8.08.2009

群馬探訪その3

あくる日はすっかり晴れたので、まずは伊香保の山を登ることにした。旅館で朝風呂を浴び(これまた湯船を独占)、朝食に美味しい中華粥を頂き、値段を考えれば満点をつけられるこの洋風旅館を出発。ケーブルカーに乗ってあっという間に頂上に辿り着く。やや霧がかっているものの下界の温泉街を見渡すことが出来た。帰りは山道を徒歩で降り、森林浴の気分も味わうことが出来た。


(山頂からの眺め)


この後我々は、同じ群馬県でも少し離れたところにある富岡製糸場を目指すことにした。途中前橋付近で物産センターに立ち寄り、お土産を漁って昼食をとる。富岡に着いたのは14時ごろ、うだるように暑い。


(富岡製糸場)


明治以降の産業史上にたいへん重要な意味合いを持つこの工場跡は、私の予想を超える規模を誇っていた。1987年まで操業していたせいか、保存状態はかなり良好で、説明員のおじいさんが大変熱心に弁を振るってくれたことも相まって、当時の女工さんや役人、お雇いフランス人などの姿に思いを馳せることが出来た。ここは世界遺産登録を目指しているようで、我々が説明を聞いている間にも別のバスツアー団体がどどっと入ってきたりと、史跡としては中々の盛況振りを見せていて、また私の目には、盛況するだけの価値があるものだと思えた。

それにしても暑い。酷暑の最中の社会見学によってすっかりバテた我々は製糸場を出ると、レトロなムードの洒落た喫茶店を発見しそこへ逃げ込んだ。閑散とした店を仕切っていた若者は、少し話してみると最近まで東京の入谷に住み、浅草のイタリア料理店で働いていたということで、同じく最近まで入谷に居を構えていた我々はしばしの間、打ち解けて雑談を交わすことが出来た。

さて、そろそろ帰ろうかという際にその彼が「もし時間があれば、この辺りが昔の城下町の風情を漂わせているので、寄っていくといいですよ」と、地図上の何も特別な印がない地点を指差して言った。こんな場所に本当に城下町などあるのか?と少し疑問を抱きながら、時間に余裕のあった我々はとりあえず、車を彼の指差した、小幡という地へ向かわせた。

10分ほど走ると小幡と思われる地点に着いた。なるほど城の堀のような佇まいの小川に沿って、武家屋敷風の旧家が立ち並んでいる。少し奥へ行くと城跡や和風庭園が整備されていて、長閑な田舎の風景が広がるこの地がかつて本当に城下町であったことを物語っている。


(小幡の和風庭園)


後で調べてわかったことだが、かつて小幡藩という藩地が存在したこの地は、明治の廃藩置県によってわずかの間、小幡県と名を変え、群馬県に編入された。その後の町村制施行によって生まれた小幡村は小幡町と名を変え、現在では甘楽郡甘楽町小幡という位置づけになっている。昔、短い期間ながらも"県"を名乗っていた地名が、今では町村の名にも残されていないというわけである。

我々は夕暮れの中、この儚い歴史を持つ城下町を後にし、帰京した。充実した2日間であった。

8.06.2009

群馬探訪その2

事件の香りこそすれど何も起きなかった榛名湖を後にし、我々は夕刻、予約していた洋風旅館にチェック・インした。伊香保へ投宿するにあたり事前にあれこれ検索していたところ、フレンチのフルコース付き1泊2食で8800円という破格の内容に惹かれここに決定しながらも、余りに安いので何か致命的な欠陥があるのではないかと恐れていたが、概観は新しくコンパクトでシック。ロビーに入ると高級そうなバーカウンターなどが置かれ、オーナーが道楽者であろうことを匂わせた。

部屋に荷を置き、私は早速入湯する。風呂がまた新しく、檜の香りが漂い期待を裏切らないものであった。他に誰もいない浴場を満喫した私は部屋に戻り、レストランへ向かいディナーをいただく。想像していた以上の繊細かつ美味で、それでいて気取ってはいない皿の数々が我々を迎え撃ち、これまた大いに満喫する。ここまで良い条件が続くと心配性が顔を出し、何で安いのかという説明がつかず気味悪くもなってくるが、部屋が多少狭いというのと、伊香保の中心である階段坂からは歩いて10分程度かかるという立地条件に無理矢理安さの理由を見出し、納得する。

