12.18.2008

最終回

今クール、私にしては珍しいことに、毎週TVドラマを見ていた。「風のガーデン」というドラマである。倉本聰脚本、中井貴一主演のこの作品を初回の時点で見る気にさせたのは、やはり緒形拳の遺作となったからだ。

「北の国から」で有名な倉本氏の脚本は、今作も相変わらずのモノローグを中心に構成された家族愛を謳う内容であり、正直言って私の好みではない。脚本家としては同世代でよく比較されるであろう山田太一氏の、いつまでも現代社会の変わりゆく様相をウォッチし、風刺していく姿勢のほうがしっくりといくのであるが、それでもこの「風のガーデン」においては、モノローグはある程度物語の中心ではなく周辺に配置されたことによって抑制されたイメージを受けた。何より俳優陣の演技が圧倒的であった。中心人物たちだけではなく、脇役のガッツ石松氏なんかにも「上手いなあ」と感心させられたし、何人かの新人俳優には、その力量を伸ばすために存在するかのような、大変に長いセリフや長回しのワンカットなどが用意されていて、そういう配慮にも好感が持てた。そして、富良野の自然や花景色も実に美しかった。この辺はもう、地元である倉本氏の独壇場なのだろう。

そういうわけで、久々にTVドラマというものを堪能させてもらった2ヶ月強だったわけなのだが、見終えた今思うのは、フィクションをフィクションとして堪能しただけではなく、別の要素を同時に見続けていたのだなあという感想である。その別の要素とは、初回のオンエアを待つことなくガンによって亡くなった緒形氏が、その最新にして最後の姿を披露する場であったということだ。もちろん緒形氏と面識のない私は、亡くなる前にだって彼のことをTVでしか見たことがないし、報道によって亡くなったことを知った後すぐにこのドラマがはじまり、毎週演じているのを眺めているのは不思議な感覚で、故人だということをほとんど忘れていた。そして奇遇にもこのドラマは、ガンに侵された中井貴一(が演じる主役)が亡くなるまでを描いたものであり、中井氏が病に苦しむ演技や(役作りとして)痩せていく姿を通じて、本当にガンを患っている(がドラマの中では健康な)緒形氏の身を案じてしまうという、奇妙な相乗効果が生じていたのである。

そしてつい先ほど最終回が終わり、本当は10月に亡くなっている緒形氏が、ああ本当に亡くなったんだなあ・・という感慨にようやくふけることになった。合掌。

11.28.2008

三崎のマグロ

先日、介護に追われるパートナーにつかの間の休日が訪れたので、連れ立って三浦半島へ小旅行に出掛けた。かの半島は神奈川生まれの神奈川育ちである私にとっては愛すべき土地であり、大概の見所へは足を運んでいると思うのだが、今回は私も初めて訪れる、なにかと評判の高い横須賀美術館をまずは目的地と設定。澄んだ秋空の下、車を走らせた。

横須賀の市街地を抜け、観音崎の海沿いを行くと、コンパクトな現代建築が姿を現す。大変恵まれた立地条件であると言えよう。既に14時近くだということもあって、空腹感を覚えた我々は入館する前に付随するイタリアンレストランへと向かった。混んではいたが、10分程度の待ち時間で席を確保することが出来た。東京にある有名店が経営しているらしいこのレストラン。当然、期待は膨らむのだが、出てきたものはやや残念なものであった。まず"地魚"と銘打ったメインディッシュが鮭っていうのは、仮に地元の市場で仕入れたのだとしても期待外れというものだ。サラダも、味付けは悪くないのだがやや素材の新鮮味に欠けるものだった。ここで私は小旅行の出鼻を少しくじかれたような気になったが、かと言って酷い料理というわけでもなかったので「まあ、こんなもんだよね」なんていう高飛車な感想を抱きながら店を出て、美術館へ入る。


(横須賀美術館外観)

ここでは常設展示の他に、「日本彫刻の近代」という企画展が開かれていた。仏像や人形といった立体造形物の時代から、明治期に西洋から塑造技法と美術思想が輸入され、伝統的なものと交じり合って独特の歴史を重ねていったという流れが、オーソドックスに示され、私のような素人には非常に判り易く楽しむことができた。時代によって人物像の鼻が高くなったり、低くなったりする過程が面白い。おそらくこれは、西洋の直接的な影響を受けた後に、そこを離れ日本独自の、あるいは作家個々の表現によるものを目指したという過程を示しているのだと類推するが、作家主義というもの自体がやはり西洋からの影響なのではないかとも思う。明治から昭和中期に至る日本彫刻の近代という流れは、作家たちの大いなる苦悩の下で育まれたグローバルスタンダードへの到達の道筋であり、また同時にローカルな伝統工芸への美術的な解釈を含む再評価の途上であったのだろう。

とまあ、企画展の観覧にはすっかり満足した私であるが、巷では高い評価を得ている美術館建築自体には少し不満を覚えた。外見等のデザインはさておき、私が美術館に求める"回廊性"とも言うべきものが希薄なのだ。企画展を見て、常設展を見て、屋上に登り景色を見て・・などとする過程において、同じ地点を何度も通過するという構成にはいただけないものがあると感じてしまう。これは企画展中心の箱モノを意図してフレキシビリティーを優先した結果なのかもしれず、ある意味現代的な結末なのかもしれないが、何にせよ私の趣味とは残念ながらマッチせず、同行のパートナーも同じような意見であったため、揃って満足するに至らなかった。


(横須賀美術館内部、ここを幾度となく通る)

このまま小旅行を終えては詰まらないだろうと思いつつ再び車のハンドルを握ると、パートナーが「三崎でマグロを食べたい」と言い出した。遅い昼食からまだそれほど時間も経過していず少し戸惑ったが、何と言ってもあそこのマグロは美味いので反対することもないだろうと、私はハンドルを右に切り、浦賀、三浦海岸を経て三崎へと向かった。秋空は暮れるのが早く、もう暗くなっている。途中ほぼ太陽が沈み、乏しい光の中で通過した、一面に広がる三浦大根畑の美しさがやけに印象に残った。

渋滞などもあって、三崎に着いたのは夜の7時前だ。我々はいそいそと市場へ赴き、閉店時間直前の魚屋でお土産を物色し、大きくて安いアジの開きを買い込んだ。あまり滞在せぬうちに市場の店は全て閉まってしまい、いよいよ外に出て、マグロを味わう店を選ぶ時が来た。辺りにはマグロを食わせる店が10件以上ずらっと構えている。ここで店を間違えたら、1日が台無しである。

私は嗅覚を働かせ、裏路地に佇む一軒の老舗を選んだ。「たちばな本館」というこの店は、あまりやる気のない接客でカウンターには客がおらず、やや不安を覚えたものの、導かれた奥座敷のふすまを開けると大部屋にほぼ満員の盛況振りであった。座った机の斜向かいの客席には、巨大なマグロのカマが焼かれてドカンと置かれている。私も同じものを猛烈に食べたくなったが、要予約の上に高価で、しかも5~6人前の量と聞いて断念。赤身と中トロの乗った丼を注文した。これが実に美味かった。私が今までに食べたマグロの刺身で1番美味かったかもしれない。これより上等なものを欲せば、本当に高級な寿司屋か料亭に行って大枚をはたかないと得られないだろう。が、ここなら3000円もかからない。パートナーが注文した定食に乗っかっていたマグロの唐揚げや煮物も大変良かった。メニューにはマグロのハンバーグやステーキなど、気になるものが幾つもあり、絶対にまた来たいと思わせる店であった。

かようにして1日は、建築や彫刻や風景を忘却の彼方へと追いやり、マグロの味に染められたのだ。

11.20.2008

自転車日本一周? -2、東京から袖ヶ浦-

ALPSLABというサイトのrouteというサービスがなかなか面白い。地図上で基点と終点までのルートをクリックしたりドラッグしたりして決めると、基点から終点までの動きが動画になって表示され、また距離や標高もわかるというようなサービスなのだが、1つ重大な欠陥がある。とにかく重いのだ。深夜にならないと内容を更新したり、閲覧することができない。モノが面白いだけに何とかならないのかねえ?

