10.06.2007

植村直己について

諸事情が重なり、台東区から板橋区へと引っ越すことになった。実は数ヶ月前から両区を行ったり来たりしているのだが、年末には台東区の家を引き払う予定だ。

引越し先から程近いところにある商店街を歩いていると、古い構えの豆腐屋があった。そこは1984年にマッキンリーで行方不明となった植村直己にゆかりのある店だという噂を聞いて、植村のことを調べてみると、彼は最後に消息を絶つまでの10数年間を板橋区民として過ごしたということがわかった(最も、半分ぐらいは海外などに遠征していたようだが)。また、植村冒険館という施設が区内に存在することも判明したので、暇をみて行ってみようと思い立った。

それから、なかなかその日程を組むこともできずに月日は流れ行き、その間に私は植村に関する著作を読みふけったりもして、益々彼への憧憬を膨らませながら過ごしたわけなのであるが、ついに先日、暇を見つけて植村冒険館を訪れることができたのである。

板橋区の新居から自転車で出発。そこから冒険館までの道程は偶然にも、半年前まで通っていた自動車教習所へ行くバスのルートと一致していた。懐かしい風景を堪能しながら私は、植村の魅力について思いを募らせ、それを整理しながらペダルを漕いだ。

私が惹かれた植村の魅力を一言で表現すれば、「単独行」という彼のこだわりに尽きるのである。植村はまだ無名だった若い頃にエベレスト日本人初登頂を目指す一隊に加わり、そのずば抜けた体力を買われて最終的な登頂アタッカーへと抜擢され見事にそれを成し遂げるのであるが、その過程においては多くの人々に支えられたということに感謝し、また大勢の人に支えられながらも一握りの者しか栄誉を勝ち取れないという冒険の在り方に疑問を覚える。そこから、彼の単独行志向がはじまる。

そんな植村の精神は、有名になった後年、スポンサーがつくようになってからも変わることなく続いた。自分の冒険のために集められた資金を冒険以外のことに使用することを厳密に禁じた。北極にて偉業を成し遂げた直後、米国政府からねぎらいのレセプションに呼ばれた際に「私はそのような場に出る服を持ち合わせていず、また冒険のために集められた資金を礼服の購入に用いるのは筋違いなので、私が持っている服で出席してもいいようなレセプションでなければ断って欲しい」というような主張を曲げなかったというエピソードは、彼にまつわる様々なエピソードの中でも私が好きなものの一つである。

そういった事前に仕入れた植村のイメージで頭を膨らませながら、私は目的地に辿り着いた。入館料は無料だった。ここで詳細を記すことは止しておくが、生誕からの彼にまつわる出来事が年表化されてパネルになっており、私はそのいちいちに思いを巡らせ、植村観を膨らませたり修正したりしながら、メイン展示場に進んだ。そこでは植村を単独行へと向かわせた、エベレスト登頂時に使われた登山用具の数々が置かれていた。私は登山に詳しいほうではないのだが、そこにあった用具は皆当時の最先端をいく物であったのにも関わらず、私の想像を超えるような便利なものではなく、現代なら手軽に調達できそうな物ばかりであった。もう40年以上前に使用されたものなので無理はないが、当時はこんな装備で極地へ向かっていたということに感嘆した。

エベレスト登頂時のディスプレイを見終えると最後に、大型テレビで植村のDVDが放映されていた。若き日の植村夫人もそこには登場していた。結婚した数ヵ月後には長期の遠征に出ていた植村を、結婚生活の多くにおいて、最愛の人の生死をテーマにしていたであろう彼女の心理状況とは、いったいどのようなものなのだったであろうということを否応なしに連想させられた。

ここに余すことなく表記すると何行に渡るかわからないほどの感傷を抱え、展示室を後にしようとする私に、受付にいる初老の女性が欲のない、実に純粋な表情で「ありがとうございました」と声を掛けてくれた。どことなくDVDで見た植村夫人の趣が重なって、「あなたは植村さんの奥様ですか」と聞きたくなったのだが、できなかった。帰りがけに通りすがった古い構えの豆腐屋は、夫人の旧姓に豆腐店という文字が連なる名称であった。

0 件のコメント: