2.19.2009

一戦必勝

1月末、私は久々に川崎競馬場へと足を運んだ。当地における年に一度の大イベント・川崎記念を見に行く為である。川崎記念の発走時刻は16時ごろであったが私は何とか15時半に現地へ到着し、珍しくも人混みに埋められたパドックにて出走馬たちを急ぎ眺め、ドタバタと馬券を購入し、やっとレースの5分前にゴール板近くの立ち位置を確保し落ち着くことができた(と言っても5分前というのはギミックで、往々にして地方競馬場では"馬券販売締め切り1分前"などというアナウンスから3分ぐらいは締め切らない、という現象が起こる)。

ホッと一息ついていると、すぐ近くにいる老夫婦の会話が耳に入ってきた。しばらくはフリオーソという馬の主戦騎手が戸崎騎手に代わってから、どうもこの馬(の馬券)を買う気がしないという話を奥さんが続け、旦那がそれを聞くという感じであったが、やがて大本命のカネヒキリについての話がはじまった。この馬はかつてダート競走の世界で頂点を極めたもののドバイの国際レースに挑戦し敗れ、その後2年半にも渡り再起不能と思われた怪我の為に休養、奇跡的に復帰した2戦目から大レースを連勝中という、実にドラマチックな経歴を持ちながら、やはり芝ではなくダートの馬だからかイマイチ地味目な存在なのである。

「しかしこの馬、この後どのレースに出るんだろうね?」
「え、フェブラリーSでしょ?」
「フェブラリー出るかなあ」
「出るよ、その後またドバイでしょ」
「そっちに行くかなあ?」

夫婦はこのように、目前のレースではなくカネヒキリの今後について会話を交わしていた。奥さんは今後、中央競馬の大レースであるフェブラリーSを経てドバイに再挑戦という、光の当たる表街道を行くと信じて疑わないのに対し、旦那のほうは一度大怪我を負ったカネヒキリを気遣ってか、この川崎記念のような、大レースと言っても裏街道に位置するレースを選んでいって欲しいと考えているようだった。私はその会話を興味深く聞いていたが、奥さんが続けてこんなことを言った。

「でもさ、どのレースに出るとしても、この馬の足はもうガラスだから、一戦必勝だよ」

この言葉は不意に私の心を動かした。そう、おそらくこの馬はどの馬にも増して、いつ再びパンクするかもわからないというところで調教をこなし、レースに出走しているはずだ。目前のレースを完走し、良い結果を出すことが全てで、数レース先までのローテーションなんてことは考えられないのだろう(勿論、馬がそんなことを考えるはずもないが、擬人化して共感するという作業は競馬の一つの醍醐味なのです)。私は急にそんなカネヒキリを愛おしく思い、手元にある馬券にこの馬が絡んでいない事を後悔し出したがもう遅い。その時既に、"馬券締め切り1分前"コールから2分は経過し、いくらなんでもいい加減締め切り時刻になることは明白だったのだ。

レースは、珍しく逃げたフリオーソを、カネヒキリが慌てず最後の直線できっちり捉え勝利。完勝ではあったが余裕を持ってというほどのものではなく、ここ数戦、同じレースを走り続けたフリオーソとの着差が徐々に縮まっているのも気になるところだが、しかしそれでも結果を残すところに、楽勝を続けていた往年のカネヒキリとはまた違った復帰後の凄みを感じさせるという、味のあるレースだったように思う。

そのカネヒキリが22日、フェブラリーSに出走する。復帰後全力で走り続けるこの馬のガス欠やパンクを心配しつつも、一戦必勝の走りを応援せずにはいられないだろう。

12.18.2008

最終回

今クール、私にしては珍しいことに、毎週TVドラマを見ていた。「風のガーデン」というドラマである。倉本聰脚本、中井貴一主演のこの作品を初回の時点で見る気にさせたのは、やはり緒形拳の遺作となったからだ。