とはいえ、私もこのサービスを用いて自転車旅の記録を残すことにしました。気が向いた方は見てやってください(ただし深夜に)。

ALPSLAB routeで表示する今回のルートはこちら↓

東京-袖ヶ浦


ところで、東京から熱海へ自転車で走り「何年かかけて日本一周でもしてみようかしらん」などと想起した後、鉄は熱い内に打てとばかりに次の旅を企んでいたものの、予定がたたぬうちにとりあえず11月3日、日帰りで千葉方面へ行けるところまで行くことにした。例によって発走は遅れに遅れ、午後1時半にようやく出発。いきなりカメラを忘れたことに気付くが、戻るのも面倒なのでそのまま環状7号線を進む。

北区・足立区・葛飾区と、ほとんど土地勘のない地区を行くが、そこには東京のある典型とも言うような町並みが続いていた。色の少ない、四角い建物が林立し、緑に乏しい景色の中をぐいぐいと走る。時折現れる隅田川や荒川、中川などの水辺を行き、橋を超える時だけは心が安らぐものである。やがて千葉県に入り、国道14号線を市川や船橋と所を変えて走るが、大して景色が変わることなく、私は淡々と前へ進んだ。

景色が急変したのは千葉港の辺りからだ。11月の短い日は暮れ、右を見ればコンビナート、左を見れば公園か林というロケーションが続く。街灯は極端に少なく非常に暗いので、安物のライトしか持ち合わせない私はほとんど足元が見えない中を慎重に進むしかなかった。体力も既にかなり消耗していたが、それよりも暗さが精神力を侵食しているのが堪える。6時過ぎだったか、左に曲がると姉ヶ崎という標識が見えたので、私は迷わず姉ヶ崎駅へと向かった。もう限界である。

駅近くで光と空腹の解消を求めて、ケンタッキーチキンへと滑り込むと、生き返る思いがした(多少大げさだが)。チキンをほおばり、ここまでの道程を地図片手にぼんやりと追っているうちに、もう10kmぐらい走ってみようかという気になった。すっかりと日は暮れているものの、まだ7時にもなっていないのである。私は腰を上げ、再び自転車にまたがり、線路沿いの田舎道を2駅分進んで7時半に袖ヶ浦駅に到着した。

しかしホッとしたのもつかの間、時刻表を見ると、次の快速電車まで14分しかない・・私はダメもとで自転車の解体に全力を注いだ。前輪を外し、サドルを抜いたりして無理やり袋に詰め込むとそれを抱えてホームへダッシュ。息を切らせながら時計を見ると、なんと今まで30分近くかけていた輪行作業を9分で終えていた。達成感と共に缶コーヒーを味わっていると「まもなく電車が参る」というアナウンスが聞こえた。しかしそこで私は、ホッとしたのもつかの間という状況をまた体験する。

自転車の解体や組み立てに用いるペンチを、駅前の解体した場所に忘れてきたことに気付いたのだ。私はかなり情けない思いを抱きながら再びダッシュ。階段を上り降り、改札をくぐって置き去りにされていたペンチを握ってまた階段を上り降りると、電車は到着していた。重い輪行袋を持ち上げてなんとか電車へ乗り込むと、他に誰も乗っていない客車の中で私はへたり込んだ。いやはや、自転車を漕いだ事よりも最後のドタバタ劇が印象に残る旅であった。


そして次週、友人たちから「サイクルモードという自転車の展示会を見に行かないか?」という誘いがあった。重い自転車を持ち歩いたり、解体や組み立てを行う輪行という所業をなんとか楽にできないものかと、前週の体験によって考え始めていた私は、その誘いに乗っかって幕張メッセまで足を運ぶことにした。

事前知識なしで訪れたこのイベントは、想像を大きく超えたスケールで催されていた。メッセの巨大な空間に何百という自転車関連業者が所狭しとブースを並べ、会場の脇には試走コースが数箇所設置されていた。数多くの来客は、昨今の自転車ブームを物語っていた。驚いたことに、ちょっと名の知れたメーカーのブースで試走を申し込むと、数時間待ちだったり終了していたりするのだ。入場料を払って自転車売り場に来てるのに、試乗もできないってどういうこと?と憤慨を覚え、スタイリッシュに過ぎてスノッブな感のある自転車ブームというやつに唾を吐きたくなる気分ではあったが、私はその唾をぐっと飲み込み、会場を黙々と歩いていると、大手折り畳み自転車メーカーのブースを発見した。

(サイクルモードの光景)

折り畳みか・・輪行は楽そうだが、走行性能はどうかなと、試走を待つ行列の最後尾に並ぶ。10分後にそのメーカーで最軽量の自転車が私に回ってきた。約8kg、実に軽い。コースで走ってみると、スピードも随分と出る。立ち漕ぎなど負荷をかける動きをした場合の安定性に不安は残るものの、ほぼ申し分ない性能だ。こいつはいいなあと思い、ブースへ戻って値段を見てまた驚いた。20万弱、今乗ってるやつの約9倍!

いくらなんでも、高いよね?でもいいなあ、高級折り畳み自転車。こうして私の新車購入計画は、再び迷走期へと突入したのであった。

11.13.2008

快挙?達成

藪から棒で恐縮ですが、ポイントサイトといわれる存在をご存知ですか?

有名なところでは"nットマイル"や"Gポ○ント"とかいったものが挙げられますが、要するにそれらの会員になって、買い物をしたり無料のゲームをやったりアンケートに答えたりバナー広告をクリックしたりするとポイントが貯まって、それを航空会社のマイレージや現金などに交換できる、というサービスを運営しているサイトのことです。私は1年近く前に、たまたま中途半端に貯まっていたANAのマイレージをもう少し集めて有効活用できないかと思い、気軽に始めたところハマってしまい、今ではいくつものサイトに登録し、こつこつ貯めたポイントだけで、それこそANAで1往復どこへでも行けるぐらいのマイレージを得てしまいました。

なんて書くとポイントサイト礼賛のように思われそうですが、実はここまでに結構手間隙がかかっています。元手がかかっていないとは言え、時給に換算したらスズメの涙のようなもので、稼ぎたいのであればその間にバイトでもやった方が得策でしょう。なので、ポイントが貯まっていくこと自体に喜びを感じたりする人や、拘束されている中でインターネットは自由に使えるという時間を生活の中に持つ人にはお勧めできるかもしれませんが、それ以外の人には特にお勧め致しません。そんなヒマがあったら、読書をしたり花鳥風月を愛でたりしていたほうが、よっぽど有意義だというものでしょう(自戒を込めて)。

ところで、私が登録しているポイントサイトの一つに"予想.nット"(ちなみにサイト名は全て仮名)というものがあって、これはバナークリックやらなんやらで貯めたポイントを、サイト側がオッズを付けて出題してくる様々な問題に賭けて、当たれば更にポイントが増えていくという仕掛けが特徴のサイトです。例えばオリンピック時には「柔道のヤワラちゃんが獲得するメダルの色は何色?」なんていう4択問題が出題されたりするわけです。スポーツに限らずあらゆる物事が出題対象となっていて、イギリスのブックメーカーで遊んでいるような気分になれます。

そして、このサイトでは時折、スポーツなどのビッグイベント前になると「予想チャンプ決定戦」と称して、そのイベントに関する問題の正答率や獲得ポイントで参加者に順位をつけ、優秀な成績の者には別途商品を出すという催しが開かれます。この秋には「プロ野球・プレーオフ&日本シリーズ予想チャンプ決定戦」が開催され、7000人を超えるユーザーがエントリーしていました。私も参加し、特にデータを調べたりすることもなく、かなり適当に各試合の勝敗などを"予想"というよりは適当に"予言"していきました。

するとこの予言が当たる当たる・・プレーオフの半ば頃に発表された最初の中間発表で、私は2位という好順位につけていたのです。たとえ何事においても、7千何百人中の2位というのは気分の良いもの。これで毎日、野球の結果が気になり始めた私は、実際の試合はTVで見れずとも、スポーツニュースなどで結果は欠かさずチェックするようになりました。その後の中間発表では9位に落ちたものの、日本シリーズの5戦目を終えたところで発表された最後の中間発表では4位でした。10位以内で賞品が獲得できるものの、3位以内になると賞品のグレードが少し上がります。私は3位以内を目指して最後の2戦を埼玉西武ライオンズの勝利に賭けました。そして見事予言的中。上位3人も当てていたら順位は変わりませんが、これでどうなったか。

と気を揉んでいたら、なんと最終順位はトップ!繰り返しますが、たとえ何事においても7千何百人中の1位というのは、ちょっと気分の良いものですね。この実績を引っさげて、野球評論家に転職しようと思います(嘘)。

秋のちょっといい話でした。

10.07.2008

自転車日本一周? -1、東京から熱海-

去年の今頃だったと思うが、私は東京から実家のある藤沢までボロ自転車を漕いで帰った。その前には新潟県の十日町まで行ったこともあり、その後も銚子へと向かったことがある。こうやって書くと実にたくましく、遠距離を乗り回している自転車野郎のような印象を与えてしまいそうだが、実のところそれ以外には遠距離自転車旅をしたことがないし、メンテナンス等の知識もほとんどない。

そんな私だが、普段からたしなんでいるフットサルやサッカーの場において、最近めっきりと運動量が落ちているのをぼんやりと自覚していた。元々大したテクニックなどを持たない私だが、多少は優れていると思っていた体力に陰りを見せたとあってはプレイヤーとして致命傷である。これはいかんな・・と思っていた矢先に、フットサルのない週末が訪れたので、私はふと思い立って、トレーニングがてらに1年ぶりで実家へと自転車を走らせることにした。2008年10月4日、夕方4時過ぎに板橋の家を出発。

