7.01.2009

映画「レスラー」と三沢光晴について

このブログで、映画についてしょぼい映画を引き合いに出して、いかにしょぼいかを書き連ねることもよくあるのだが、この前観た「レスラー」という映画は良かった。実に良かった。

ヴェネチアで金賞を獲得したこの作品の根底にはアンチ・ハリウッドの佇まいが一貫して流れてはいるものの、ストーリーは至ってシンプルであり、恋愛や家族愛、プライドと生活苦、健康と生き様といった対比の狭間で落ちぶれた中年男性が揺らぎ、決し、戦うという様子が変に奇をてらうことなく、また単純で浅い描写でもなく、ただ直球で描かれている。並みの直球ではない、剛速球である。

通常プロレス興行を観戦する場合、テレビ観戦にしてもライブ観戦にしても、ある程度現場から離れた地点からの視線で事象を捉えることになるのだが、この作品ではクローズアップした、いろんな意味で生々しいサイズの画を中心に戦いの場面を構成していて、それが、なぜ映画でプロレスを表現したのかというアイデンティティーの一角を成しているように思われるが、そもそもこの映画は内容の多くがリング外の出来事によって構成され、そこで織り成される人生の機微がまた何ともプロレスライクで、愛おしい。

リング外の出来事を追いかけるというのも通常、プロレスをたしなむ上では必要不可欠なことで、日本においては雑誌や東スポなどでファンはリングとリングの狭間を埋めていく。しかし、さすがにプロレスを専門に扱うメディアといえども、リング外の出来事をある程度(共犯者として)表現することはできても、レスラー達のプライバシーやリングを離れたところでの本音を表現することは出来ない。映画「レスラー」はフィクションなので、ミッキー・ロークが演じる元チャンプの、掛け値なしの人生をリングとリングの狭間に埋めている構成なので、物凄くリアルなプロレスなのである。

そこでふと、先日壮絶な死を遂げた三沢光晴のことを思い出す。彼は超一流で、リング上のパフォーマンスとマスコミを通じたリング外での(共犯関係における)表現だけで十分なものを魅せることができた。が、死後に出版された幾つかの専門誌による追悼号や普段プロレスを取り上げない一般紙(誌)のベタ記事などに掲載されている、知られざる様々なエピソード(とその行間)を読み解き、再度三沢のパフォーマンスを思い起こしてみると、彼が表現していた"十分なもの"を遥かに越えた世界が広がっていることに気が付く。三沢という人間をより知ろうとすることによって生まれた新たな三沢像が、彼の過去のパフォーマンスをより磨き上げるのだ。

今更ながら、プロレスとは空想力・想像力で味わうものだという基本的な事柄を思い出したわけである。現在プロレス人気に陰りの見える原因は、表現する側(レスラー、マスコミ)が分かりやすさを追求し、味わう側が空想・想像を放棄したという悪循環の中にあるのだろう。

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