「北の国から」で有名な倉本氏の脚本は、今作も相変わらずのモノローグを中心に構成された家族愛を謳う内容であり、正直言って私の好みではない。脚本家としては同世代でよく比較されるであろう山田太一氏の、いつまでも現代社会の変わりゆく様相をウォッチし、風刺していく姿勢のほうがしっくりといくのであるが、それでもこの「風のガーデン」においては、モノローグはある程度物語の中心ではなく周辺に配置されたことによって抑制されたイメージを受けた。何より俳優陣の演技が圧倒的であった。中心人物たちだけではなく、脇役のガッツ石松氏なんかにも「上手いなあ」と感心させられたし、何人かの新人俳優には、その力量を伸ばすために存在するかのような、大変に長いセリフや長回しのワンカットなどが用意されていて、そういう配慮にも好感が持てた。そして、富良野の自然や花景色も実に美しかった。この辺はもう、地元である倉本氏の独壇場なのだろう。

そういうわけで、久々にTVドラマというものを堪能させてもらった2ヶ月強だったわけなのだが、見終えた今思うのは、フィクションをフィクションとして堪能しただけではなく、別の要素を同時に見続けていたのだなあという感想である。その別の要素とは、初回のオンエアを待つことなくガンによって亡くなった緒形氏が、その最新にして最後の姿を披露する場であったということだ。もちろん緒形氏と面識のない私は、亡くなる前にだって彼のことをTVでしか見たことがないし、報道によって亡くなったことを知った後すぐにこのドラマがはじまり、毎週演じているのを眺めているのは不思議な感覚で、故人だということをほとんど忘れていた。そして奇遇にもこのドラマは、ガンに侵された中井貴一(が演じる主役)が亡くなるまでを描いたものであり、中井氏が病に苦しむ演技や(役作りとして)痩せていく姿を通じて、本当にガンを患っている(がドラマの中では健康な)緒形氏の身を案じてしまうという、奇妙な相乗効果が生じていたのである。

そしてつい先ほど最終回が終わり、本当は10月に亡くなっている緒形氏が、ああ本当に亡くなったんだなあ・・という感慨にようやくふけることになった。合掌。

11.28.2008

三崎のマグロ

先日、介護に追われるパートナーにつかの間の休日が訪れたので、連れ立って三浦半島へ小旅行に出掛けた。かの半島は神奈川生まれの神奈川育ちである私にとっては愛すべき土地であり、大概の見所へは足を運んでいると思うのだが、今回は私も初めて訪れる、なにかと評判の高い横須賀美術館をまずは目的地と設定。澄んだ秋空の下、車を走らせた。

横須賀の市街地を抜け、観音崎の海沿いを行くと、コンパクトな現代建築が姿を現す。大変恵まれた立地条件であると言えよう。既に14時近くだということもあって、空腹感を覚えた我々は入館する前に付随するイタリアンレストランへと向かった。混んではいたが、10分程度の待ち時間で席を確保することが出来た。東京にある有名店が経営しているらしいこのレストラン。当然、期待は膨らむのだが、出てきたものはやや残念なものであった。まず"地魚"と銘打ったメインディッシュが鮭っていうのは、仮に地元の市場で仕入れたのだとしても期待外れというものだ。サラダも、味付けは悪くないのだがやや素材の新鮮味に欠けるものだった。ここで私は小旅行の出鼻を少しくじかれたような気になったが、かと言って酷い料理というわけでもなかったので「まあ、こんなもんだよね」なんていう高飛車な感想を抱きながら店を出て、美術館へ入る。


(横須賀美術館外観)

ここでは常設展示の他に、「日本彫刻の近代」という企画展が開かれていた。仏像や人形といった立体造形物の時代から、明治期に西洋から塑造技法と美術思想が輸入され、伝統的なものと交じり合って独特の歴史を重ねていったという流れが、オーソドックスに示され、私のような素人には非常に判り易く楽しむことができた。時代によって人物像の鼻が高くなったり、低くなったりする過程が面白い。おそらくこれは、西洋の直接的な影響を受けた後に、そこを離れ日本独自の、あるいは作家個々の表現によるものを目指したという過程を示しているのだと類推するが、作家主義というもの自体がやはり西洋からの影響なのではないかとも思う。明治から昭和中期に至る日本彫刻の近代という流れは、作家たちの大いなる苦悩の下で育まれたグローバルスタンダードへの到達の道筋であり、また同時にローカルな伝統工芸への美術的な解釈を含む再評価の途上であったのだろう。