ゆったりとした夕食を終えると20時を過ぎていた。温泉地の夜は更けるのが早いが、雨も上がったことだしと、私はパートナーと階段坂の方へ散歩に出掛けた。平日ということもあって、人影はほとんどなく、店も多くは閉まっている。それでもライトアップされた夜の階段坂には風情があって、飽きることはない。元々私が何故伊香保に興味を抱いたかというと、成瀬の「浮雲」や小津の「秋日和」といった映画に出てくる、モノクロの階段坂に深い感銘を受けたからなのであるが、私の目前にある夜の階段坂は、勿論カラーではあるのだけど落ち着いたライティングによって夜の闇が逆に強調され、映画で見た印象に近い雰囲気だ。

(夜の階段坂)


人気のない階段を一番上まで登ると伊香保神社がある。辿り着くとその狭い境内ではいきなり100人ばかりの群集、それも地元の人たちがうろうろと、何かが始まるのを待つようにして時間を潰している。何事かと思い待つこと30分。提灯行列がはじまった。年に1度の地元のお祭りに我々は偶然、遭遇したのであった。観光客を拒絶するでもなく、それでいて宣伝するでもない。大きすぎず小さすぎもない規模の粛々とした提灯行列が、伊香保の階段を降り、小道を練り歩く。その様は美しかった。


(提灯行列)


提灯行列の一行を見届け宿に帰り、もう一風呂浴びたが、今度もまた風呂場を独占することができた。だが好事魔多し。私はここで、宿のマスターキーと車のキーを取り違えて持ってくるという人生初のへまをやらかした。部屋のある本館ではなく、離れに位置する風呂から戻る際、その事実に気付いた私は本館に入ることが出来ず、絶望的な気分でタバコをふかしていた。3本ほど吸った頃だろうか、離れの戸締りに現れた従業員の出入りに便乗して私は、何とかこの窮地を逃れることができた。

(まだ続きます)

8.03.2009

群馬探訪その1

もう一月も前のことになるが、パートナーと共に群馬へ小旅行に出た。梅雨空の下、レンタカーを借りて10時前に東京を出発する。

カーナビゲーションによると、高速道路を使えば目的の伊香保温泉周辺まで3時間もかからず着いてしまうことが判明する。それでは旅情もなかろうということで、ひたすら一般道を北上。それでも丁度お腹の空いた13時半頃、伊香保温泉近くの水沢地区へ到着。まずは"まいたけセンター"という場所を訪れた。

ここでは特産物の舞茸や、舞茸を使った様々な加工品が販売されている。キノコの香りが充満する中でぐるっと商品を見渡していたところ、パートナーが舞茸を買おうとして、販売員のおじさんから色々と説明を受けているのが目にはいったので私も近づいて説明を聞いた。新鮮な舞茸は水で洗ってはならず、そのままソテーなどをするがよろしいとの御託宣であった。確かに洗ってしまっては、独特の芳香や味が失われてしまうであろうと至極納得した。

そして、"日本3大うどん"と呼ばれる(そもそも日本以外にうどんの有名な産地はあるのか?)水沢うどんを食べに、うどん屋が集中している通りに出た。風評通り、森の中を貫いている道路の脇にうどん屋だけが並んでいるという、ちょっと不思議な光景だった。東京で例えれば深大寺周辺とやや似た風景だ。我々は連なるうどん屋の中から「水香苑」というお店を選択、天麩羅と饂飩を頂いた。瑞々しくてコシのある、おいしい饂飩であった。


(水沢観音)


その後付近にある水沢観音を訪問する。坂東三十三箇所の16番札所であるこの寺院は、霧がかった天候との相乗効果で幽玄なるムードを醸し出していた。ここに円空の彫った仏像があると聞き、本堂の中を覗くと割りと平凡な像が鎮座している。この方面に疎い私は「ふむ、円空でもこのような真っ当な像を作るものなのか」などと勝手に結論づけようとしたが、そんなはずがないとばかりにパートナーはぐいぐいと雨中を突き進み、近くにある新しい建物に仏像類がまとめて置かれているのを発見。期間限定のサービスで無料入場することができた我々は、円空のあの独特なる彫刻を眺めることが出来た。

さて、これでまだ15時過ぎである。そこで我々は榛名湖へ向かうことにした。伊香保温泉を通過し山道をくねくねと登る。この山道が車を走らせていて、何とも言えず楽しいのだ。後で気付いたのだが"イニシャルD"という有名な車マンガに登場する秋名という峠の地名はここから採ったものに違いないだろう。マンガに出てくるだけあって、走り屋ではない私でも少し興奮するようなルートである。やがて車は坂を登り切り、しばらくして榛名山と、山に見下ろされた榛名湖が姿を現した。そう大きくもないこの湖の周辺には欧風のプチホテルがぽつぽつと建っていて、アガサ・クリスティやコナン・ドイルの小説に出てきそうな、事件の香りがする風景である。


(榛名山と榛名湖)


