3.25.2008

ピラミッド校舎

学習院大学にある前川國男設計の通称"ピラミッド校舎"が解体され、新たに高層の新校舎が建てられるというニュースは前から知っていたのだが、先日池袋で用を足した後ぽっかりと空き時間が生まれたので、隣駅の目白まで歩いていって今ピラミッドがどうなっているのかを見てみることにした。

1980年代の話であるが、当時中学受験を控えていた小学校6年生の私は、横浜にあった当時の自宅から都心まで、週末になると模擬試験を受けに出かけていた。そこで目にする東京の風景は新鮮で、男の子がよく興味を持つ、近未来的な光景にやはり当時の私も心を惹かれたものだった。重層に折り重なり今何処にいるかをちゃんと把握できること事態が(子供には)優越感を与える渋谷駅や、NHKや代々木体育館など渋谷付近にある様々な景色が主な対象ではあったが、その中でも確かただの一度模擬試験を受けに訪れただけの、学習院キャンパスにある三角錐型の建築物は確実に心に刻まれた、忘れることの出来ない近未来的な具象の一つであった。それから何年かして私が大学を受験する段階になっても、その心象だけで学習院を受けてみようかという気にさせられたものである。

結局私は学習院を受験せず、その後も縁がないまま年月を経たので、かのキャンパスを訪れるのは実に20年以上ぶりのことなのであった。池袋から雑司が谷の心地よい町並みを経て、目白に至るとそこには、整った佇まいの大学が立地していた。春休みなので人はまばらにしか見当たらない。敷地の中には、私の記憶にあるピラミッド校舎よりもずっと古びて、かつ格別な評価を与えることの出来ない建物が幾つか存在するのだが、これらの明治期から大正期にかけて建てられたであろうものは生きながらえるようだ。キャンパスの中心付近に位置するピラミッドは、周りを別の建物に囲まれていて遠巻きに見ることは出来ず、囲んでいる校舎を越えると不意に現れた。再会したピラミッドは既に解体作業用にロープで囲まれていたが、その時点(3月22日)で外観はまだ保たれていた。そのフォルムが実に格好良いのだ。非常にシンボリックであるにも関わらず、絶妙なバランスで周囲に溶け込んでいる。稀有な存在感だ。

私が持参したカメラで写真を撮り始めると(姉妹サイト「世界の風景(仮)」に写真が掲載されています)、今春この大学に入学予定と思われるガクランを来た若者とその父親が寄ってきて、ピラミッドをバックに2ショット写真を撮ってくれないかとお願いされた。私は快く引き受けたが、ふと見渡すと、ピラミッドの周りには休みにも拘らず幾人かの現役学生やOB、あるいは建築物愛好家と思われる人がいて、皆思い思いに写真を撮っていたのだ。取り壊しを決めた大学側にどのような事情があったにせよ、私はこの風景を亡くすというのは本当に残念なことだと思えた。この拙文をご覧になってピラミッド校舎に興味を持たれた方がいらっしゃったら、是非目白に足を運んでみてください。まだ失われる寸前の風景に間に合うかもしれませんよ。

3.10.2008

ワイズマン初体験

いつの間にか名門競馬新聞「ホースニュース 馬」紙が休刊していた。若き時代の数年を競馬に捧げた、と言っても過言ではない私には、一抹の寂しさを感じさせる出来事であったわけであるが、それとは関係なく今、フレデリック・ワイズマンというドキュメンタリー映画監督の特集が都内で開催されていて、ずっと前から気になっていた彼の「Racetrack(邦題:競馬場)」という作品を、私はようやく観る事が出来た。

某日、会場のアテネ・フランセを数年ぶりに訪れると、平日の夕方にもかかわらずシアターの入口付近は数十名の開場を待つ人々で溢れていた。そのほとんどはアテネや映画美学校の生徒であると思われるおしゃれな若者なのだが、スーツを着たサラリーマンや老年層も若干混じっている。中でも目を惹いたのは、明らかに何故か場違いな所へ迷い込んだという面持ちの、片手に競馬新聞を持ったおっちゃんがいて、開演までの待ち時間を明日のレース予想に費やすその姿であった。私はぼんやりと、ここに集う人々の中で最も私とメンタリティーが近いのはそのおっちゃんではないか(何故ならその時、私のカバンにも競馬新聞が入っていたから)と思いをはせ、ある種のシンパシーを一方的に抱いた。