とまあ、企画展の観覧にはすっかり満足した私であるが、巷では高い評価を得ている美術館建築自体には少し不満を覚えた。外見等のデザインはさておき、私が美術館に求める"回廊性"とも言うべきものが希薄なのだ。企画展を見て、常設展を見て、屋上に登り景色を見て・・などとする過程において、同じ地点を何度も通過するという構成にはいただけないものがあると感じてしまう。これは企画展中心の箱モノを意図してフレキシビリティーを優先した結果なのかもしれず、ある意味現代的な結末なのかもしれないが、何にせよ私の趣味とは残念ながらマッチせず、同行のパートナーも同じような意見であったため、揃って満足するに至らなかった。


(横須賀美術館内部、ここを幾度となく通る)

このまま小旅行を終えては詰まらないだろうと思いつつ再び車のハンドルを握ると、パートナーが「三崎でマグロを食べたい」と言い出した。遅い昼食からまだそれほど時間も経過していず少し戸惑ったが、何と言ってもあそこのマグロは美味いので反対することもないだろうと、私はハンドルを右に切り、浦賀、三浦海岸を経て三崎へと向かった。秋空は暮れるのが早く、もう暗くなっている。途中ほぼ太陽が沈み、乏しい光の中で通過した、一面に広がる三浦大根畑の美しさがやけに印象に残った。

渋滞などもあって、三崎に着いたのは夜の7時前だ。我々はいそいそと市場へ赴き、閉店時間直前の魚屋でお土産を物色し、大きくて安いアジの開きを買い込んだ。あまり滞在せぬうちに市場の店は全て閉まってしまい、いよいよ外に出て、マグロを味わう店を選ぶ時が来た。辺りにはマグロを食わせる店が10件以上ずらっと構えている。ここで店を間違えたら、1日が台無しである。

私は嗅覚を働かせ、裏路地に佇む一軒の老舗を選んだ。「たちばな本館」というこの店は、あまりやる気のない接客でカウンターには客がおらず、やや不安を覚えたものの、導かれた奥座敷のふすまを開けると大部屋にほぼ満員の盛況振りであった。座った机の斜向かいの客席には、巨大なマグロのカマが焼かれてドカンと置かれている。私も同じものを猛烈に食べたくなったが、要予約の上に高価で、しかも5~6人前の量と聞いて断念。赤身と中トロの乗った丼を注文した。これが実に美味かった。私が今までに食べたマグロの刺身で1番美味かったかもしれない。これより上等なものを欲せば、本当に高級な寿司屋か料亭に行って大枚をはたかないと得られないだろう。が、ここなら3000円もかからない。パートナーが注文した定食に乗っかっていたマグロの唐揚げや煮物も大変良かった。メニューにはマグロのハンバーグやステーキなど、気になるものが幾つもあり、絶対にまた来たいと思わせる店であった。

かようにして1日は、建築や彫刻や風景を忘却の彼方へと追いやり、マグロの味に染められたのだ。

11.20.2008

自転車日本一周? -2、東京から袖ヶ浦-

ALPSLABというサイトのrouteというサービスがなかなか面白い。地図上で基点と終点までのルートをクリックしたりドラッグしたりして決めると、基点から終点までの動きが動画になって表示され、また距離や標高もわかるというようなサービスなのだが、1つ重大な欠陥がある。とにかく重いのだ。深夜にならないと内容を更新したり、閲覧することができない。モノが面白いだけに何とかならないのかねえ?