まずは山手通りを渋谷付近まで南下。この通りは相変わらず工事と区画整理を続けているが、おかげで元車道だったような区画が、暫定的に歩道化していて走りやすい。ロードレーサーでもクロスバイクでもない、なんちゃってモトクロス・タイプの我が愛車は、ママチャリに毛の生えたような性能しか持ち合わせていないが、その"毛の生えた"程度のアドバンテージは悪路の走行性にあって、ちょっと混んでいるような都会で車道と歩道を気ままにチェンジしながら道筋を選んでいく分には都合がいい。


(延々と工事を続ける山手通り、車道に見える中央の道は歩道なんです)

国道246号線を西に走り、多摩川を渡って神奈川県に入ると、既に日は落ちて夜道となっていた。一年前はこのまま246号線を走り続けたのだが今回は多摩川沿いのサイクリングロードを下ることにする。これはなかなか爽快な体験であった。暗がりの中、時折すれ違うサイクリング愛好家たちに一方的な同胞感を抱いたりしながら丸子橋のあたりで、泣く泣く一般道へ。そこからは綱島街道、そして菊名付近から環状2号を通り、東戸塚へと進む。比較的走りやすい道筋ではあったが、環状2号は細かなアップダウンが続き閉口した。

東戸塚からは国道1号を、既にへばった体にムチを入れて走り、なんとか10時前に実家へと到着。ネコと祖母が出迎えてくれたが、母親の姿がない。聞けば「2泊3日で甲州街道をウォーキングしている」とのことだった。母もまた、冒険していたのね・・

ところで、例えばgoogleなどで"自転車 日本一周"などと検索してみると、いろんな人の旅行記がヒットする。私はそういった旅行記を読むのが好きで、よく"世界中の地名"と"自転車"といったキーワードを組み合わせて検索し、旅人の足跡を眺めては妄想に耽ったりするのだが、今回自転車を漕ぎながら「自分にも日本一周ができるのではないか?一気にやるのはいろんな意味で到底無理な話だとしても、休日に各地をちょこちょこと走って、その合計でぐるりと日本中を回るというのは可能だろう」などと考えてしまった。いわば、新たなライフワークというわけだ。一気に心が盛り上がってきた馬鹿な私は、とりあえず次の日にできるところまで西へ向かうことにした。

10月5日、いきなり寝坊した私は11時過ぎにようやく藤沢の実家を出発。海沿いの国道134号を少し走ったところで、更に海岸線沿いに自転車道があるのを発見。やがてこの道を走っていて、ある事に気付く。

「この道、中学校のマラソン大会で走った道じゃないか!」
そう。この道は、いつか来た道だった。ちなみにそのマラソン大会で私は9位入賞し賞状を貰った。あの頃は体力、あったなあ・・私と同じように学業成績が低迷し、そのせいかアイデンティティーをマラソンで優勝することに求めていた(そして、見事に優勝していた)K君は今、どうしているのだろうか?


(茅ヶ崎の自転車道、車両止めが烏帽子岩の形をしています)

自転車道は茅ヶ崎で終わり、平塚を越え、大磯へ。この辺りで134号は1号と合流する。1号を少し行ったところで私は、ふと脇に"太平洋自転車道入口"と書かれた看板があるのを目にした。反射的に左へ曲がり、その自転車道へと突入。そこは、有料道路・西湘バイパスの脇を通るルートだった。まさに海岸線沿いに伸びていた藤沢・茅ヶ崎付近の自転車道ほどには気持ちのいい道というわけでないけれど、信号もないし、自転車道なので走りやすい。こんな道が太平洋沿いに伸びていれば、日本一周も案外楽だろうなあ。しかし2キロほど走ったところで、その道(と私の楽観)はプツッと途切れる。続きを探したが見当たらない。なんとも中途半端な道路なのであった。


(短くも儚い太平洋自転車道、ちょっと名前負けでは?)

気を取り直して再び1号線を走る。小田原の市街が近づいてくると、この街道沿いも旧家に蔵といった風情のある景色が見えてくる。市街地に建つ小田原城への到着時刻は、午後1時半ぐらいだったろうか。ここまで2時間少々の道程だったが、起伏もなく、道も走りやすく、景色も良くと三拍子揃った大満足のサイクリング内容だ。私は一旦自転車を降りて、城内の公園を散策した。ここは幼少の頃、祖父に連れられて来た記憶がおぼろげに存在するのだが、ほとんどはじめてと言ってもいい場所だ。園内ではニホンザルやゾウが飼われていた。このゾウは非常にチャーミングなゾウだった。


(小田原のゾウ、優しい眼をしている)

一通り園内を散策し、さてそろそろ昼食でもと思ったが、私は店を探しつつ、とりあえず熱海方面へと出発することにした。この時点で伊豆方面には行かず、箱根へと向かう選択肢もあったのだが、一応日本一周を視野に入れている以上、伊豆半島ぐらい大きな半島を無視するわけにもいくまい。それに箱根越えは辛そうだし、伊豆は楽しそうだ。しかしその選択はあまり正しくはなかったのかもしれない。小田原市街を出て国道135号に出ると、ほどなくして歩道はなくなり、側道もほとんど存在しないという自動車のことしか考えてないような道が続いていた。おまけに交通量も多い。わたしはちょっとビビりながらも、ゆっくりと足を進めた。根府川の手前に「浜屋」という食事処があり、ここで昼食をいただくことにした。もう3時前である。この店の2階には屋外デッキがあり、相模湾の景色を堪能しながら私は1500円の刺身定食と、いわしバーグなる特産品を味わった。このいわしバーグは美味で、帰りがけにもお土産として購入した。愛想のいい店の若者に「自転車ですよね?今日はどちらまでですか?」と聞かれたので、あまり終着点のことを考えていなかった私は少し考えて「熱海までで、その後電車で東京に帰ります」と答えた。この瞬間に今日の目的地が決定した。


(浜屋から見た135号、側道がほとんどなく自転車には危険)

3時過ぎに浜屋を出ると、程なくして有料道路・真鶴道路と135号の分岐が出現した。自転車の私は当然135号の方へと進んだのだが、その行く手には延々と上り坂が続いていた。地図を見るとほぼ海沿いを進むこの道だが、この辺りは陸地がすぐ崖になっていて、僅かな平地は真鶴道路が占めているため坂を上っていかないと熱海には到達できないのだ。私はヒーヒー言いながら上り坂を漕ぎ、やがて自転車を降りて押し、頂上からはパラダイスのような下り坂を飛ばし、そしてまた真鶴から上り坂を漕ぎ、自転車を押し、2度目の頂上から2ndパラダイスを堪能した。辺りの崖地はずっと、みかん畑だったと思うが、もう景色を楽しんでいる余裕はなかった。2度目の幸福な時間を終えると、道路標識にやおら"熱海駅"という表示が出てきて、あっさりと駅に到着した。夕方の5時ごろであった。

伊豆の地形は想像する限り、この小田原から熱海までのようなものの延長であろう。日本一周を夢想した私は早くも、行く先の険しさにげんなりとしながらも、去年から検討し続けてきた新車の購入について思いを巡らせながら、帰路についた。

続く(のか?)

ALPSLAB routeで表示する今回のルートはこちら↓

東京-藤沢
藤沢-熱海

10.03.2008

変わるものと変わらぬもの

日曜の夜、家族が大河ドラマの「篤姫」を欠かさず見ているので、私も付き合ってだいたい見ている。そして、良くできているなあと基本的には感心する一方で何か心に引っかかる物足りなさをいつも覚えるのだ。その正体は何だろう?

といったところで過日(1ヶ月ほど前だが)、久しぶりに映画を見てきた。ケン・ローチの最新作「この自由な世界で」である。物足りなさの欠片もない、というよりもむしろ、見た者の心をシリアスな空気で破裂させるかのような充実したドラマがそこにはあった。以下ネタバレ多少あり。

舞台は現代、ヨーロッパ、英国。好景気を謳歌するこの国には多くの移民労働者が移り住む。主人公のシングルマザーはポーランド等からこういった移民労働者を英国に斡旋するエージェントの一員として働くがトラブルにあってクビになる。バイタリティー溢れる主人公は自らエージェントを立ち上げ、英国内でくすぶっている移民労働者たちに職を紹介しはじめるが、ぎりぎりの資金繰りで続けるうちに、やがて法に触れた行為に手を出すようになる・・といったストーリーが展開される。まさしく、自由主義経済の下での現代的な課題に正面から向き合った映画だ。タイトル(「it's a free world」、邦題はほぼ直訳ですね)もまた秀逸である。

ここで描かれる世界は主に、移民労働者からの搾取という極めてリアルな問題を提示しているのだが、私が思うにこのドラマへリアリティーをもたらす要因は、緻密な取材を繰り返して構成していったことを想起させるその舞台設定やストーリーの大枠のみならず、主人公とその友人が繰り広げる心模様とその行為の描写にあるのではないか。新たな移民ではない、元来英国市民である彼女たちもまた、エッジの上を歩くような状況下でハメを外したり、真剣になったり、より困っている者へ施しを与えたり、地獄へ突き落としたりする。そういった彼女たちへ映画を見る者は、同情こそすれど支持することも憎むこともできないだろう。映画を見終えた観客はよりマクロな視点で、現代が抱える問題について考えることになるのだ。

