3.10.2008

ワイズマン初体験

いつの間にか名門競馬新聞「ホースニュース 馬」紙が休刊していた。若き時代の数年を競馬に捧げた、と言っても過言ではない私には、一抹の寂しさを感じさせる出来事であったわけであるが、それとは関係なく今、フレデリック・ワイズマンというドキュメンタリー映画監督の特集が都内で開催されていて、ずっと前から気になっていた彼の「Racetrack(邦題:競馬場)」という作品を、私はようやく観る事が出来た。

某日、会場のアテネ・フランセを数年ぶりに訪れると、平日の夕方にもかかわらずシアターの入口付近は数十名の開場を待つ人々で溢れていた。そのほとんどはアテネや映画美学校の生徒であると思われるおしゃれな若者なのだが、スーツを着たサラリーマンや老年層も若干混じっている。中でも目を惹いたのは、明らかに何故か場違いな所へ迷い込んだという面持ちの、片手に競馬新聞を持ったおっちゃんがいて、開演までの待ち時間を明日のレース予想に費やすその姿であった。私はぼんやりと、ここに集う人々の中で最も私とメンタリティーが近いのはそのおっちゃんではないか(何故ならその時、私のカバンにも競馬新聞が入っていたから)と思いをはせ、ある種のシンパシーを一方的に抱いた。

「競馬場」というタイトルながら、映画は競馬場ではなく牧場で仔馬が生誕するシーンから始まるのだが、やがて高速道路を走る車のカットを重ねて舞台は競馬場へと移される。米国の競馬は中央集権的なものではなく、各競馬場が割と独立していて、調教など色々なことが競馬場内で完結される(その意味において「Racetrack」というタイトルは正しい)。淡々とカットが重ねられていく中で、幾つかのシーンにおいては、非常に丁寧で長く時間を取り、合間にはワイズマンが感覚的に捉えた、少し寄り道であるかのようでいて、それでいてその積み重ねによって本質を見出していくかのような映像が繰り広げられていく。当然ナレーションは一切なく、登場人物間の会話も少ない(これはワイズマンの作品では珍しいことであるらしい)。ベルモント・ステークスという大レースを終えて、人がいなくなった競馬場の場面で映画は終了する。造りとしてはドキュメンタリーの王道とも言うべきものだが、そもそもその王道を開いていった一人が、このワイズマンである。

僭越ながら私はこのワイズマン初体験において、競馬という少しは私自身が理解していると自負するジャンルをワイズマンがどのように料理しているかという、巨匠を試すような気分で映画鑑賞に臨んだのであるが、果たしてそのような鼻高々なる目論見は2時間に凝縮された彼の積み重ねによって粉砕された。ワイズマンが元々競馬に造詣が深かったのかどうかは知らないが、知識がなかったとすればその本質を捉える嗅覚に驚愕せざるを得ず、造詣が深かったのであれば、その先入観を取っ払ったかのようなカットの数々にやはり、物凄い嗅覚を感じさせるのである。嗅覚と一言で言っても、それは天性の好奇心に由来するものもあれば、ドキュメンタリーを数々制作するという場数の踏み方によって養われていくものもあるだろう。ワイズマンの嗅覚はその両方を備えているものだ。

贅沢な時を過ごし、映画館を出ると不意に、忘れていた過去がよみがえってきた。ずっと昔に私がはじめて万馬券を的中させ、少なからぬ掛け金を投入していたため大儲けして狂喜乱舞したあのレースに勝った馬が、マイネルワイズマンという名前だったということを。私はこれがワイズマン初体験ではなかったようだ。

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