5.24.2007

「GOAL !」謎のカットについての妄想的考察

先日、TVで放映されていた映画「GOAL !」を観賞した。今週末には続編も公開されるそうだ。

映画自体は元々の期待値が低かったこともあり、案外と楽しめた。主人公がリザーブリーグからトップチームへと昇格するあたりの演出には良い意味でのハリウッド的スペクタクルを堪能することができたし、脇を固めるスティーヴン・ディレイン、マーセル・ユーレスといった俳優の演技も見ごたえがあった。ストーリーの設定にもギリギリのリアリズムを感じさせるものがあった。

しかし私がここで展開しようとしているのはそういった映画の全体的な感想ではなくて、ハイライト・シーンに存在する1つの摩訶不思議なカットについてである。主人公サンティの所属するチームは大事なゲームの終盤、相手ゴールから右よりの位置でフリーキックの機会を得て、それをサンティが見事に直接ゴールへ蹴り込むのであるが、彼はその時左足でフリーキックを蹴るのである。それまでのシーンで幾度となく右利きであることを証明しているのにも関わらず、である。

これを見たサッカーを少しでも知っている観客の9割方は、首をひねったはずだ。それぐらいこのカットには違和感がある。一体どのような経緯を経てこのカットが採用されてのであろうか。

まず考えられるのは、演出上「相手ゴール右よりの位置からフリーキックを蹴らせる」必然性があった、ということである。通常右よりから蹴る場合は左足でフリーキックを蹴ったほうが都合は良い。逆に言えば左よりの位置から蹴るのであれば右利きのサンティが右足でフリーキックを蹴る、という設定で問題がなくなるのだけど、その場合カメラは正反対の位置取りをすることになり、例えばキックするサンティの背景は違うものとなる。このカットは大分引き(つまりキックする主人公が小さく、その分背景が大きく映る)のサイズで撮影されているので、"引き"のサイズであることを優先事項とすれば、背景の重要性も増すことになる。しかし舞台となったサッカー場(セント・ジェームス・パーク)のことはあまりよく分からないけど、メインスタンド側とバックスタンド側で、右利きの選手が左足でフリーキックを蹴るという違和感を無視しなければいけないほど、そんなにも風景が異なるものだろうか?しかもピントは主人公に定められているので、背景はボヤけているというのに・・

次に考えたのが、続編以降へつなげる示唆という可能性についてである。この映画は最初から3部作ということで製作されているらしく、続編でサンティはレアル・マドリッドに移籍するようなのだが、そのことを示唆するシーンは存在している。ストーリー上全く関係のないマドリッドの選手(ベッカム・ジダン・ラウル)が登場する一幕が用意されているのだ。こうした演出と同じように、続編あるいは続々編においてこの主人公は、突然自分が本来左利きであったことに目覚め、スランプを克服する、といった破天荒なストーリーが待ち受けているのではないか。しかしこの仮説にも問題がある。私は冒頭でこの映画の根底に流れるリアリズムについて触れた。その詳細に触れることは避けるし、リアリティーのある映画こそが良い映画だと言うつもりも更々ないが、ハイライト・シーンまで持ちこたえていたギリギリのリアリティーが件のフリーキックシーンでいきなり破綻したことに私は疑念と興味を持っているのであり、「実は左利きだった」という破綻の上塗りが真相だったとすれば、それまでのリアリティーは一体何だったのかということになる。

最後に考えたのが、「映画制作における分業の徹底と監督のイマジネーション」ということについてである。映画やテレビの世界では、通常サラリーマンがビジネス活動をするような感覚では考えられないほと分業が徹底していて、その中にはもちろん、今問題にしているような「違和感」を指摘して注進するという役割だけに没頭するという人もいるのだが、その人が当然このフリーキックシーンの違和感に気付いたとして監督やプロデューサーにその声が届いても、最終的な演出上の決定権を持つのはやはり監督ということになる。この映画を撮った監督は、ハイライト手前まで通じていたリアリティーを見る限り、サッカーとそれを取り巻く状況を知らない人ではあるまい、というよりも、よく知っている人なのではないかと思う。そんな人が何故右利きの選手に左足でフリーキックを蹴らせたのか。

話は逸れるが、「フチボウ-美しきブラジルの蹴球」という本がある。この本は非常に面白くて、私のようにある程度はサッカーについて知っているという自負のある者の価値観を叩き割るような力が、紹介されているエピソードの数々に備わっている(特にガリンシャという選手にまつわる話は、サッカー好きには必読に値すると思う)。「GOAL !」の監督はもしかしたら、元々知りえていたサッカーについての物事を一旦壊しにかかるような作業を自らに課したのではないだろうか。その過程に「フチボウ」が関わっているかどうかはともかく、既成概念を破っていく道程において監督はふと、「別に右利きの奴が左でも同等に蹴れたっていいじゃないか、むしろ左で蹴ることに意義があるんじゃないのか」なんていうことを考え、「この思いつきはフットボールの概念を超えた素晴らしいアイデアだ」と思うに至り、周囲に違和感を指摘されても頑固にそのアイデアを守り通したのではないか?

以上、1映画の1シーンについての考察をまとめてみたのだが、真相はどこにあるのだろうか。私は案外、一番最後に書いた妄想めいたものがそれに近いのではないかと思っている。ところで今から数十分後にはプロサッカー界における今年のハイライト・UEFAチャンピオンズリーグ決勝戦が開催されるわけだが、できうればサッカーの既成概念を打ち破るようなとんでもないプレーを見ることができたら素敵だな。

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