10.17.2007

自転車で帰郷

帰郷なんて書くと大げさだが、去る週末に現在居を構えている板橋から実家のある藤沢までを自転車で往復することにした。復路の途中、あざみ野でフットサルを2時間プレイするというオプション込みでの挑戦だ。オプションを除いて考えても、十日町まで行った経験以外では今までで最長の距離を走ることになる。

思えばこの夏、私は昨年と同様にどこか遠くまで自転車で行ければと願いつつも叶わず、その間の暴食もたたって気がつけば中量級のK-1マックスに出場できるか怪しいところまでに体重が増加していた(もちろん、K-1側からオファーが来ているわけではない)。十日町遠征時に激ヤセした効果の再現も少し期待しつつ、予定よりやや遅い14時過ぎに板橋をスタート。目標時間はやや余裕を持たせて、6時間と設定した。

実は1年前十日町へ行って以降、私の愛車はメンテナンス不足もたたって不調を極めた。複数の部品が壊れ交換し、2度に渡って自転車屋にメンテナンスをお願いした。スーパーマーケットで購入した安物のBMXなので、さほど耐久力も強くないのであろう。新車購入をも視野に入れている私は、この自転車とのロングツーリングも最後かもしれないという感傷を抱きながらペダルをこぎ始めたのであるが、意外やこのツーリングは順調な滑り出しとなる。

山手通りを南下し、神泉からR246を西へ。二子玉川到着までに休憩含め2時間と見積もっていたが、30分も早くかの地を通過する。事前にメンテナンスを行っていた甲斐あって愛車の調子がいい。工事中の山手通りも、車道を走るのが難しい代わりに工事の好影響で歩道がやたらと広い。こういう時に車道と歩道を選択しながら進めるのは段差に弱いロードバイクと違う、BMXのいい所だ。

途中ラーメン屋にピットイン。自転車をこぎ続けると実に腹が減るので、これはダイエット中といえども仕方がなかろう。R246も神奈川県に入ると坂が多く、また自転車通行を禁じた箇所も増えて、スムーズに事は運ばなくなる。が、あざみ野通過を想定時間の1時間も早く達成してしまう。これは随分と早く実家に辿り着いてしまうなと思ったが、夕暮れ時になり、闇の世界が私に迫っていた。このまままっすぐ西へ行くと、境川を越える。神奈川県中部を流れ江ノ島付近に河口を持ち相模湾へと続くこの細い川に沿って自転車道が整備されているという情報を事前に仕入れていた私は、R246を降りて少し迷いながらも境川の自転車道を発見し、下流に向かって進むことにした。

しかしその時点ですっかり夜になっていた。自転車道はそこそこ整備されているものの、照明など何もなく大変暗い。この先スピードダウンを余儀なくされた私は持ち合わせていたipodから流れる音楽を聴きながら、ひたすら田舎道を進んだ。自転車道ということで自動車に気兼ねせず走れるのは大変好ましいのであるが、コンビニや自販機などがまったく存在せず休憩スポットを設定できないのはつらい。暗がりの中を、多少感じてきた疲労感と戦いながらゆっくり進んでいくと、ipodから友人の弟(ラッパー)がリリースした曲が流れてきた。横浜の、それも特にドリームランド周辺をテーマにした曲に耳を傾けていると、本当にドリームランドの夜景が見えてきた。このあたりはそれこそ自転車で、中学生時代に走っていた地域だ。引越しを繰り返してきた私に久しく訪れなかった"地元愛"のような感覚が、疲労と相成って湧き上がった。そこからはかつて知ったる道を辿りながら、実家に到着した。出発から5時間、当初予定より1時間早かったが、あざみ野通過時点からは予定を短縮することができなかった。

あくる日、実家で英気を養った私は16時にあざみ野で開始するフットサルに向けて13時前に実家を出発した。境川沿いを戻っていくつもりであったが地図を見たらドリームランド付近から環状4号-中原街道といった道を行くほうが距離としては短いはずだとわかったので、昼の境川にも未練はあったものの、距離短縮を優先させることにした。

東京と比べて、横浜はアップダウンの多い地形だ。往路にもそれは実感したが、復路の環状4号-中原街道において私はそのことを痛感させられた。それでも黙々とペダルを漕いでいくと、あざみ野のフットサルコートには2時間強でたどり着いてしまった。涼やかな秋の曇り空の下、びっしょりと汗をかいた私はアイスクリームをほおばりながら仲間の到着を待った。