平日で雨の中とはいえ、それにしても人のいる気配がまるでしない。我々は車をとあるホテルに止め、喫茶室で休憩することにした。静々と顔を出し、コーヒーを給仕してくれたホテルマンに軽い気持ちで景気の具合などを尋ねると、高速道路が休日千円になり、首都圏の住民は更に遠くへ足を運ぶようになったため客足が遠のいたと、何とも景気の悪い答えを聞いてしまい、静かな湖畔の喫茶室には気まずい空気が流れた。

いたたまれなくなった我々はそそくさと勘定を済まし、伊香保温泉へと戻りチェック・インすることにした。

(思ったより長くなりそうなのでこの話は何部かに分けます)

7.01.2009

映画「レスラー」と三沢光晴について

このブログで、映画についてしょぼい映画を引き合いに出して、いかにしょぼいかを書き連ねることもよくあるのだが、この前観た「レスラー」という映画は良かった。実に良かった。

ヴェネチアで金賞を獲得したこの作品の根底にはアンチ・ハリウッドの佇まいが一貫して流れてはいるものの、ストーリーは至ってシンプルであり、恋愛や家族愛、プライドと生活苦、健康と生き様といった対比の狭間で落ちぶれた中年男性が揺らぎ、決し、戦うという様子が変に奇をてらうことなく、また単純で浅い描写でもなく、ただ直球で描かれている。並みの直球ではない、剛速球である。

通常プロレス興行を観戦する場合、テレビ観戦にしてもライブ観戦にしても、ある程度現場から離れた地点からの視線で事象を捉えることになるのだが、この作品ではクローズアップした、いろんな意味で生々しいサイズの画を中心に戦いの場面を構成していて、それが、なぜ映画でプロレスを表現したのかというアイデンティティーの一角を成しているように思われるが、そもそもこの映画は内容の多くがリング外の出来事によって構成され、そこで織り成される人生の機微がまた何ともプロレスライクで、愛おしい。

リング外の出来事を追いかけるというのも通常、プロレスをたしなむ上では必要不可欠なことで、日本においては雑誌や東スポなどでファンはリングとリングの狭間を埋めていく。しかし、さすがにプロレスを専門に扱うメディアといえども、リング外の出来事をある程度(共犯者として)表現することはできても、レスラー達のプライバシーやリングを離れたところでの本音を表現することは出来ない。映画「レスラー」はフィクションなので、ミッキー・ロークが演じる元チャンプの、掛け値なしの人生をリングとリングの狭間に埋めている構成なので、物凄くリアルなプロレスなのである。

そこでふと、先日壮絶な死を遂げた三沢光晴のことを思い出す。彼は超一流で、リング上のパフォーマンスとマスコミを通じたリング外での(共犯関係における)表現だけで十分なものを魅せることができた。が、死後に出版された幾つかの専門誌による追悼号や普段プロレスを取り上げない一般紙(誌)のベタ記事などに掲載されている、知られざる様々なエピソード(とその行間)を読み解き、再度三沢のパフォーマンスを思い起こしてみると、彼が表現していた"十分なもの"を遥かに越えた世界が広がっていることに気が付く。三沢という人間をより知ろうとすることによって生まれた新たな三沢像が、彼の過去のパフォーマンスをより磨き上げるのだ。

今更ながら、プロレスとは空想力・想像力で味わうものだという基本的な事柄を思い出したわけである。現在プロレス人気に陰りの見える原因は、表現する側(レスラー、マスコミ)が分かりやすさを追求し、味わう側が空想・想像を放棄したという悪循環の中にあるのだろう。

6.04.2009

幻のホームラン

一ヶ月ほど前、私は2週間ほどバッティングセンターにハマっていた。家から歩いて15分ほどの場所にあるバッティングセンターまで夜な夜な歩いて(時には自転車で)通い、1セットやってアイスを食べて、タバコを1服してまた1セットやって、軽く汗をかいて帰る、というルーティンを繰り返した。

ピッチングマシーンにはバーチャル画面が付随していて、実在のプロ野球投手と対戦できる仕組みなのだが、私の相手は決まっていて、110-120キロの直球しか投げないSBHの和田。稀に、スライダーを投げてくる上級者向けの楽天マー君とも対決してみたが、変化球にはどうにもうまく対応できないので、結局和田の球を気持ちよく打ち返すルーティンへと戻ることになる。

ところで、私は野球の経験者ではないし、体も大きくない。今までの人生で何度か草野球の試合に出たことはあって、バッティングセンターでもおそらく100回以上はプレイしたことがあるのだけど、いずれにおいてもホームランを打った試しがない。一度は大きな、ホームランをかっ飛ばしてみたい。そんな誘惑に駆られて、バッティングセンターに通いだしてから間もなく私は、一発狙いのスイングを模索するようになった。