と「この自由な世界で」を見た後しばらく、私もマクロな感じで諸問題を考察したりしていたのだが、そんな中でふと、「篤姫」は何故少しばかり物足りないのかというミクロな事象について解答を得たような気がした。「篤姫」の登場人物は主人公である姫を除いてほとんど皆、ドラマの中ではじめに持たされた信条をほぼ変えないのである。姫は様々な人物に出会い、その信条に触れ、ほう・・そういう考え方もあるのか、と吸収していく人物として描かれ、それぞれの信条を持った脇役たちもそれによって善悪では判断できない魅力的な存在となるのであるが、脇役たちがこうして輝けるのは全て、主役の姫がそれぞれの立場を理解できるからこそだ、という仕組みになっている。

つまり、「この自由な世界で」と「篤姫」は、支持することも憎むこともできない中立な人物像をあぶり出す仕組みが異なっている。「この自由な世界で」の主人公たちは、ある特定の人物や出来事によって善悪の彼方へ導かれるのではなく、ドラマの世界観全体によって導かれるのだ。

「篤姫」の仕組みはストーリー作りの一手法なのであろうが、現代において、「この自由な世界で」のような世界においてリアルではないだろう。無論「篤姫」の世界は江戸末期、100年以上前のことで、現代的なリアリティーを求めるのには無理があるのかもしれないが、当時の人々も時代の変革期において、難しい局面で判断を迫られ、心情や行動にぶれが生じると考えたほうが自然で、完成された人物像ばかり見せ付けられてもその時代錯誤(現代とのギャップ)に白けてしまう。まして今、放映することの意味を考えると、やはり大河ドラマといえど今という時代が抱えるものに投影するようなものであって欲しかったと思う。良くできたドラマだが、根本的にそこが私にとっては残念なところなんだな。



余談だが、「この自由な世界で」を見て、イギリスにおける移民労働者の実態を思うと、フットボールファンの私としてはやはり、ベルバトフ(ブルガリア人)やシェフチェンコ(少し前まで英国にいてイタリアへ戻ったウクライナ人)といった移民を供給する側の国籍を持つストライカーたちが、搾取される労働者の偶像としての存在感を強めているのだと想像せずにはいられない。映画の中にも何気なくかつ示唆的に、移民たちがボールを蹴っているシーンを見ることができるが、イングランド人のストライカー達がイングランド人労働者階級のアイコンであった時代は移ろい、資本(これも国際的になった)が移民供給国のストライカーを買い漁り、そしてイングランド人の優秀なストライカーはほぼ絶滅したのである。

対岸の火事と侮るなかれ。Jリーグとブラジル人選手、それと日本が多く抱えるブラジルからの移民(ついでに優秀な日本人ストライカーが現れない現状)との関係についても、考察してみる必要があるのかもしれない。

9.26.2008

さよなら王監督

福岡ホークスの王貞治監督が、辞任することになりました。
とりあえず、本当にお疲れ様でしたと言いたい。
私は一応、20年以上のキャリアを誇るホークスファンなのです。

しかしホークス、今シーズンはこのまま終わりそうだね。
来年以降も終わりつづけなければいいが・・

王監督の2年目から、去年まで10年Aクラス。で、その前が20年連続Bクラス(プロ野球記録らしい)。
更にその前は野村プレイングマネージャー時代(換言すると、弱いけどやりくり上手で何とかAクラス時代)、もっと前は伝説の強豪だったわけで、好不調のスパンの長さには何とも驚かされる。

王監督期は個人的に、野球への興味を失っている時期で、Bクラス時代のほうが印象深いのだけど、それでも、

・1999年の篠原の多用
・2003年の最強打線

この2つは見事だった。私の印象としては、王監督の采配は何といっても頑固一徹。このシーズンはこのピッチャーと決めると、延々と使い続けるのだ。酷使とも言えるその起用法は結果的に、そのピッチャーにスポットライトを当てることになり、心配やら共感やら同情やらという、ただ応援するという以上のものをマウンド上のピッチャーへもたらすことになる。99年の篠原はそういったファンの視線に答え、年間を通じて素晴らしいピッチングを展開した。後年の三瀬などにも同じことが言えよう。

そしてチーム打率ほぼ3割、30発以上打った打者が4人というプロ野球史上でも1、2を争う打線を形成した2003年。怪我でシーズンを棒に振った小久保がここにいたら一体どうなっちゃうんだ?ということを夢想したものだが、この打線は他所から好打者を取ってきて並べたものではなく、何年も前から将来に向けて、経験不足の打者たちを辛抱強く使い続けた"頑固一徹"が見事に結実したものであった。

いずれも、王監督でなければ実現し得ない成果だったのではないか。

8.26.2008

北京五輪雑感2 -サッカー-

さて私の大好きなサッカーですが、当然このオリンピックでも注目しておりました。最大の目玉はやはり、直前まで出場・欠場を取り沙汰されたメッシ(中国名:梅西)のプレイなのだろうが、ニュースのダイジェスト映像以外では決勝戦しか見れませんでした。もう彼の場合は、調子の上がらない試合でもなんとなく見せ場を作ってしまう域に達してきたようで、いよいよ超一流の仲間入りといったところに見えた次第であります。今シーズンも楽しみだ。

そこで、ほぼTVでフル観戦できたオリンピック日本代表の話に焦点を絞るが、女子の4位というのは事前に快進撃を予想していた通りになって、嬉しかった。他のチームと比較して特筆すべき点は終盤まで走り回れるその運動量だろう。相手の足が止まった後も、日本代表の面々は動き回っていた。ニュージーランド戦で追いついたのはまさにその長所が結果に出たものだったし、それ以降の試合も、例え劣勢にあっても最後まで期待を持たせてくれた。

難点を言うなら監督の采配と、キーパーだろうか。佐々木監督は大会前に「銅メダルなら十分狙える」というような発言をし、大いに選手の士気や視聴者の期待を煽った。この良い意味でペテン師的な行為は名監督と呼ばれるような人によくあるもので、この時点では佐々木氏の資質を大いに評価したくなったのだが、実際の試合を見る限りでは、縦に急ぎすぎる攻撃を序盤から最後まで貫く単調さが目に付き、選手交代が遅すぎるのも気になった。あの攻撃陣なら、もっとゆったり繋ぐサッカーができただろう。それでも、アイデアのない人ではないだろうという予感はするので、今後に期待したい。またキーパーのキックが精度に乏しいという技術的な問題も、いくらでも今後の練習によって解決できる話だろう。それにしてもやはり沢選手は一人、急ぎすぎる攻撃パターンの中でリズムを変えられるという点で異彩を放っていた。

男子もまあ、3戦全敗というのは残念ながら予想通りであった。相手が強いのだから仕方がない。
その中でも今後更に伸びそうな若手を幾人か確認することができた。特に内田選手などは、この1年だけ見ても飛躍的にプレイヤーとして向上している。思うに、従来日本代表チームは低い世代のカテゴリーであるほど結果を残してきたのだが、クラブチームなどの選手育成が浸透してきたことによって、選手の成長曲線が全体的にゆるやかな、年を取ってから向上していくというようなものに変化しつつあるのではないか(例えばイタリアのような)。中村俊輔や松井大輔といった選手たちが、20代後半になってからも目に見える成長を遂げていることなどが、それを裏付けているような気がするのだ。それに、柏木・梅崎などといった優秀な若手が選ばれないほど選手層が厚くなっていることも見逃せない。それこそメッシのように突出した存在は今だ現れないが、日本人サッカー選手全体の底上げは確実に進んでいる、と見た。

しかしまあ、難点は当然ながらある。やはりオーバーエイジ枠を活用してもらいたかった。オリンピックのサッカーについては完全に育成の機会と捉え、結果を不問とする国も数多く存在するのだが、JFAの態度は明らかにそれとは違っていたはずだ。それなのにきっちりとオーバーエイジの選手を確保できなかったというのは反町監督だけの責任では決してないであろう。私個人としては、中澤・中村憲・大久保を招集してもらいたかった(遠藤など体調不良だった者や海外組は除く)。反町ジャパンのコンセプトは簡単に言えばサイドアタック。しかもFWに高さのある人材を揃えない、ということは、サイドアタックからのセンタリングへFWに加えMFやDFの飛び込みを併せた数で勝負する、というものであったはずだ。それなのに、選ばれたMFの面々にはゴール前に飛び込んでいくというプレイオプションがなかった。これは大きな矛盾点だ。先述の私的希望オーバーエイジ選手たちには、そういうプレイができる。

男子サッカーに参加した国のうちオーバーエイジを活用しなかったのは、日本を含めわずか2ヶ国だったそうだ。不況が囁かれ始めている日本サッカー界にとって、この結果を出せず過程にも問題があったオリンピック男子の姿は、大きな痛手であろう。

