6.27.2007

「世界難民の日」フットサル大会

先日、友人達の誘いに乗って「世界難民の日」フットサル大会という催しを観戦した。今年で4年目を迎えるというこの大会は、協力・後援の一覧にJICA(国際協力機構)やUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)などの公的な名前が並び、ゲストに岡田武史・元サッカー日本代表監督のようなビッグネームを招きつつも、都内の公立中学校グラウンドで実にアットホームな雰囲気の中開催された。ちなみに岡田氏はこういった国際問題に関心があるのか、第1回目からこの催しに協力をしているのだそうだ。

ところで難民について少しウンチクを語ろう。
「人種・宗教・国籍・政治的信条などが原因で、自国の政府から迫害を受ける恐れがあるために国外に逃れた者」と難民条約によって定義付けられたいわゆる政治難民の他にも、天災や戦争、あるいは経済的な理由によって別地域への移動を余儀なくされた人までも加えた広義の難民は、世界に何千万人と存在しているらしい。こうした人たちを受け入れ、救済するような国際条約の類は徐々に整備されていき、日本もそれらに加入しているのだが、他諸国に比べ受け入れ人数が少な過ぎるという批判を受けている様子。調べたところ、1982年から2005年の間に日本で難民認定を申請した人は3928人、その内認定された人は376人という数字が出てきた(法務省出入国管理局発表)。ウンチクはここで打ち止めとするが、とにもかくにもこういった人数の日本在住難民たちが、出生地区毎にチームを結成して、フットサル競技で優勝を争おうというのがこの大会の流れなのである。

参加チームは*ビルマ(2チーム)、ラオス、カンボジア、ベトナム、クルド、アフガンなどに加えて難民を日ごろサポートしている日本人弁護士チームなど、計12チーム。予選グループリーグがはじまった。レベルは結構高い。私自身普段からフットサルをたしなんでいるのだが、たまに参加するフットサル大会で「強いなあ」と思わせる相手チームのレベルと遜色ないぐらいだ。特に目を惹いたのは、難民チームたちのシュート技術である。パスやドリブルはそこそこでもシュートだけは各チームとも実に強烈かつ正確だ。話が飛躍しすぎていることは承知だが、よくサッカー日本代表について語られる「決定力不足」というレッテルについて、なるほどなあと追認してしまうような光景が各ゲームで繰り広げられていた。

様々なチームが出場している中で、私はビルマのチームに着目した。というのは大会のパンフレットに、"ビルマは軍事政権になる前の1975年にアジアのサッカーチャンピオンになった""その頃トップレベルだった選手が参加している"というような件が紹介されていたからである。私は、誰がその選手なのだろうと思いビルマのゲームを凝視した。しかしビルマチームの選手は大半が小太りのおじさんで、明確な見分けがつかない。特にこれといったスーパープレイもないままそのゲームは進み、凝視し続けていた私の緊張がふっと緩んだ刹那。コート中央でビルマの小太りおじさんがパスを受けた。前に相手のマークは1人。おじさんは、全く体を弛緩させたような状態で上半身を揺らした、見事なフェイントだ!マーカーの動きを無力化させ、抜き去る。そして数歩進んでシュート。ボールはサイドネットに突き刺さり、私はその一連の動きにしばし釘付けとなった。

友人達へ「誰がトップレベルの選手かわかったよ」と自慢げに話す私。だが、プレイは覚えていても顔や体系は覚えていなかった。他のビルマ選手達と酷似していたからだ。それでもまあ、次の試合からもスーパープレイを見せてくれるだろうと期待して、その後もビルマの試合には注目していたのだが、ビルマはその後、輝いたプレイを見せることなくベスト4で敗退した。決勝にはユニフォームを揃え新しいスパイクを皆履いた、比較的資金力があると想像させるカンボジアとベトナムが勝ち上がった。

いつの間にかビルマを心から応援していた私にとって、この決勝戦はほとんど興味のないものとなっていた。

*ビルマについては現在、ミャンマーと表記されることが多いのですが、ミャンマーという呼び名にすることを要請したのは現軍事政権で、国交を結んでいる日本としてもそれに倣ったという経緯と、その軍事政権に反対している難民が本稿の主題であったということから、ビルマという表記に統一しました。なお今大会は、選手たちのプライバシーを考慮して写真撮影禁止ということになっており、様々な写真を公開している姉妹サイト(世界の風景(仮))にもその様子はアップロードされないことをご了承ください。