まず、硬球でも木製バットでもないバッティングセンターにおいて、プロのスイングを真似する必要はないと考えた私は、前後の体重移動を抑えて余り動かずに打つことを心がけた。これでミート力は大分向上し、かなりの確率で鋭い打球を打ち返すことができるようになった。そして、野球解説者がよく口にする「前に壁をつくる」という感覚を実践することにした。私は右打者だが、要は左肩を開かないように意識してスイングするということなのだと思う。これでバットの軌道が波打たなくなり、ゴロが減りライナーやフライが増えてきた。最後に、和田投手のちょうど真上あたりにあるホームランボードを狙うため、引っ張ってはいけないのでボールをなるべく最後まで見ることにして、スイングの初動を遅らせた。

こうやってホームランを打つための理屈を考え実践するというプロセスがまた楽しく、嬉々としてセンターに通いだしてから2週間ほど経った時、私は出会い頭に、念願の打球をホームランボードに叩き込んだ。「Yes !(心の声)」静かに興奮した私は、まだ3球目ぐらいだったそのプレイの残りを、今までに構築してきたホームランスイング理論などなかったかのような波打つ大振りで終わらせてしまい、いそいそと店員に「ホームランを打った」と告げに行き、賞品をもらい、ネームプレートを掲げてもらった。これで満足した私の足は、しばらく打席から遠のいた。

しかし逆説的な感想なのだが、改めてプロの選手たちは凄いのだなと思う。イチローよ、あんなに打席内で体重を移動させてどうしてミートできるのだ?小笠原に城島よ、何故内角高めに反応してホームランが打てるのか??

ともあれ、ホームランというマイブームは目的達成と共に過ぎ去り、1ヶ月ほど打席に足を向けなかった私は先日、久々にバッティングセンターへ行ってみた。そして理論どおりのスイングをした、つもりだったが打球はフライにならず、スイングもなんだか波打っている。もちろんホームランどころか、惜しい当たりもなし。一体あの2週間は何だったのだろうという徒労感だけが残った。

5.29.2009

トリプレッテ

FCバルセロナ、ご存知のようにチャンピオンズリーグにおいても頂点を極め、遂に3冠達成と相成りました。素晴らしすぎるゲーム・・私は未だ、夢の中にいます。

正直言って戦前、現時点で上回るのはマンチェスターUのほうだと思っていました。大方の予想もそうなっていたのではなかったかと思い出しますが、結果だけでなく内容においても相手を凌駕した決勝戦を終えて1つ得た感想(試論)は、"究極レベルにおいて複数の戦術を完璧に駆使するのは不可能"であるということです。

バルセロナは、愚直でした。ポゼッションを極める、その1点に賭けていた。ひるがえってマンチェスターUは、ベンチにワールドクラスのストライカーを2人置き、ルーニーにはサイドで守備をさせるという固いやり方でスタート。このやり方と、ストライカーを2枚並べる比較的攻撃的なやり方の使い分けによって去年のチャンピオンズを勝ち抜き、今年のプレミアリーグも制してきたマンチェスターUですが、どちらのやり方も、この究極の決勝で通用するレベルには、ほんの少しだけ足りなかったのではないでしょうか(相当なハイレベルには達しているのですが)。

そしてバルセロナのポゼッションフットボールは、変な言い方ですが、この究極の決勝で通用するレベル以上の域に突入した感があります。今までに誰も見たことがない、誰もやったことのないフットボール。勿論、少なくとも私がFCバルセロナに注目し始めたクライフのドリームチーム以降(ロブソンが指揮していた時と「ロナウドが戦術」だった時を除いて)、ポゼッションを志向し続けていたチームなのではありますが、今シーズンのバルサは、数年前にロナウジーニョとエトオあたりが最前線で行っていた、短い選手間距離におけるワンタッチでの連続パス交換を、中盤やディフェンスラインでも行うようになり、全体的に物凄く早いショートパスの交換が繰り広げられるようになった。これは実に革新的な変革でした。ハードワークをメリットとするマンチェスターUの選手たちは、ボールの動きの早さについていけず立ち尽くし、ハードワークは殺されました。例えばシウビーニョ。ブラジル人左サイドバックの彼は、決勝に相応しい緊張で強張った表情を終始崩さずに、常に縦へ突破する意識を捨てず、結果としてワンタッチで近くの味方にバックパスという行為を繰り返し続けた。クラブのユース出身でもなく、ドリブルが大好きなブラジル人が高いディフェンスラインでこのようなプレイを貫徹した。ここにバルサの革新性があらわれていると言えましょう。