8.25.2008

北京五輪雑感1 -サッカー以外-

久々の更新ですがオリンピックについて。今までは仕事に追われていたりとか、たまたま海外にいたりとかで、大会を通じてじっくりとTV観戦したことがなかったのだが、今回は随分と楽しんでしまった。

見ていて一番興奮したのは何と言っても、大会終盤に行われた重量挙げ男子105kg超級である。この競技は事前には全くのノーマークだったのだが、たまたま何かの作業中にTVをつけっ放しにしていたら決勝戦がライブ放映されていた。そして少し本腰を入れて見出したら、もう釘付けだ。何しろ「世界一の力持ち決定戦」である。このシンプルなテーマに、シンプルなルール。何よりバーベルを持ち上げる瞬間に選手が見せる気合のこもった表情がたまらないのだ。

ロイター配信のナイスな写真があったのでここにリンクしておきます。

この競技は最後にロシアの選手が、これ以上は無理だろ?というぐらいのバーベルを上げて喜んでいたところに、ドイツの選手がその無理を通してしまって見事な逆転優勝を遂げた。その劇的な展開も良かったが、何故か会場の観客にマッチョが多くて(ウェイトリフティング関係者か?)、盛り上がりぶりがド迫力だったのもまた印象的であった。

見ていて一番、自分もやってみたいと思ったのは、BMXだろうか。小さい自転車で段差のあるコースをレースする競技である。これも大会終盤に開催されていたが、短距離レースなのになにしろ完走率が低いのだ。狭いコースを8人で走るので、おそらくスタートダッシュ(瞬発力)と相手に接触せずに走る能力(動体視力)が主に要求されるのだろうが、多くのレースで接触が起こり、数人脱落していく。それでも皆、限界に近いところまで接触を恐がらずに走り、トップを目指すところが魅力的だ。決勝でも、2人が抜け出してデッドヒートを演じ、後ろの選手が「銀メダルはいらない」とばかりに仕掛けて自滅し、メダル圏外に終わってしまっていたが、この「勝利以外に意味無し」といった姿勢が、どこの国がメダル何個といったみみっちい計算をオリンピックの意義としているような、ある論調と対極を成しているようで清々しく思えた。

清々しいと言えば、この大会を通じて私が目撃した一番清々しい表情は、平泳ぎ100mで北島選手が優勝した際に、どこのコースからか寄ってきて彼を祝福したどこかの国の選手だ。北島自体、私が言うまでもなく素晴らしかった。アテネでヒーローになった時には特に興味をそそられる対象ではなかったが、偉そうに言えば、競技自体や、その後のマスコミ対応を含めて見ても、人間的な成長を大きく感じさせられたのだ。やはり鍛えている人間は違うなあ、俺も頑張らなきゃな、なんて気にさせてくれた。が、あの北島を祝福した選手の表情は北島以上に特筆ものだった。同じ競技をやっている者だけがわかる、北島が成し遂げたことの凄さに対する純粋な敬意と、決勝を一緒に戦った同志としての感情が入り混じった清々しさだ。

日本人選手の中に、負けてなおあのような人目を惹く態度を取れる者がどれだけいることか・・などと書いてみて、一人思い浮かんだのが女子レスリングの伊調千春選手である。彼女は2大会連続で決勝戦に敗れ、銀メダルに終わった。レスリングのようなトーナメント方式でメダルを争う競技において、銀というのは最後に負けて得る色で、3位決定戦に勝って得る銅メダルよりもどこか切ないものに感じられるのだが、伊調は掛け値なしで満足している様子に思えた。それだけ、そこまでの過程において「全てをやり切った」ということなのだろうということと、後に戦いを控える妹・伊調千春選手への気遣いでもあるということがひしひしと伝わってくる、実に見事な態度だったと思う。

6.06.2008

粗食

近所に安いスーパーがあるのだが、その近所にこれまた安い八百屋がある。若者が経営するこの八百屋は値段付けにおいてスーパーに強いライバル心を働かせているようで(実際に朝方、そのスーパーのチラシを凝視している主人を見かけたことがある)、資本力の差もあってか全ての品目においてというわけにはいかないが、毎日必ず数品目において激安の商品を前面に出してくる。

過日などは、3束入った新鮮な水菜が20円で売られていた。5本100円の胡瓜と共に、どう料理するかなどまるで考えず反射的に購入。家に戻り水菜を用いた見知らぬ料理はないものかとインターネットで検索していたら、「はりはり鍋」というメニューが目に飛び込んだ。桃太郎電鉄というすごろくゲームに確か「はりはり鍋屋」が登場していたな・・などと連想しながらレシピを見てみると、これが水菜と鯨(あるいは豚や鴨)を昆布だしで水炊きするだけという、実にシンプルなものなのだ。

早速今度は八百屋の近所の安いスーパーにて豚バラ(これも安く、グラム1円を切っていた)を購入し、その夜我が家の食卓はこの見た目も美しい素朴な鍋で飾られた。大根おろしと醤油で具を受けて食べてみると、これが実に旨い。同居人にも好評であった。私はこのように、安くて簡単な料理については、メニューを考えるのも買い物をするのも作るのも食べるのも大好きだ。

しかし粗食にも上には上がいるものである。ある日書棚を整理していると、20年以上前の「我が家の食卓」というようなタイトル(現在手元になく、正確な書名を忘れました)の文庫本が出てきた。これは各界の著名人が、自らの夕食を紹介するという内容のもので、アントニオ猪木が前夫人と食卓を囲んで、大量のブラジル風料理を前に「最近は腹七分目にしているんですよ」なんて言ってたりするちょっと面白い本なのだが、その中に故・遠藤周作が大変な粗食を夫人とつまんでいる写真がはさまっていた。

遠藤氏の夕食はご飯に漬物、それとメザシ一人一匹だけだ。氏のユーモラスな表現によれば「私は美味しくも豪華なフレンチなどを食べたくもなるのだが、夕食を決めるのは妻の仕事で、私が執筆に口を挟まれたら嫌なのと同じように妻も仕事に口出しされたら困るだろうと思って文句が言えない」ということだった。毎食、ご飯と漬物以外に一品しか出ないのだそうだが、そんなルーティンを遠藤氏がどこか楽しんでいるような雰囲気が伝わってくる。ここまで質素になると、今日の一品は何が出てくるのか、という楽しみからはじまって、もしかしたら「今日の漬物は昨日から一日経っているから、少しばかり味が変遷しているな」なんていうミニマルな楽しみの境地にまで達するのかもしれない、などと空想を抱かせる。遠藤氏はもっぱら作らず、食すことに専念しているようだが、それにしてもこの質素な洒脱っぷりには到底、私など叶わない。

私は今日も八百屋の前を通ると、葉っぱが長く青々と茂った大根一本68円に目を奪われ購入し、大根の葉と茎を細かく刻んで挽肉と一緒に醤油・みりんで味付けして炒めた。これは私の得意とする粗食メニューで、ご飯の振りかけとしては最高の部類で、酒のつまみにもなるので、この駄文を読んでいただいた皆さんにもぜひ一度試していただきたいと思います。

4.22.2008

病院食の侘しさ

ここ10日ばかり、ぶっ倒れていた。その内5日ほど入院した。物心ついてからはじめての入院である。まずは頭痛がはじまり、その日のうちに高熱を発症。市販の薬品ではおさまらないのでタクシーで近所の大学病院へと足を運ぶが、外来の受付時間を終えていたため救急外来へ行き、診察してもらう。救急であるため簡単な検査しかできず、「2日経って改善されなければ、また来てください」と言われて渡された薬を2日飲むが、熱も頭痛も治まっては再起の繰り返し。それどころか後頭部から後首部にかけて、デーモンが刻印したかの如く巨大で禍々しい出来物が隆起する。ここで再び大学病院へ向かい、診察の結果、そのまま帰れないことに・・いや参りました。

結局、変なウィルスが後頭部の辺りにあったちょっとした外傷部から感染して、こんなことになったみたいだ。入院中はまず、後頭部の髪を切り、禍々しい出来物をヘラみたいなものでゴシゴシと強引に削り取られて(これは痛かった)、あとは患部へ綺麗に皮が再生するのを待つばかり。その間定期的な点滴で血中のウィルスを滅菌するといったところで、手術などはない。入院2日目には頭痛が治まり、3日目にようやく平熱へ戻ると、それまでの寝ることもままならぬ地獄のような日々が、嘘のように穏やかで退屈な日々へと変わった。不思議なもので、高熱と頭痛の中では半狂乱の様相で読書に耽っていたのが(ちなみにこの期間「ロリータ」、「ウェブ進化論」、「離島を旅する」の3冊を読了。いずれも今後の人生について大変考えさせられる本でした。)、元気になり退院が視野に入ってくると途端に本を読む気も失せ、シャバのことが気になって仕方がなくなる。それまでまるで見る気にならなかったTVに目が行くようになり、大して気にならなかった病院食の侘しさも、なかなか耐え難いものと感じられてきた。