とはいえ、私もこのサービスを用いて自転車旅の記録を残すことにしました。気が向いた方は見てやってください(ただし深夜に)。

ALPSLAB routeで表示する今回のルートはこちら↓

東京-袖ヶ浦


ところで、東京から熱海へ自転車で走り「何年かかけて日本一周でもしてみようかしらん」などと想起した後、鉄は熱い内に打てとばかりに次の旅を企んでいたものの、予定がたたぬうちにとりあえず11月3日、日帰りで千葉方面へ行けるところまで行くことにした。例によって発走は遅れに遅れ、午後1時半にようやく出発。いきなりカメラを忘れたことに気付くが、戻るのも面倒なのでそのまま環状7号線を進む。

北区・足立区・葛飾区と、ほとんど土地勘のない地区を行くが、そこには東京のある典型とも言うような町並みが続いていた。色の少ない、四角い建物が林立し、緑に乏しい景色の中をぐいぐいと走る。時折現れる隅田川や荒川、中川などの水辺を行き、橋を超える時だけは心が安らぐものである。やがて千葉県に入り、国道14号線を市川や船橋と所を変えて走るが、大して景色が変わることなく、私は淡々と前へ進んだ。

景色が急変したのは千葉港の辺りからだ。11月の短い日は暮れ、右を見ればコンビナート、左を見れば公園か林というロケーションが続く。街灯は極端に少なく非常に暗いので、安物のライトしか持ち合わせない私はほとんど足元が見えない中を慎重に進むしかなかった。体力も既にかなり消耗していたが、それよりも暗さが精神力を侵食しているのが堪える。6時過ぎだったか、左に曲がると姉ヶ崎という標識が見えたので、私は迷わず姉ヶ崎駅へと向かった。もう限界である。

駅近くで光と空腹の解消を求めて、ケンタッキーチキンへと滑り込むと、生き返る思いがした(多少大げさだが)。チキンをほおばり、ここまでの道程を地図片手にぼんやりと追っているうちに、もう10kmぐらい走ってみようかという気になった。すっかりと日は暮れているものの、まだ7時にもなっていないのである。私は腰を上げ、再び自転車にまたがり、線路沿いの田舎道を2駅分進んで7時半に袖ヶ浦駅に到着した。

しかしホッとしたのもつかの間、時刻表を見ると、次の快速電車まで14分しかない・・私はダメもとで自転車の解体に全力を注いだ。前輪を外し、サドルを抜いたりして無理やり袋に詰め込むとそれを抱えてホームへダッシュ。息を切らせながら時計を見ると、なんと今まで30分近くかけていた輪行作業を9分で終えていた。達成感と共に缶コーヒーを味わっていると「まもなく電車が参る」というアナウンスが聞こえた。しかしそこで私は、ホッとしたのもつかの間という状況をまた体験する。

自転車の解体や組み立てに用いるペンチを、駅前の解体した場所に忘れてきたことに気付いたのだ。私はかなり情けない思いを抱きながら再びダッシュ。階段を上り降り、改札をくぐって置き去りにされていたペンチを握ってまた階段を上り降りると、電車は到着していた。重い輪行袋を持ち上げてなんとか電車へ乗り込むと、他に誰も乗っていない客車の中で私はへたり込んだ。いやはや、自転車を漕いだ事よりも最後のドタバタ劇が印象に残る旅であった。


そして次週、友人たちから「サイクルモードという自転車の展示会を見に行かないか?」という誘いがあった。重い自転車を持ち歩いたり、解体や組み立てを行う輪行という所業をなんとか楽にできないものかと、前週の体験によって考え始めていた私は、その誘いに乗っかって幕張メッセまで足を運ぶことにした。

事前知識なしで訪れたこのイベントは、想像を大きく超えたスケールで催されていた。メッセの巨大な空間に何百という自転車関連業者が所狭しとブースを並べ、会場の脇には試走コースが数箇所設置されていた。数多くの来客は、昨今の自転車ブームを物語っていた。驚いたことに、ちょっと名の知れたメーカーのブースで試走を申し込むと、数時間待ちだったり終了していたりするのだ。入場料を払って自転車売り場に来てるのに、試乗もできないってどういうこと?と憤慨を覚え、スタイリッシュに過ぎてスノッブな感のある自転車ブームというやつに唾を吐きたくなる気分ではあったが、私はその唾をぐっと飲み込み、会場を黙々と歩いていると、大手折り畳み自転車メーカーのブースを発見した。

(サイクルモードの光景)

折り畳みか・・輪行は楽そうだが、走行性能はどうかなと、試走を待つ行列の最後尾に並ぶ。10分後にそのメーカーで最軽量の自転車が私に回ってきた。約8kg、実に軽い。コースで走ってみると、スピードも随分と出る。立ち漕ぎなど負荷をかける動きをした場合の安定性に不安は残るものの、ほぼ申し分ない性能だ。こいつはいいなあと思い、ブースへ戻って値段を見てまた驚いた。20万弱、今乗ってるやつの約9倍!