程なくして仲間も集い、フットサルが始まった。事前の予想では、私はこの時点でボールを追いかけて走れるような体調にはないだろうと思っていたのだが、実際に相当疲労していたにも関わらず私はパブロフの犬が如く、スペースがあればそこへ走りこみ、カウンターを食らえばあわてて戻るという行為を繰り返していた。2時間後、疲労し切ってしまった私は「帰りたくない」なんていう我侭を仲間に洩らしながらも、帰らなければならないという現実に直面しつつ、重い足を回し始めた。往路は2時間で済ませた距離を、再びラーメン屋込みで3時間かけて板橋に至ることとなった。シャワーを浴びてから計量したところ、私の体重は1.5キロ減少していたのだった。

10.06.2007

植村直己について

諸事情が重なり、台東区から板橋区へと引っ越すことになった。実は数ヶ月前から両区を行ったり来たりしているのだが、年末には台東区の家を引き払う予定だ。

引越し先から程近いところにある商店街を歩いていると、古い構えの豆腐屋があった。そこは1984年にマッキンリーで行方不明となった植村直己にゆかりのある店だという噂を聞いて、植村のことを調べてみると、彼は最後に消息を絶つまでの10数年間を板橋区民として過ごしたということがわかった(最も、半分ぐらいは海外などに遠征していたようだが)。また、植村冒険館という施設が区内に存在することも判明したので、暇をみて行ってみようと思い立った。

それから、なかなかその日程を組むこともできずに月日は流れ行き、その間に私は植村に関する著作を読みふけったりもして、益々彼への憧憬を膨らませながら過ごしたわけなのであるが、ついに先日、暇を見つけて植村冒険館を訪れることができたのである。

板橋区の新居から自転車で出発。そこから冒険館までの道程は偶然にも、半年前まで通っていた自動車教習所へ行くバスのルートと一致していた。懐かしい風景を堪能しながら私は、植村の魅力について思いを募らせ、それを整理しながらペダルを漕いだ。

私が惹かれた植村の魅力を一言で表現すれば、「単独行」という彼のこだわりに尽きるのである。植村はまだ無名だった若い頃にエベレスト日本人初登頂を目指す一隊に加わり、そのずば抜けた体力を買われて最終的な登頂アタッカーへと抜擢され見事にそれを成し遂げるのであるが、その過程においては多くの人々に支えられたということに感謝し、また大勢の人に支えられながらも一握りの者しか栄誉を勝ち取れないという冒険の在り方に疑問を覚える。そこから、彼の単独行志向がはじまる。

そんな植村の精神は、有名になった後年、スポンサーがつくようになってからも変わることなく続いた。自分の冒険のために集められた資金を冒険以外のことに使用することを厳密に禁じた。北極にて偉業を成し遂げた直後、米国政府からねぎらいのレセプションに呼ばれた際に「私はそのような場に出る服を持ち合わせていず、また冒険のために集められた資金を礼服の購入に用いるのは筋違いなので、私が持っている服で出席してもいいようなレセプションでなければ断って欲しい」というような主張を曲げなかったというエピソードは、彼にまつわる様々なエピソードの中でも私が好きなものの一つである。

そういった事前に仕入れた植村のイメージで頭を膨らませながら、私は目的地に辿り着いた。入館料は無料だった。ここで詳細を記すことは止しておくが、生誕からの彼にまつわる出来事が年表化されてパネルになっており、私はそのいちいちに思いを巡らせ、植村観を膨らませたり修正したりしながら、メイン展示場に進んだ。そこでは植村を単独行へと向かわせた、エベレスト登頂時に使われた登山用具の数々が置かれていた。私は登山に詳しいほうではないのだが、そこにあった用具は皆当時の最先端をいく物であったのにも関わらず、私の想像を超えるような便利なものではなく、現代なら手軽に調達できそうな物ばかりであった。もう40年以上前に使用されたものなので無理はないが、当時はこんな装備で極地へ向かっていたということに感嘆した。

エベレスト登頂時のディスプレイを見終えると最後に、大型テレビで植村のDVDが放映されていた。若き日の植村夫人もそこには登場していた。結婚した数ヵ月後には長期の遠征に出ていた植村を、結婚生活の多くにおいて、最愛の人の生死をテーマにしていたであろう彼女の心理状況とは、いったいどのようなものなのだったであろうということを否応なしに連想させられた。

ここに余すことなく表記すると何行に渡るかわからないほどの感傷を抱え、展示室を後にしようとする私に、受付にいる初老の女性が欲のない、実に純粋な表情で「ありがとうございました」と声を掛けてくれた。どことなくDVDで見た植村夫人の趣が重なって、「あなたは植村さんの奥様ですか」と聞きたくなったのだが、できなかった。帰りがけに通りすがった古い構えの豆腐屋は、夫人の旧姓に豆腐店という文字が連なる名称であった。