まず基本的に米が美味しくない。朝に出るパンも良くない。おかずも当然味気なく、しっかりとカロリー計算されているのでやや大食の類に該当する私には足りないのだ。そうなるとやはり、食事の合間に口に入れるモノを探そうと、院内を彷徨いだすことになる。

この病院には一般的な売店の他に、スターバックスコーヒーが店舗を構えていた。ガラガラと点滴を引っ張りながら院内をうろうろし出した私はやはり、ここへ午前・午後と通うようになった。コーヒーはもとより、サンドウィッチが美味しい。シャバの味である。病院の入り口付近にあるこの店には、私のような入院患者や院内で働く人たち以外にも、お見舞いに来た人がよく顔を出す。そんな外部の人たちが運んでくる、実体のない"なにか外部の空気みたいなもの"がとても、眩しくて新鮮なものに感じられる。

こうして病院食の侘しさをコーヒーとサンドウィッチ、そして"外部の空気"で紛らわす2日間を経て、入院5日目には血液検査の結果も平常な数値へ近づいてきた私は、めでたく退院することになった。これまた不思議なもので、いざ退院が決まると、侘しい病院食について不満を抱いていたこと自体が大変、贅沢で傲慢なことだったのではないかという、我ながら実に殊勝な思いが身をもたげ、今後とも病院食を食べ続けるであろう残された入院患者さん達が暮らす病棟を背に少し反省したのだった。

3.25.2008

ピラミッド校舎

学習院大学にある前川國男設計の通称"ピラミッド校舎"が解体され、新たに高層の新校舎が建てられるというニュースは前から知っていたのだが、先日池袋で用を足した後ぽっかりと空き時間が生まれたので、隣駅の目白まで歩いていって今ピラミッドがどうなっているのかを見てみることにした。

1980年代の話であるが、当時中学受験を控えていた小学校6年生の私は、横浜にあった当時の自宅から都心まで、週末になると模擬試験を受けに出かけていた。そこで目にする東京の風景は新鮮で、男の子がよく興味を持つ、近未来的な光景にやはり当時の私も心を惹かれたものだった。重層に折り重なり今何処にいるかをちゃんと把握できること事態が(子供には)優越感を与える渋谷駅や、NHKや代々木体育館など渋谷付近にある様々な景色が主な対象ではあったが、その中でも確かただの一度模擬試験を受けに訪れただけの、学習院キャンパスにある三角錐型の建築物は確実に心に刻まれた、忘れることの出来ない近未来的な具象の一つであった。それから何年かして私が大学を受験する段階になっても、その心象だけで学習院を受けてみようかという気にさせられたものである。

結局私は学習院を受験せず、その後も縁がないまま年月を経たので、かのキャンパスを訪れるのは実に20年以上ぶりのことなのであった。池袋から雑司が谷の心地よい町並みを経て、目白に至るとそこには、整った佇まいの大学が立地していた。春休みなので人はまばらにしか見当たらない。敷地の中には、私の記憶にあるピラミッド校舎よりもずっと古びて、かつ格別な評価を与えることの出来ない建物が幾つか存在するのだが、これらの明治期から大正期にかけて建てられたであろうものは生きながらえるようだ。キャンパスの中心付近に位置するピラミッドは、周りを別の建物に囲まれていて遠巻きに見ることは出来ず、囲んでいる校舎を越えると不意に現れた。再会したピラミッドは既に解体作業用にロープで囲まれていたが、その時点(3月22日)で外観はまだ保たれていた。そのフォルムが実に格好良いのだ。非常にシンボリックであるにも関わらず、絶妙なバランスで周囲に溶け込んでいる。稀有な存在感だ。

私が持参したカメラで写真を撮り始めると(姉妹サイト「世界の風景(仮)」に写真が掲載されています)、今春この大学に入学予定と思われるガクランを来た若者とその父親が寄ってきて、ピラミッドをバックに2ショット写真を撮ってくれないかとお願いされた。私は快く引き受けたが、ふと見渡すと、ピラミッドの周りには休みにも拘らず幾人かの現役学生やOB、あるいは建築物愛好家と思われる人がいて、皆思い思いに写真を撮っていたのだ。取り壊しを決めた大学側にどのような事情があったにせよ、私はこの風景を亡くすというのは本当に残念なことだと思えた。この拙文をご覧になってピラミッド校舎に興味を持たれた方がいらっしゃったら、是非目白に足を運んでみてください。まだ失われる寸前の風景に間に合うかもしれませんよ。

3.10.2008

ワイズマン初体験

いつの間にか名門競馬新聞「ホースニュース 馬」紙が休刊していた。若き時代の数年を競馬に捧げた、と言っても過言ではない私には、一抹の寂しさを感じさせる出来事であったわけであるが、それとは関係なく今、フレデリック・ワイズマンというドキュメンタリー映画監督の特集が都内で開催されていて、ずっと前から気になっていた彼の「Racetrack(邦題:競馬場)」という作品を、私はようやく観る事が出来た。

某日、会場のアテネ・フランセを数年ぶりに訪れると、平日の夕方にもかかわらずシアターの入口付近は数十名の開場を待つ人々で溢れていた。そのほとんどはアテネや映画美学校の生徒であると思われるおしゃれな若者なのだが、スーツを着たサラリーマンや老年層も若干混じっている。中でも目を惹いたのは、明らかに何故か場違いな所へ迷い込んだという面持ちの、片手に競馬新聞を持ったおっちゃんがいて、開演までの待ち時間を明日のレース予想に費やすその姿であった。私はぼんやりと、ここに集う人々の中で最も私とメンタリティーが近いのはそのおっちゃんではないか(何故ならその時、私のカバンにも競馬新聞が入っていたから)と思いをはせ、ある種のシンパシーを一方的に抱いた。

「競馬場」というタイトルながら、映画は競馬場ではなく牧場で仔馬が生誕するシーンから始まるのだが、やがて高速道路を走る車のカットを重ねて舞台は競馬場へと移される。米国の競馬は中央集権的なものではなく、各競馬場が割と独立していて、調教など色々なことが競馬場内で完結される(その意味において「Racetrack」というタイトルは正しい)。淡々とカットが重ねられていく中で、幾つかのシーンにおいては、非常に丁寧で長く時間を取り、合間にはワイズマンが感覚的に捉えた、少し寄り道であるかのようでいて、それでいてその積み重ねによって本質を見出していくかのような映像が繰り広げられていく。当然ナレーションは一切なく、登場人物間の会話も少ない(これはワイズマンの作品では珍しいことであるらしい)。ベルモント・ステークスという大レースを終えて、人がいなくなった競馬場の場面で映画は終了する。造りとしてはドキュメンタリーの王道とも言うべきものだが、そもそもその王道を開いていった一人が、このワイズマンである。

僭越ながら私はこのワイズマン初体験において、競馬という少しは私自身が理解していると自負するジャンルをワイズマンがどのように料理しているかという、巨匠を試すような気分で映画鑑賞に臨んだのであるが、果たしてそのような鼻高々なる目論見は2時間に凝縮された彼の積み重ねによって粉砕された。ワイズマンが元々競馬に造詣が深かったのかどうかは知らないが、知識がなかったとすればその本質を捉える嗅覚に驚愕せざるを得ず、造詣が深かったのであれば、その先入観を取っ払ったかのようなカットの数々にやはり、物凄い嗅覚を感じさせるのである。嗅覚と一言で言っても、それは天性の好奇心に由来するものもあれば、ドキュメンタリーを数々制作するという場数の踏み方によって養われていくものもあるだろう。ワイズマンの嗅覚はその両方を備えているものだ。

贅沢な時を過ごし、映画館を出ると不意に、忘れていた過去がよみがえってきた。ずっと昔に私がはじめて万馬券を的中させ、少なからぬ掛け金を投入していたため大儲けして狂喜乱舞したあのレースに勝った馬が、マイネルワイズマンという名前だったということを。私はこれがワイズマン初体験ではなかったようだ。

3.04.2008

京都・大阪旅行 -京都の朝-

夜行バスに揺られ眠れぬ夜を過ごした私は、6時に京都駅八条口へ到着した。2月の京都では、この時間はまだ夜が明けたばかりの薄暗く、どんよりとした灰色が空を覆っていた。観光を開始するにも寺社の類は9時まで開門を待たねばならない。私は小腹も空いていたので、とりあえず7時にオープンするはずであるかの有名なイノダコーヒーの本店を目指して動き出すことにした。

数年前、私は日本人とコーヒーの関わりについてのテレビ番組を企画したことがあった。その辺りに詳しい知人の先生に出演をお願いし、紆余曲折を経て結局はラジオ番組としてこの試みは具現化されたのであるが、今ここでその当時、先生から教わったイノダコーヒーについてのウンチクを語ろうとしても、どうしても細部を思い出すことが出来ない。断片的に覚えているのは、歴史あるこの本店が朝早くから開いているのは、市場の近くに立地していたためで、また、特に断りを入れなければコーヒーにミルクと砂糖を入れてくるというサービスの由来は、市場で働く忙しい人々の、さっと飲んでさっと出て行くようなスタイルに合わせ、お客さんの手間を省略したためである、ということだ(と、ここまで書いてしまったところで大変恐縮だが、悲しいことにこの覚えているはずのエピソードですら確かであるという自信がない)。

かくして、コーヒーについての知識は未だほとんど無きに等しい私であるが、以前京都を訪れた際、在住の友人に教わったこの喫茶店の得がたい魅力ははっきりと記憶している。四条烏丸駅で地下鉄を降りた私は、まだ開店まで時間の余裕があったので、ぶらぶらと寄り道しながら歩いた。時折不意に強烈で、それでいて上品な鰹出汁の匂いが私の鼻をつき、やがて消える。そんな時に振り返ると必ず料亭の看板が目に入り、こんなにも朝早くから仕込みを行っているのかと感心する。やがて私は偶然、錦市場の通りに差し掛かる。アーケードの中に入り歩き出すと、暗がりの中、どの店もまださすがに営業を開始してはいないが、何やら店の奥に人がいてごそごそと蠢いているのがわかる。通りにいるのは私一人で、始業前の厳かな錦市場の雰囲気を独占しているかのような、何とも贅沢な気分になる。これが京都の朝だ!