「競馬場」というタイトルながら、映画は競馬場ではなく牧場で仔馬が生誕するシーンから始まるのだが、やがて高速道路を走る車のカットを重ねて舞台は競馬場へと移される。米国の競馬は中央集権的なものではなく、各競馬場が割と独立していて、調教など色々なことが競馬場内で完結される(その意味において「Racetrack」というタイトルは正しい)。淡々とカットが重ねられていく中で、幾つかのシーンにおいては、非常に丁寧で長く時間を取り、合間にはワイズマンが感覚的に捉えた、少し寄り道であるかのようでいて、それでいてその積み重ねによって本質を見出していくかのような映像が繰り広げられていく。当然ナレーションは一切なく、登場人物間の会話も少ない(これはワイズマンの作品では珍しいことであるらしい)。ベルモント・ステークスという大レースを終えて、人がいなくなった競馬場の場面で映画は終了する。造りとしてはドキュメンタリーの王道とも言うべきものだが、そもそもその王道を開いていった一人が、このワイズマンである。

僭越ながら私はこのワイズマン初体験において、競馬という少しは私自身が理解していると自負するジャンルをワイズマンがどのように料理しているかという、巨匠を試すような気分で映画鑑賞に臨んだのであるが、果たしてそのような鼻高々なる目論見は2時間に凝縮された彼の積み重ねによって粉砕された。ワイズマンが元々競馬に造詣が深かったのかどうかは知らないが、知識がなかったとすればその本質を捉える嗅覚に驚愕せざるを得ず、造詣が深かったのであれば、その先入観を取っ払ったかのようなカットの数々にやはり、物凄い嗅覚を感じさせるのである。嗅覚と一言で言っても、それは天性の好奇心に由来するものもあれば、ドキュメンタリーを数々制作するという場数の踏み方によって養われていくものもあるだろう。ワイズマンの嗅覚はその両方を備えているものだ。

贅沢な時を過ごし、映画館を出ると不意に、忘れていた過去がよみがえってきた。ずっと昔に私がはじめて万馬券を的中させ、少なからぬ掛け金を投入していたため大儲けして狂喜乱舞したあのレースに勝った馬が、マイネルワイズマンという名前だったということを。私はこれがワイズマン初体験ではなかったようだ。

3.04.2008

京都・大阪旅行 -京都の朝-

夜行バスに揺られ眠れぬ夜を過ごした私は、6時に京都駅八条口へ到着した。2月の京都では、この時間はまだ夜が明けたばかりの薄暗く、どんよりとした灰色が空を覆っていた。観光を開始するにも寺社の類は9時まで開門を待たねばならない。私は小腹も空いていたので、とりあえず7時にオープンするはずであるかの有名なイノダコーヒーの本店を目指して動き出すことにした。

数年前、私は日本人とコーヒーの関わりについてのテレビ番組を企画したことがあった。その辺りに詳しい知人の先生に出演をお願いし、紆余曲折を経て結局はラジオ番組としてこの試みは具現化されたのであるが、今ここでその当時、先生から教わったイノダコーヒーについてのウンチクを語ろうとしても、どうしても細部を思い出すことが出来ない。断片的に覚えているのは、歴史あるこの本店が朝早くから開いているのは、市場の近くに立地していたためで、また、特に断りを入れなければコーヒーにミルクと砂糖を入れてくるというサービスの由来は、市場で働く忙しい人々の、さっと飲んでさっと出て行くようなスタイルに合わせ、お客さんの手間を省略したためである、ということだ(と、ここまで書いてしまったところで大変恐縮だが、悲しいことにこの覚えているはずのエピソードですら確かであるという自信がない)。

かくして、コーヒーについての知識は未だほとんど無きに等しい私であるが、以前京都を訪れた際、在住の友人に教わったこの喫茶店の得がたい魅力ははっきりと記憶している。四条烏丸駅で地下鉄を降りた私は、まだ開店まで時間の余裕があったので、ぶらぶらと寄り道しながら歩いた。時折不意に強烈で、それでいて上品な鰹出汁の匂いが私の鼻をつき、やがて消える。そんな時に振り返ると必ず料亭の看板が目に入り、こんなにも朝早くから仕込みを行っているのかと感心する。やがて私は偶然、錦市場の通りに差し掛かる。アーケードの中に入り歩き出すと、暗がりの中、どの店もまださすがに営業を開始してはいないが、何やら店の奥に人がいてごそごそと蠢いているのがわかる。通りにいるのは私一人で、始業前の厳かな錦市場の雰囲気を独占しているかのような、何とも贅沢な気分になる。これが京都の朝だ!