新しいフットボール・スタイルを披露したバルサ。新しきものは得てして最終的に敗北するものなのですが、今回はやってくれました。決勝戦を観た我々はまさに、歴史的な瞬間を目の当たりにしたのだと思います。ただひとつだけ、このような奇跡を、贔屓のチームが成し遂げたという100年に1度あるかどうかという体験を、おそらく一生の中で二度と体験できないのであろうということが寂しくも、悲しいことです。

5.07.2009

CLクラシコCL・・・そしてコパデルレイ

日本では大型連休。その間、FCバルセロ~ナはチャンピオンズリーグ準決勝の合間にレアルマドリーとのクラシコを挟むという、大変厳しいスケジュールを消化したわけであるが、いやはや、素晴らしい成果を残してくれましたよ。

まずはチェルシーとのCL準決勝第1戦。10人で守りドログバ先生1人に攻撃を託した相手を"アンチフットボール"とは責めますまい。これもまたフットボール。実際に、強豪を相手に守りきるカタルシスというのは私、普段からフットサル大会に出場する度に目標とし、しばしば達成して得る感覚なので、理解できるところなのでございます。ホームで0-0という結果はこの時点では案外悪くないと思いました。アウェーゴールを奪われなかったことで、第2戦での1-1による勝ち上がりが可能となったからです。そういう意味では、ドログバのカウンターを1人で防いだバルデスのセービングは実に大きかった。

そしてエル・クラシコ。ベルナベウで2-6という結末は既に「今後30年語り継がれる」などという評判を呼び、リーガ優勝を決定づけるものとなりました。今更内容については何も申しますまい。このレジェンド・ゲームを現地で観戦したかったという悔しさこそあれ、私は完全に試合の内容・結果と、付随するリーガ優勝ほぼ確定という事実に満ち足りて、「チャンピオンズなんてどうでもいいや」という気分になってしまったわけです。

元々今シーズン開幕前、悲観派クレの私はペップ新監督の経験不足を心配し、「リーガは2位以上、CLはベスト8以上、国王杯だけはそろそろ優勝しておきたいなあ」などという希望を掲げておりましたが、今目前にあるのは3冠全てを現実的に狙えるという状況。悲観派としては「そんなにウマくいきっこない」というムードに支配される中、CLの準決勝第2戦が行われました。この試合、実はまだ観ていないのですが、なんとロスタイムの同点弾による1-1での勝ち上がり!伝説のクラシコによる記憶を早くも塗り替えるような、劇的な結末であった模様でございます。

ここまで良い結果が続くと、3冠もいける!と思いたくなるものですが、それでも私は、残念ながら決勝でマンチャスターUに負けてしまうのだろう、と腹を括っております。今まで散々、期待を裏切られた歴史が私をここまで悲観させるのかもしれませんが、私の心は今、既に獲得同然のリーガタイトルでもCLのビッグイヤーでもなく、国王杯でアスレティック・ビルバオを打ち負かしていただきたいという方向に向いているわけなのであります。

5.03.2009

自転車日本一周? -3、小田原から沼津-

前のトピックで少し触れたが、年末に新車を購入していた。ブロンプトン(BROMPTON)という英国の折り畳み自転車なのだが、これが実に良い。折り畳み自転車というのはバランスよく作るのが難しそうなものであるが、ブロンプトンについて言えば職人が各部をきちっと作っているのでほとんど破綻がない。折り畳み方や畳んだ後の姿もチャーミングで、購入してからこれまでの数ヶ月間で、折り畳んでいる間に何度も見知らぬ人から声をかけられた程である。

そんな我が愛しの新車と遠出をしたくなり、ゴールデンウィーク中に自転車日本一周?事業を再開することにした。最初は伊豆半島を巡ろうかと思ったが、どうやら伊豆の道は急坂だらけで走りにくそうだ(しかも2日はかかりそう)・・従って伊豆半島は諦め、前回熱海へ行く際に立ち寄った小田原から箱根越えを目指すことにした。これなら1日で終わるだろう。

例によって朝からダラダラと時間を使ったため出発は遅く、折り畳んだ自転車を担いで小田原駅に降り立ったのは午後1時過ぎ。美しい小田原の町並みを過ぎると、緩やかな傾斜がはじまり、これが箱根湯本まで続く。


(箱根湯本付近)

箱根湯本の町並みは連休中ということもあって混雑していた。人と車の隙間を縫って自転車を進ませ、商店街を抜けると歩行者はいなくなり、急斜面と曲がりくねった道が5キロほど続く。ここが前半の難所だろう。汗を滝のように流しつつ自転車を押して1時間近く歩くと、大平台に宮ノ下、小涌谷という拓けた集落が現れてホッとする。宮ノ下で300円の共同浴場を発見した私は、時間を気にしつつも湯の誘惑には勝てず、軽く入浴することにした。