7時を過ぎ、私はイノダコーヒー本店に辿り着き、暖簾をくぐった。既に常連と思わしき数名の客がテーブルについて、株価やらの時事について論議を交わしていた。席に着き、メニューを見て注文しようと顔を上げると、ベテランの(私は数年前に一度ここへ来ただけなのにも関わらず、その顔を覚えていた)ウェイター氏が見計らった絶妙のタイミングで、さりとて見計らったという緊張を私に伝えることなく、オーダーを受けに来た。完璧な給仕である。その後、美味なるハムサンドと、酸味が程よく入ったコーヒーをゆっくりと堪能して私は、この旅行の一番の目的としていた醍醐寺へと向かうことにした。

醍醐寺は京都の中心からは離れているが、その最寄り駅までは地下鉄で辿り着くことが出来る。醍醐の駅を降りると、時計は8時30分を指していた。京都に着いてからここまでの2時間半は、やけに濃密な時間であった。ゆっくりと10分ほど歩いて下醍醐に到着する。世界遺産に指定されているこの醍醐寺は、山の裾野に伽藍を配置した"下醍醐"と、そこから1時間ほど、500メートルほど山を登った場所に位置する"上醍醐"に分かれている。私は寝不足でヘロヘロなのにも関わらず、上醍醐まで山登りする心積もりであった。まずは下醍醐(いわゆる醍醐寺)を見学しようと思い、9時開門のところを8時45分にチケットカウンターへ到着し、既にスタンバイしていた捥ぎりのおばちゃんに「少し早いけど、入れてくれないか?」と頼んだところ、おばちゃんはいかにも京都らしい(これはアウトサイダーから見た京都人への偏見なのかもしれないが)、もったいぶって嫌味の入った、それでいて愛情もある言い回しで、「本当はだめだけど、特別に許してあげる」という内容を伝えてくれた。

下醍醐は期待通りの威厳を備えた場所であった。京都府に現存する最古の建物だと言われる五重塔が伽藍全体に風格の楔を入れている。講堂からは朝早くから、真言密教の呪文めいたお経を、大勢のお坊さんが輪唱している声が聞こえる。しかし私はこの仏閣を堪能しながらも、心は早や、この後に登るであろう醍醐の山に向けられていた。どんなに素晴らしい光景が私を待ち受けているのだろうか?また、前夜一睡も出来ずにいた私の体力は果たして登山に耐えられるのだろうか?1時間ばかりを醍醐寺の探索に費やした後、私の足はのろのろと、上醍醐への登山路へと向けられた。

そこは、鬱蒼とした山林であった。既に体力が限界近くに達していた私は、無理をせずゆっくりと足を運ぶ。時折後ろから、私より2回りは年上であろう、そしてこの山に何度も足を運んでいるのであろうベテランの人々が軽快な足取りで私を抜き去っていく。ベテランの人々は身なりもちゃんとしたハイキング仕様で、ロングコートにカンペールの現代的な靴で身を包んだ私の姿は、全くをもってその場にそぐわなかった。それでも一歩一歩、地を噛み締めて私は前に進んだ。中腹辺りからは雪が積もっていて、私の行程を更に遅らせた。疲れと幻想的な景色の最中、ほぼ無心になって歩み続けた先には、不意を突くような形で山寺のレイアウトが顔を覗かせた。こんな山奥に、立派な寺院建築物の数々が整然と、自然にマッチして配置されている。私はこの奇跡的な光景に胸を打たれ、しばし呆然とした。本当に、呆然としてしまったのである。ふと我にかえり時計を見やると、徒歩60分と案内されていた登山路に私は75分を費やし、それでも時計の針は11時を回ったところであった。こんなに贅沢な朝の、午前の時を過ごすことは、又とないのかも知れぬと私は感慨に耽ったのである。

2.27.2008

京都・大阪旅行 -夜行バス編-

ぽっかりとスケジュールに空きの出来た二月の中旬、私は何処かへ行こうと思い遠くはスペインから近くは伊香保温泉までの、幾つかの候補地から迷った挙句、数年ぶりに京都へ行くことにした。かの地をちゃんと訪れるのは3度目のことである。最初は中学生時の修学旅行で、新幹線で行った記憶がある。2度目は友人と共に、車で訪れた。3度目の今回は一人で夜行バスによる往復である。回を重ねる毎に交通手段のレベルが落ちているのは何故だろう(次回は自転車だったりするのだろうか)?それはさておき、今回は初体験の夜行都市間バス体験について書こうと思う。

某日深夜、指定された西新宿の高層ビル街へ行くと、そこでは百名を優に越える人々が寒さに身を震わせながらバスの到着を待ち受けていた。旅行代理店の社員数名が拡声器を用いて、バスの到着やチェックインの方法などを絶え間なく知らせている。その中、次々と大型のバスが到着し、客を乗せて去っていくのであるが、行き先は東北方面や新潟方面など様々で、私が向かう関西方面だけでもかなりの台数が毎日運行されているようだ。バスの種類も内装によって数タイプに分けられ、スタンダードな一列に2×2名乗車のものから、一列3人掛けタイプや座席がベッドのようになる豪華版まで用意されている。それぞれ料金は異なるが、豪華版のものでも新幹線よりは安い。この価格設定が夜行バスの何よりの魅力であろう。私はその中でも最も安いスタンダードタイプのチケットを購入していた。京都まで片道、4200円である。

安さを求めてか、やはり客層は若者が圧倒的であった。そのほとんどが男女のカップルである。出張目的のサラリーマンや、私のような一人旅風の者はほとんど見かけなかったが、やがて私が搭乗するバスが到着し、指定された席に座ると、私の隣席は齢50を越えた(推定)サラリーマンであった。12時ごろ、バスは発車した。首都高から東名高速をバスは走る。私は眠れぬまま、さりとて明かりもないので本を読むなどして時間を潰せぬまま、ぼんやりと車窓を眺めていた。1時半ごろ足柄サービスエリアでバスは止まった。15分のトイレ休憩後、バスは再び西へと走り出す。私にとっては、ここからが地獄であった。

眠れないのだ。カーテンが閉められ、車窓を見ることもできなくなった。隣のサラリーマンは軽くイビキをかきながら、体をこちらに伸ばしてくる。バスは止まらず、ひたすら走る。私は5時半に草津サービスエリアでバスが止まるまでの4時間、物思いにふけるしかなかった。それにしても4時間休憩なしで運転し続けるドライバーの集中力には驚くばかりだ。バスは6時過ぎに京都駅八条口へ到着し、私はようやく解放された。

私は京都と大阪に滞在した3日間に、既に支払いを済ませている帰りのバスに乗るのを諦めて、新幹線で戻ろうかと何度か考えたものの、やはり余分な費用をかけようと決意するには至らず、再び京都駅八条口へ舞い戻った。復路は2階建てのバスだった。見た目は良いが、居住性は往路のものより更に悪い。今度の隣人は私のように、一人旅を終えたのであろう若い女性だったが、その女性が搭乗後すぐ眠りに落ちてしまうのをうらやましく思いながら、私は再び地獄を味わう。日中京都の街中を歩き詰めて疲れ果てていた私は、眠れないバスの中でふと足を組んだ刹那、腿の筋肉がつってしまい、静寂の中、声にならない悲鳴をあげたのだった。

2.08.2008

再会

引越しは無事終えたものの、元々散らかってた一軒家に輪を掛けて山積みとなったダンボール箱や棚などを徐々に片付けなくてはならないというプレッシャーを感じつつ、雑事などの合間にそれをやってしまおうという気概がいまいち湧いてこない2月初旬のある日、私はとある7人制フットサル大会へ出場することになった。以前在籍していた会社の社員によるフットサル大会である。