7時を過ぎ、私はイノダコーヒー本店に辿り着き、暖簾をくぐった。既に常連と思わしき数名の客がテーブルについて、株価やらの時事について論議を交わしていた。席に着き、メニューを見て注文しようと顔を上げると、ベテランの(私は数年前に一度ここへ来ただけなのにも関わらず、その顔を覚えていた)ウェイター氏が見計らった絶妙のタイミングで、さりとて見計らったという緊張を私に伝えることなく、オーダーを受けに来た。完璧な給仕である。その後、美味なるハムサンドと、酸味が程よく入ったコーヒーをゆっくりと堪能して私は、この旅行の一番の目的としていた醍醐寺へと向かうことにした。

醍醐寺は京都の中心からは離れているが、その最寄り駅までは地下鉄で辿り着くことが出来る。醍醐の駅を降りると、時計は8時30分を指していた。京都に着いてからここまでの2時間半は、やけに濃密な時間であった。ゆっくりと10分ほど歩いて下醍醐に到着する。世界遺産に指定されているこの醍醐寺は、山の裾野に伽藍を配置した"下醍醐"と、そこから1時間ほど、500メートルほど山を登った場所に位置する"上醍醐"に分かれている。私は寝不足でヘロヘロなのにも関わらず、上醍醐まで山登りする心積もりであった。まずは下醍醐(いわゆる醍醐寺)を見学しようと思い、9時開門のところを8時45分にチケットカウンターへ到着し、既にスタンバイしていた捥ぎりのおばちゃんに「少し早いけど、入れてくれないか?」と頼んだところ、おばちゃんはいかにも京都らしい(これはアウトサイダーから見た京都人への偏見なのかもしれないが)、もったいぶって嫌味の入った、それでいて愛情もある言い回しで、「本当はだめだけど、特別に許してあげる」という内容を伝えてくれた。

下醍醐は期待通りの威厳を備えた場所であった。京都府に現存する最古の建物だと言われる五重塔が伽藍全体に風格の楔を入れている。講堂からは朝早くから、真言密教の呪文めいたお経を、大勢のお坊さんが輪唱している声が聞こえる。しかし私はこの仏閣を堪能しながらも、心は早や、この後に登るであろう醍醐の山に向けられていた。どんなに素晴らしい光景が私を待ち受けているのだろうか?また、前夜一睡も出来ずにいた私の体力は果たして登山に耐えられるのだろうか?1時間ばかりを醍醐寺の探索に費やした後、私の足はのろのろと、上醍醐への登山路へと向けられた。

そこは、鬱蒼とした山林であった。既に体力が限界近くに達していた私は、無理をせずゆっくりと足を運ぶ。時折後ろから、私より2回りは年上であろう、そしてこの山に何度も足を運んでいるのであろうベテランの人々が軽快な足取りで私を抜き去っていく。ベテランの人々は身なりもちゃんとしたハイキング仕様で、ロングコートにカンペールの現代的な靴で身を包んだ私の姿は、全くをもってその場にそぐわなかった。それでも一歩一歩、地を噛み締めて私は前に進んだ。中腹辺りからは雪が積もっていて、私の行程を更に遅らせた。疲れと幻想的な景色の最中、ほぼ無心になって歩み続けた先には、不意を突くような形で山寺のレイアウトが顔を覗かせた。こんな山奥に、立派な寺院建築物の数々が整然と、自然にマッチして配置されている。私はこの奇跡的な光景に胸を打たれ、しばし呆然とした。本当に、呆然としてしまったのである。ふと我にかえり時計を見やると、徒歩60分と案内されていた登山路に私は75分を費やし、それでも時計の針は11時を回ったところであった。こんなに贅沢な朝の、午前の時を過ごすことは、又とないのかも知れぬと私は感慨に耽ったのである。