湯を存分に体に浴びせ汗を流し取り、風呂桶に浸かると早速、隣のおじさんが声を掛けてきた。
「自転車でどこから来たの?」
どうも、駐輪するところを見られていたようである。返事をすると、その人はかなり近所に住んでいることが判明した。逆に「よくこちらには来られるんですか?」なんて質問をすると「うん、週2回は来てるよ」という返事が・・優雅なもんだ。


(宮ノ下にある共同浴場)

しかし、この時点で15時を過ぎ、その日のうちに山を越え静岡県に入らなければいけない私は長湯も出来ず、おじさんとの会話もそこそこに再び出発した。腹も空き、昼食処も決めないといけないのだが、ここはちょっと高そうだとか蕎麦はあまり食べる気がしないだとか店の値踏みをしているうちに、小涌谷を過ぎると店が全くない山道になってしまった。後半の難所だろうか。私は少し焦りつつも、黙々と自転車を押し続けた。日は徐々に暮れゆき、16時半近くになった頃、山小屋風の食事処が急に姿を見せた。是非もなく入店する私。「たきのや」というこの店は定食のみならず、ちょっと凝った料理もレパートリーに入れつつも値段は観光地にしては安い定食屋並みのレベルを保ち、雰囲気もこだわっているという感じはしないが味があるという、押し付けがましさのない感じの良い店であった。ゴマラーメンと豚丼が旨かった。


(たきのやさん)

さて、遅い昼食を終え再び山越えに挑むと、私と同じように自転車を押して歩く人を100mおきぐらいの間隔で見かけた。ここまでの道中にも何人か見かけ、追い越したり追い越されたり、挨拶したりしていたのだが、"たきのや"から頂上までの区間には固まって何台もの自転車と人が最後の難所に挑んでいた。皆一様に疲労し切っている中、休憩したばかりで体力が回復した私は一人、また一人と追い抜いていく。高校生風の若者もいれば、初老のおじさんもいた。ジャック・バウアー似の白人もいた。このジャック・バウアー氏は風貌や高級そうな自転車のわりには、てんで大したことがなくて、比較的平らなところでもずっと自転車に乗ることなく押し続けていた。完全に力を使い果たしていたのだろう。

17時を大きく過ぎ、ようやく国道1号線の最高地点を越える。ここから数分の間ずっと下り坂で天国にいるかのような気分を味わうと、その先には夕焼けを反射する芦ノ湖が悠然と佇んでいた。美しい。ここまで来ると、もうゴールしたような感覚に襲われ、湖畔でしばしの間、足を伸ばして呆然と日没まで大自然を眺めていた。いよいよ日が沈み、間もなく残照もなくなって暗くなるというところで私は重くなった腰を上げ、自転車を再出発させると、のろのろと自転車を走らせるジャック・バウアー氏が私の休憩地点に到着し、これから休憩するという構えを見せていた。どれだけ遅いんだこの人は・・


(国道1号線最高地点)

後は静岡側へ下っていくだけである。芦ノ湖からは10分ほど登り、後は飽きるぐらいに延々と下り坂が続いている。私の愛車は下りの間、上りで抜いていった人たちに次々と抜かれていった(ジャック氏は見かけなかったが)。これはタイヤの口径が小さいために仕方がない。それでも時速40km近くのスピードで山を下っていくとすぐに静岡県に入り、三島市、そして沼津市へあっという間に到着した。ここで今回のチャレンジは終了。沼津駅前の寿司屋で、達成感と新鮮なネタの寿司を肴にうまいビールを頂き、帰宅した。

深夜、良い機嫌で帰宅した私を待ち受けていたのは、忌野清志郎の訃報であった。一度見たそのステージも忘れられないものだが、同時に以前、友人がカラオケで「僕の好きな先生」をがなりたてたその強烈な歌声を思い出し、先ほどからそっちの方が頭の中を渦巻いて今、大変困っている。

4.23.2009

各種崩壊

某日深夜、実家で寝ていた私は「ドカーン!」という轟音と共に目を覚ました。なぜか体が傾いている。左上のベッドの足が、ベッドマットを乗せている台と離れ、台ごと斜めにずり落ちてしまっていた。

眠気と、ベッドが壊れたという事実に不機嫌な私は、色々と修理を試みたが、台と足を接続するボルト自体が折れてしまっているので直すことができない、という実態を認めるまでに30分もかかってしまった。諦めた私は仕方なくベッドマットを、崩壊したベッドの枠組みの横に敷き寝ることにした。この状態は今でも続いている。