いくらなんでも、高いよね?でもいいなあ、高級折り畳み自転車。こうして私の新車購入計画は、再び迷走期へと突入したのであった。

11.13.2008

快挙?達成

藪から棒で恐縮ですが、ポイントサイトといわれる存在をご存知ですか?

有名なところでは"nットマイル"や"Gポ○ント"とかいったものが挙げられますが、要するにそれらの会員になって、買い物をしたり無料のゲームをやったりアンケートに答えたりバナー広告をクリックしたりするとポイントが貯まって、それを航空会社のマイレージや現金などに交換できる、というサービスを運営しているサイトのことです。私は1年近く前に、たまたま中途半端に貯まっていたANAのマイレージをもう少し集めて有効活用できないかと思い、気軽に始めたところハマってしまい、今ではいくつものサイトに登録し、こつこつ貯めたポイントだけで、それこそANAで1往復どこへでも行けるぐらいのマイレージを得てしまいました。

なんて書くとポイントサイト礼賛のように思われそうですが、実はここまでに結構手間隙がかかっています。元手がかかっていないとは言え、時給に換算したらスズメの涙のようなもので、稼ぎたいのであればその間にバイトでもやった方が得策でしょう。なので、ポイントが貯まっていくこと自体に喜びを感じたりする人や、拘束されている中でインターネットは自由に使えるという時間を生活の中に持つ人にはお勧めできるかもしれませんが、それ以外の人には特にお勧め致しません。そんなヒマがあったら、読書をしたり花鳥風月を愛でたりしていたほうが、よっぽど有意義だというものでしょう(自戒を込めて)。

ところで、私が登録しているポイントサイトの一つに"予想.nット"(ちなみにサイト名は全て仮名)というものがあって、これはバナークリックやらなんやらで貯めたポイントを、サイト側がオッズを付けて出題してくる様々な問題に賭けて、当たれば更にポイントが増えていくという仕掛けが特徴のサイトです。例えばオリンピック時には「柔道のヤワラちゃんが獲得するメダルの色は何色?」なんていう4択問題が出題されたりするわけです。スポーツに限らずあらゆる物事が出題対象となっていて、イギリスのブックメーカーで遊んでいるような気分になれます。

そして、このサイトでは時折、スポーツなどのビッグイベント前になると「予想チャンプ決定戦」と称して、そのイベントに関する問題の正答率や獲得ポイントで参加者に順位をつけ、優秀な成績の者には別途商品を出すという催しが開かれます。この秋には「プロ野球・プレーオフ&日本シリーズ予想チャンプ決定戦」が開催され、7000人を超えるユーザーがエントリーしていました。私も参加し、特にデータを調べたりすることもなく、かなり適当に各試合の勝敗などを"予想"というよりは適当に"予言"していきました。

するとこの予言が当たる当たる・・プレーオフの半ば頃に発表された最初の中間発表で、私は2位という好順位につけていたのです。たとえ何事においても、7千何百人中の2位というのは気分の良いもの。これで毎日、野球の結果が気になり始めた私は、実際の試合はTVで見れずとも、スポーツニュースなどで結果は欠かさずチェックするようになりました。その後の中間発表では9位に落ちたものの、日本シリーズの5戦目を終えたところで発表された最後の中間発表では4位でした。10位以内で賞品が獲得できるものの、3位以内になると賞品のグレードが少し上がります。私は3位以内を目指して最後の2戦を埼玉西武ライオンズの勝利に賭けました。そして見事予言的中。上位3人も当てていたら順位は変わりませんが、これでどうなったか。