以前と言っても既にその会社を辞めてから8年は経っているのだが、同期入社した友人たちとは今でも交流がある。その中には私と同様に、未だにボールを蹴っている奴もいて、そいつに誘われたというのが出場に至る経緯なのだが、大会2週間前に参加した練習で、私が入るチームにはその友人以外に知った顔が存在しなかった。しかもその友人は急用により大会には参加しないことが明らかになり、私は一度、出場を躊躇したのだが、事前練習で出会ったチームの面々が気さくな人たちだったことと、もう一つ、再会してみたい人が別のチームから大会に出るはずだという予想が後押しして、結局私は参加することにした。

当日、会場が家と近かったので自転車を漕いで向かった先は、200人を超そうかというプレイヤーであふれていた。23チーム参加による大きな大会だったのだ。会場をうろうろして、2週間前に会ったチームメイト達を見つける。相変わらず気さくに対応してくれてホッとする。そして隣に陣取る敵チームを見やると、偶然にも私が再会したいと思っていた人がその輪の中にいたのである。

その人は私の直属の先輩だった。大学を出たばかりで社会の何たるかをまるでわかっていなかった私に、社会での振舞い方を教えてくれたのはその先輩だ。押し付けるでもなく、それでいて甘やかすでもなく、少なくとも当時の私にとっては非常にありがたい接し方で、色々なことを結果的に教えてくれた人である。彼とは私があっさりとその会社を辞した後もしばらくは交流が続いていたが、ここ数年は連絡を絶やしていた。

挨拶する間もなく我々の初戦が始まったのだが、試合の審判はその先輩だった。三浦カズと同年齢であるその先輩は私が知っている当時、会社のサッカー部で主力として活躍していたが、今でもサッカー部で活動しているようで、その関係から審判を兼ねているのだ。試合前にセンターサークル付近で並ぶと自然に目が合い、お互いの顔がほころんだ。「お久しぶりです」「おお、久しぶり」と声を掛け合いながら握手をしていた。しかしまあ、試合直前なのでこの場はそれっきりで終えた。

私の不出来もあってチームは初戦を落とし、同じ予選グループに所属する先輩のチームは次元の違うサッカーで初戦を完勝していた。プレイヤーとしてだけでなく審判としても活動する彼とは積もる話に花を咲かせる間もないまま、我々は2戦目にその先輩がいる強豪チームと対決することになった。我々のチームは15人ほど所属する大所帯で、初戦に長いこと出ていた私は出場を遠慮して、対決を眺めていた。カズと同い年の先輩はカズのように(と言えばさすがに大げさだが)衰えを見せることなく躍動していた。ピッチの最後尾から的確にボールを散らし、機を見てはオーバーラップして攻撃に絡むという動きを見せていた。私にはそれが眩しく見えた。しかし圧倒的な実力差をものともせずに我がチームは粘りを見せ、同点のまま終盤を迎える。「・・さん、お願いします!」不意に私へ声が掛かった。今や我がチームは優勝候補相手に引き分けるという目標へ向け一丸となっていた。素人交じりのこのチーム内において客観的に見てもキープ力に長けている私はチームの総意を汲んで、かつてのブラジル代表におけるデニウソン(と言うのは本当に大げさだが)の如く、ボールを受けるとサイドライン付近でドリブルし、とにかくボールを失わないよう必死でキープして時間稼ぎをした。

タイムアップ。我々が優勝したかのように大騒ぎする横で、熱血漢でもあるその先輩は自らのチームメイトを呼び集め、反省会を開いていた。あるいは私が最後に見せた嫌らしいプレイが彼に火を点けたのかも知れぬと想像すると、何やら微笑ましかった。会話がほとんど無くとも、同じ場所でボールを蹴りあっているだけで会話を遥かに越えたのコミュニケーションがしばしば成されてしまうというのがサッカーの醍醐味であるが、まさにそういった空気が私と彼の間に漂っているような気がした。

その後先輩のチームは反省会の甲斐あってか、予想通り圧倒的な力を誇示し続けて優勝し、我々も健闘し上位へ食い込み賞品まで頂いた。その先輩とは対決の後、合間を見て少しだけ会話する時間が出来た。簡単な近況報告の後、ふと私が「しかし、僕とIさん(その先輩)が一緒にいた頃のIさんの年齢を、僕はいつの間にか超えてしまいましたよ」とノスタルジックなことを洩らすと、彼も遠くを見ながら「そうだな・・これからの何年かもあっという間だぞ」と、やはりノスタルジックに返した。私はその一言だけで、十分に満ち足りたのだった。二人はいつかの再会を約束して別れ、私は自転車にまたがり帰路へと向かった。

1.09.2008

引越し

半年に渡って都内の2箇所を彷徨う生活を送っていたが、遂にこの1月いっぱいで元々暮らしていた浅草近くのマンションを明け渡すことになった。多忙を極める連れ合いの荷をあわせ2人分の諸物を梱包しなければならないのだが、私とて諸々の雑事をこなしながらの荷造りとなるわけで、作業は遅々として進まない。大丈夫かな?

ところで"引越し"とタイトルを銘打ったものの、ここでは2年間を過ごした浅草近辺への郷愁を込めて、私が複数回お世話になった飲食店の中から幾つかのお店をピックアップして紹介したいと思う。国際的な観光地のそばで暮らすというのは、なかなか刺激的な体験だった。3軒隣のホテル前にはよく観光バスが停泊していたし、各国のバックパッカーたちとは毎日のようにすれ違った。下町の一軒家の軒下で育まれる植物にも日々目を奪われた。しかし何と言っても、飲食店が充実しているというのが魅力で、その中でも観光客ではなく地元の人が通っているようなさりげない名店に私は心を惹かれた。ここでは、そんなお店について書きます。

・角蔓(蕎麦)
"上野藪蕎麦""並木藪蕎麦"など蕎麦の名店には事欠かない地域だが、ここでは吉原の入口に位置する角蔓を推したい。入る客はほぼ皆、暖簾をくぐるなり「ひやにくだい(冷肉大、冷えた肉蕎麦大盛りの意)」などとぶっきらぼうにオーダーを伝え、さっと食ってさっと帰る。まあこれが下町の粋ってやつなのだろう。江戸時代から続くこの店の蕎麦はワイルドそのもの。極太で長さも不安定、量も多め。トッピングの肉やら葱やらもドカンと盛られている。しかしこれが絶妙に旨い。何百年も前の色男がここでさりげなく蕎麦をすすってスタミナを蓄え、花街へ消えていく・・そういった情景を偲ぶことができる店だ。そういえば蕎麦屋といえば稲荷町から田原町へ移った"おざわ"というお店も、こちらは正統派ながらかなりの名店です。

・SUN(喫茶店)
鶯谷と入谷の間にある、目立たぬ喫茶店。私がこの店を知ったのは某雑誌の東京パスタ特集で、ここの納豆スパゲッティーが紹介されていたからなのであるが、行ってみると本当に雑誌で紹介されたのかという疑問が湧くような、地域密着型の見かけ平凡な喫茶店だった。今月のセットメニューに納豆スパゲッティーが入るまで納豆スパゲッティーをオーダーせずに何度か通ったのは、セットメニューが安いからというけち臭い理由のみならず、他のメニューもヴァリュアブルで、比較的浅煎りのコーヒーも美味しかったからなのであるが、何度目かにして初めて食べた納豆スパゲッティーはバターの味が利いた、雑誌に紹介されるだけのことはあると唸らせるものであった。

・あづま(中華料理)
浅草のすしや通りにある一見ひなびた中華料理屋(だが、割と有名らしい)。"純レバー丼"という看板が目を惹くが、このメニューはこの界隈ではしばしば目にするものである。私はここの店でしか純レバー丼を食べたことがないので他所との比較はできないが、とても美味しいものだった。この店では他にDX(デラックス)ラーメンというメニューが普通のラーメンと独立して存在していて、これも平凡な外見と裏腹になかなか味わい深い一品だった。が、普通のラーメンをここで食べたことがないのでこれまた比較ができない。ちなみに、ここには大して旨くないメニューが地雷のように幾つか存在する。そういったものを経験し、乗り越えていくのもまた下町裏グルメの楽しさなのではないかと思う。

他にも、オマージュ(フランス料理、浅草外れのとても不便な場所にあるが呆れるほど安くて旨い)や、初音茶屋(甘味、浅草ひさご通り沿いに所在するこの店より繊細なカキ氷を私は知らない)など、私が感銘を受けたさりげない名店は枚挙に暇がないほどこの地には存在する。だがしかし、こういった裏の名店というものは表の名店とは違って、どこにでも存在しえるものであろう。引越し先について、そこで育った連れ合いは愛憎を込めて「世界で最も平凡な場所」というような表現をした。私はそこまで平凡だとも思っていないが、もしそうだとしても、世界一というのは何にせよ大したものだし、そこからインスパイアされることというのは大きいんじゃないかと、むしろ期待を寄せている次第である。そこには感銘を受けるような名店もおそらく幾つか存在するだろうし、そういったお店を幾つかモノにしたら、またこの場で発表させてもらおうと思っている。