではなくマイナスからのスタートになる。取消処分者講習(2日間、有料)というものがあって、従来の仮免から本免という流れとは別に、必須項目としてこの講習を受けないと再取得することは出来ない。

さて免許を取るぞと決断したところで、自動車免許を取得するまでの道筋を自動車教習所という観点から調べてみると、おおまかに以下の3通りが考えられることがわかった。

・普通に指定自動車教習所へ行く
・非公認の自動車教習所(技能試験を教習所ではなく運転免許試験場で受ける)へ行く
・教習所へ行かず、自力での取得を目指す

細かく言えば、指定教習所へ行くにしても合宿教習か自宅から通うかという選択肢があり、また非公認教習所といっても様々で、例えば特定届出自動車教習所という特定講習を行う資格のある所もあれば、ただ私有地でプライベートに教えるような所もあるようだ。

はじめて免許を取得した10年以上も昔の頃、私はせいぜい合宿免許か通いかという選択肢しか知らず、選択を迷うこともなかったのだが、少しは運転の心得があると自負する今、これだけの選択肢を前に1つの道を選ぶということには数日間頭を悩ませる必要があった。

結局私が選択したのは、非公認の特定届出自動車教習所に入るという道だった。
選んだ理由は、学科授業を受ける必要がなく技能教習も1回ずつの値段設定なので、スムーズにいけば指定教習所より拘束時間も短く経費もかからないというところと、以前免許を取得した際に指定教習所を体験したので、せっかくだから別の経緯を歩んでみたいというちょっとした冒険心からだ。

ともあれ私は、とりあえず取消処分者講習を後回しにして、教習所の門を叩いた。

(つづく)