と気を揉んでいたら、なんと最終順位はトップ!繰り返しますが、たとえ何事においても7千何百人中の1位というのは、ちょっと気分の良いものですね。この実績を引っさげて、野球評論家に転職しようと思います(嘘)。

秋のちょっといい話でした。

10.07.2008

自転車日本一周? -1、東京から熱海-

去年の今頃だったと思うが、私は東京から実家のある藤沢までボロ自転車を漕いで帰った。その前には新潟県の十日町まで行ったこともあり、その後も銚子へと向かったことがある。こうやって書くと実にたくましく、遠距離を乗り回している自転車野郎のような印象を与えてしまいそうだが、実のところそれ以外には遠距離自転車旅をしたことがないし、メンテナンス等の知識もほとんどない。

そんな私だが、普段からたしなんでいるフットサルやサッカーの場において、最近めっきりと運動量が落ちているのをぼんやりと自覚していた。元々大したテクニックなどを持たない私だが、多少は優れていると思っていた体力に陰りを見せたとあってはプレイヤーとして致命傷である。これはいかんな・・と思っていた矢先に、フットサルのない週末が訪れたので、私はふと思い立って、トレーニングがてらに1年ぶりで実家へと自転車を走らせることにした。2008年10月4日、夕方4時過ぎに板橋の家を出発。

まずは山手通りを渋谷付近まで南下。この通りは相変わらず工事と区画整理を続けているが、おかげで元車道だったような区画が、暫定的に歩道化していて走りやすい。ロードレーサーでもクロスバイクでもない、なんちゃってモトクロス・タイプの我が愛車は、ママチャリに毛の生えたような性能しか持ち合わせていないが、その"毛の生えた"程度のアドバンテージは悪路の走行性にあって、ちょっと混んでいるような都会で車道と歩道を気ままにチェンジしながら道筋を選んでいく分には都合がいい。


(延々と工事を続ける山手通り、車道に見える中央の道は歩道なんです)

国道246号線を西に走り、多摩川を渡って神奈川県に入ると、既に日は落ちて夜道となっていた。一年前はこのまま246号線を走り続けたのだが今回は多摩川沿いのサイクリングロードを下ることにする。これはなかなか爽快な体験であった。暗がりの中、時折すれ違うサイクリング愛好家たちに一方的な同胞感を抱いたりしながら丸子橋のあたりで、泣く泣く一般道へ。そこからは綱島街道、そして菊名付近から環状2号を通り、東戸塚へと進む。比較的走りやすい道筋ではあったが、環状2号は細かなアップダウンが続き閉口した。

東戸塚からは国道1号を、既にへばった体にムチを入れて走り、なんとか10時前に実家へと到着。ネコと祖母が出迎えてくれたが、母親の姿がない。聞けば「2泊3日で甲州街道をウォーキングしている」とのことだった。母もまた、冒険していたのね・・

ところで、例えばgoogleなどで"自転車 日本一周"などと検索してみると、いろんな人の旅行記がヒットする。私はそういった旅行記を読むのが好きで、よく"世界中の地名"と"自転車"といったキーワードを組み合わせて検索し、旅人の足跡を眺めては妄想に耽ったりするのだが、今回自転車を漕ぎながら「自分にも日本一周ができるのではないか?一気にやるのはいろんな意味で到底無理な話だとしても、休日に各地をちょこちょこと走って、その合計でぐるりと日本中を回るというのは可能だろう」などと考えてしまった。いわば、新たなライフワークというわけだ。一気に心が盛り上がってきた馬鹿な私は、とりあえず次の日にできるところまで西へ向かうことにした。

10月5日、いきなり寝坊した私は11時過ぎにようやく藤沢の実家を出発。海沿いの国道134号を少し走ったところで、更に海岸線沿いに自転車道があるのを発見。やがてこの道を走っていて、ある事に気付く。

「この道、中学校のマラソン大会で走った道じゃないか!」
そう。この道は、いつか来た道だった。ちなみにそのマラソン大会で私は9位入賞し賞状を貰った。あの頃は体力、あったなあ・・私と同じように学業成績が低迷し、そのせいかアイデンティティーをマラソンで優勝することに求めていた(そして、見事に優勝していた)K君は今、どうしているのだろうか?