しかし、安物とはいえベッドなんて壊れるものなのかね?壊れると言えば私の携帯電話もおかしなことになっていて、先日フットサルの後、友人と談笑していたらその友人が笑いながら「おい、意味もなく電話すんなよ」と言ってくるから驚いて彼の電話機を見ると、確かに私からの電話がかかっていて鳴っている。私の電話機はカバンの中に入れっぱなしにしていたというのに・・恐ろしい話だ。

その他にも、十分に充電された状態でも簡単なメールを1発送信しただけで、送信直後に力尽きたように電源が切れたり、ある日今までに受信したメールが全て未開封になっていたりと私を困らせるのだが、何故か買い換えることもなく今でも不安定なまま使い続けている。

まあ、ベッドにしろ携帯にしろ壊れたまま使い続けているのだから、それほど困っているわけではないのかもしれないが、もう1つ、これまた半端に壊れたまま使い続けているものがある。それは、散々買うだの買わないだの言っておいてようやく昨年末に購入した、新しい折り畳み自転車のハブダイナモである。どうにも購入した時からランプのつきが悪い。調子よく点灯する時もあれば、全く点かない時もあり、頼りなく点くという場合もある。これじゃいかんと思って一度、買った店で点検してもらったところ応急処置をしてもらい、全く点かないということはなくなったのだが、相変わらず頼りなくしか点かないということがよくある。これは点検時にお店の人も予期していて「これでだめならダイナモの交換ですね」と言われていたのだが、良いと言われているドイツ製のなんとかというダイナモの値は3万強・・困った値段なので、これも交換せずに放置している。

とまあ、色々なものが身の回りで中途半端に崩壊したまま放置されているわけだが、本当に崩壊しているのは、万年床と化したベッドマットを「こりゃ楽だ」と称し、全て未開封になったメールを1つ1つ読み返して友人から過去に届いた馬鹿な文章にほくそ笑み、不安定な自転車のランプにまでどこか風流を感じてしまう、私の精神そのものだったりするのかもしれない。

3.19.2009

WBCあれこれ

ここのところ非日常的な生活がすっかり日常化してしまっている為、当欄に何を書けばよいのかわからなくなっている始末であるが、世間ではWBCという野球のイベントが非日常的に盛り上がっているようだ。視聴率の数字などを見ると、かなり凄いことになっていて、サッカーのW杯並みになっている(少なくとも予選の視聴率は、WBC予選がW杯のそれを凌駕した)。

サッカー愛好家にして野球も嫌いではない私は、今ひとつこの盛り上がりに乗れないとはいえ、それなりに日本をはじめとする各国の野球内容や結果を気にはしている。が、むしろこのWBCブームという社会現象そのものにより興味を持つ。なぜにここまでフィーバーしているのか、と。

サッカーW杯と比較すると、相違が浮き彫りになるだろう。まず出場各国の中でも盛り上がり方に大きな違いがあるようだ。W杯の場合、およそ出場する国の大多数において関心対象になるのに対し、WBCが国民的な関心対象になっているのはおそらく日本・韓国・キューバ(プエルトリコ・ドミニカあたりもそうかもしれないが、ちょっとわからない)あたりだけで、過半数の出場国ではさほど興味を惹いていないと思われる。もっとも、長い歴史を誇るW杯に対し、まだ2回目のWBCが拮抗できるはずもないが、"盛り上がっている"側に日本が位置することをまずは留保しておこう。

また、野球人気が復活したのか、野球がサッカーよりやっぱり人気があるのか?という点であるが、私はそんなことはないと考えている。野球もサッカーも共に人気が落ちたというのが正解に近いのではないだろうか。近年ではプロ野球・Jリーグ共に観客動員こそ健闘しているもののTVの視聴率は惨憺たるもので、コアなファン層は堅持しているがライトなファン層がよりライトになった。でも完全に興味を失ったわけでもないので、数年に一度、不意に盛り上がりを見せるW杯やWBCなどのお祭りには参加しよう、といったところなのだろう。少し話を逸らすと、中学高校におけるスポーツ系部活動に関わる生徒の割合というのがめっきりと落ちてしまっているらしく、野球やサッカーも例外ではないそうだ。そういったことからも、野球の人気が復活したわけではなく、サッカーより上だとも言えないと思われる。

あと、WBCに関心を持つ日本人がWBC自体に関心を持っているのか?という疑問もある。サッカーW杯の場合、日本絡みの試合以外、例えばブラジル対イタリアなんていう決勝戦が実現したとして、それをTV観戦する人は結構いるのだが、今回WBCの決勝が仮に韓国対USAだったら、誰かその試合を見ますか(と言いつつ、ジーターのファンである私は見るかもしれないが)?そう考えると、このWBCフィーバーはW杯というより、オリンピックに類似するフィーバーなのだろうという気がしてくる。お祭り自体の魅力というよりも、日本代表というブランドの魅力なのである。