(茅ヶ崎の自転車道、車両止めが烏帽子岩の形をしています)

自転車道は茅ヶ崎で終わり、平塚を越え、大磯へ。この辺りで134号は1号と合流する。1号を少し行ったところで私は、ふと脇に"太平洋自転車道入口"と書かれた看板があるのを目にした。反射的に左へ曲がり、その自転車道へと突入。そこは、有料道路・西湘バイパスの脇を通るルートだった。まさに海岸線沿いに伸びていた藤沢・茅ヶ崎付近の自転車道ほどには気持ちのいい道というわけでないけれど、信号もないし、自転車道なので走りやすい。こんな道が太平洋沿いに伸びていれば、日本一周も案外楽だろうなあ。しかし2キロほど走ったところで、その道(と私の楽観)はプツッと途切れる。続きを探したが見当たらない。なんとも中途半端な道路なのであった。


(短くも儚い太平洋自転車道、ちょっと名前負けでは?)

気を取り直して再び1号線を走る。小田原の市街が近づいてくると、この街道沿いも旧家に蔵といった風情のある景色が見えてくる。市街地に建つ小田原城への到着時刻は、午後1時半ぐらいだったろうか。ここまで2時間少々の道程だったが、起伏もなく、道も走りやすく、景色も良くと三拍子揃った大満足のサイクリング内容だ。私は一旦自転車を降りて、城内の公園を散策した。ここは幼少の頃、祖父に連れられて来た記憶がおぼろげに存在するのだが、ほとんどはじめてと言ってもいい場所だ。園内ではニホンザルやゾウが飼われていた。このゾウは非常にチャーミングなゾウだった。


(小田原のゾウ、優しい眼をしている)

一通り園内を散策し、さてそろそろ昼食でもと思ったが、私は店を探しつつ、とりあえず熱海方面へと出発することにした。この時点で伊豆方面には行かず、箱根へと向かう選択肢もあったのだが、一応日本一周を視野に入れている以上、伊豆半島ぐらい大きな半島を無視するわけにもいくまい。それに箱根越えは辛そうだし、伊豆は楽しそうだ。しかしその選択はあまり正しくはなかったのかもしれない。小田原市街を出て国道135号に出ると、ほどなくして歩道はなくなり、側道もほとんど存在しないという自動車のことしか考えてないような道が続いていた。おまけに交通量も多い。わたしはちょっとビビりながらも、ゆっくりと足を進めた。根府川の手前に「浜屋」という食事処があり、ここで昼食をいただくことにした。もう3時前である。この店の2階には屋外デッキがあり、相模湾の景色を堪能しながら私は1500円の刺身定食と、いわしバーグなる特産品を味わった。このいわしバーグは美味で、帰りがけにもお土産として購入した。愛想のいい店の若者に「自転車ですよね?今日はどちらまでですか?」と聞かれたので、あまり終着点のことを考えていなかった私は少し考えて「熱海までで、その後電車で東京に帰ります」と答えた。この瞬間に今日の目的地が決定した。


(浜屋から見た135号、側道がほとんどなく自転車には危険)

3時過ぎに浜屋を出ると、程なくして有料道路・真鶴道路と135号の分岐が出現した。自転車の私は当然135号の方へと進んだのだが、その行く手には延々と上り坂が続いていた。地図を見るとほぼ海沿いを進むこの道だが、この辺りは陸地がすぐ崖になっていて、僅かな平地は真鶴道路が占めているため坂を上っていかないと熱海には到達できないのだ。私はヒーヒー言いながら上り坂を漕ぎ、やがて自転車を降りて押し、頂上からはパラダイスのような下り坂を飛ばし、そしてまた真鶴から上り坂を漕ぎ、自転車を押し、2度目の頂上から2ndパラダイスを堪能した。辺りの崖地はずっと、みかん畑だったと思うが、もう景色を楽しんでいる余裕はなかった。2度目の幸福な時間を終えると、道路標識にやおら"熱海駅"という表示が出てきて、あっさりと駅に到着した。夕方の5時ごろであった。

伊豆の地形は想像する限り、この小田原から熱海までのようなものの延長であろう。日本一周を夢想した私は早くも、行く先の険しさにげんなりとしながらも、去年から検討し続けてきた新車の購入について思いを巡らせながら、帰路についた。

続く(のか?)