ただ、オリンピックと違いWBCに参加している選手たちは、普段からその名を見聞きし、プレイの一端を眺めている人々なので、普段からお祭りにかけての応援の継続性がある。おおよそのオリンピック選手はそれ(日常からの継続した応援)を受けることができず、W杯の日本代表はそれを受けることが出来る。そこも考慮すると、WBCの立ち位置はW杯と五輪の中間ということになるだろうか。

以上のようなとりとめのない妄想的考察を踏まえて、最初に留保した「なぜ日本は、WBCで盛り上がっている数少ない国のひとつなのか?」というところを考えると、これはやはり日韓戦が何度も味わえるというカタルシス以外の何者でもないのではないかというところに落ち着くのである。韓国という良きライバルとの決戦は、お互いがヒートアップするので何とも言えない独特の雰囲気を醸し出す。サッカーのW杯予選にも、この対決が組まれていたらもっと盛り上がりをみせていたであろう。ちなみにもうひとつの盛り上がっているらしい国・キューバにとってのライバルはUSAなのだろうが、いかんせんこちらは切ない片思いの感がある・・可哀想なキューバ。

2.19.2009

一戦必勝

1月末、私は久々に川崎競馬場へと足を運んだ。当地における年に一度の大イベント・川崎記念を見に行く為である。川崎記念の発走時刻は16時ごろであったが私は何とか15時半に現地へ到着し、珍しくも人混みに埋められたパドックにて出走馬たちを急ぎ眺め、ドタバタと馬券を購入し、やっとレースの5分前にゴール板近くの立ち位置を確保し落ち着くことができた(と言っても5分前というのはギミックで、往々にして地方競馬場では"馬券販売締め切り1分前"などというアナウンスから3分ぐらいは締め切らない、という現象が起こる)。

ホッと一息ついていると、すぐ近くにいる老夫婦の会話が耳に入ってきた。しばらくはフリオーソという馬の主戦騎手が戸崎騎手に代わってから、どうもこの馬(の馬券)を買う気がしないという話を奥さんが続け、旦那がそれを聞くという感じであったが、やがて大本命のカネヒキリについての話がはじまった。この馬はかつてダート競走の世界で頂点を極めたもののドバイの国際レースに挑戦し敗れ、その後2年半にも渡り再起不能と思われた怪我の為に休養、奇跡的に復帰した2戦目から大レースを連勝中という、実にドラマチックな経歴を持ちながら、やはり芝ではなくダートの馬だからかイマイチ地味目な存在なのである。

「しかしこの馬、この後どのレースに出るんだろうね?」
「え、フェブラリーSでしょ?」
「フェブラリー出るかなあ」
「出るよ、その後またドバイでしょ」
「そっちに行くかなあ?」

夫婦はこのように、目前のレースではなくカネヒキリの今後について会話を交わしていた。奥さんは今後、中央競馬の大レースであるフェブラリーSを経てドバイに再挑戦という、光の当たる表街道を行くと信じて疑わないのに対し、旦那のほうは一度大怪我を負ったカネヒキリを気遣ってか、この川崎記念のような、大レースと言っても裏街道に位置するレースを選んでいって欲しいと考えているようだった。私はその会話を興味深く聞いていたが、奥さんが続けてこんなことを言った。

「でもさ、どのレースに出るとしても、この馬の足はもうガラスだから、一戦必勝だよ」

この言葉は不意に私の心を動かした。そう、おそらくこの馬はどの馬にも増して、いつ再びパンクするかもわからないというところで調教をこなし、レースに出走しているはずだ。目前のレースを完走し、良い結果を出すことが全てで、数レース先までのローテーションなんてことは考えられないのだろう(勿論、馬がそんなことを考えるはずもないが、擬人化して共感するという作業は競馬の一つの醍醐味なのです)。私は急にそんなカネヒキリを愛おしく思い、手元にある馬券にこの馬が絡んでいない事を後悔し出したがもう遅い。その時既に、"馬券締め切り1分前"コールから2分は経過し、いくらなんでもいい加減締め切り時刻になることは明白だったのだ。

レースは、珍しく逃げたフリオーソを、カネヒキリが慌てず最後の直線できっちり捉え勝利。完勝ではあったが余裕を持ってというほどのものではなく、ここ数戦、同じレースを走り続けたフリオーソとの着差が徐々に縮まっているのも気になるところだが、しかしそれでも結果を残すところに、楽勝を続けていた往年のカネヒキリとはまた違った復帰後の凄みを感じさせるという、味のあるレースだったように思う。

そのカネヒキリが22日、フェブラリーSに出走する。復帰後全力で走り続けるこの馬のガス欠やパンクを心配しつつも、一戦必勝の走りを応援せずにはいられないだろう。