ALPSLAB routeで表示する今回のルートはこちら↓

東京-藤沢
藤沢-熱海

10.03.2008

変わるものと変わらぬもの

日曜の夜、家族が大河ドラマの「篤姫」を欠かさず見ているので、私も付き合ってだいたい見ている。そして、良くできているなあと基本的には感心する一方で何か心に引っかかる物足りなさをいつも覚えるのだ。その正体は何だろう?

といったところで過日(1ヶ月ほど前だが)、久しぶりに映画を見てきた。ケン・ローチの最新作「この自由な世界で」である。物足りなさの欠片もない、というよりもむしろ、見た者の心をシリアスな空気で破裂させるかのような充実したドラマがそこにはあった。以下ネタバレ多少あり。

舞台は現代、ヨーロッパ、英国。好景気を謳歌するこの国には多くの移民労働者が移り住む。主人公のシングルマザーはポーランド等からこういった移民労働者を英国に斡旋するエージェントの一員として働くがトラブルにあってクビになる。バイタリティー溢れる主人公は自らエージェントを立ち上げ、英国内でくすぶっている移民労働者たちに職を紹介しはじめるが、ぎりぎりの資金繰りで続けるうちに、やがて法に触れた行為に手を出すようになる・・といったストーリーが展開される。まさしく、自由主義経済の下での現代的な課題に正面から向き合った映画だ。タイトル(「it's a free world」、邦題はほぼ直訳ですね)もまた秀逸である。

ここで描かれる世界は主に、移民労働者からの搾取という極めてリアルな問題を提示しているのだが、私が思うにこのドラマへリアリティーをもたらす要因は、緻密な取材を繰り返して構成していったことを想起させるその舞台設定やストーリーの大枠のみならず、主人公とその友人が繰り広げる心模様とその行為の描写にあるのではないか。新たな移民ではない、元来英国市民である彼女たちもまた、エッジの上を歩くような状況下でハメを外したり、真剣になったり、より困っている者へ施しを与えたり、地獄へ突き落としたりする。そういった彼女たちへ映画を見る者は、同情こそすれど支持することも憎むこともできないだろう。映画を見終えた観客はよりマクロな視点で、現代が抱える問題について考えることになるのだ。

と「この自由な世界で」を見た後しばらく、私もマクロな感じで諸問題を考察したりしていたのだが、そんな中でふと、「篤姫」は何故少しばかり物足りないのかというミクロな事象について解答を得たような気がした。「篤姫」の登場人物は主人公である姫を除いてほとんど皆、ドラマの中ではじめに持たされた信条をほぼ変えないのである。姫は様々な人物に出会い、その信条に触れ、ほう・・そういう考え方もあるのか、と吸収していく人物として描かれ、それぞれの信条を持った脇役たちもそれによって善悪では判断できない魅力的な存在となるのであるが、脇役たちがこうして輝けるのは全て、主役の姫がそれぞれの立場を理解できるからこそだ、という仕組みになっている。

つまり、「この自由な世界で」と「篤姫」は、支持することも憎むこともできない中立な人物像をあぶり出す仕組みが異なっている。「この自由な世界で」の主人公たちは、ある特定の人物や出来事によって善悪の彼方へ導かれるのではなく、ドラマの世界観全体によって導かれるのだ。

「篤姫」の仕組みはストーリー作りの一手法なのであろうが、現代において、「この自由な世界で」のような世界においてリアルではないだろう。無論「篤姫」の世界は江戸末期、100年以上前のことで、現代的なリアリティーを求めるのには無理があるのかもしれないが、当時の人々も時代の変革期において、難しい局面で判断を迫られ、心情や行動にぶれが生じると考えたほうが自然で、完成された人物像ばかり見せ付けられてもその時代錯誤(現代とのギャップ)に白けてしまう。まして今、放映することの意味を考えると、やはり大河ドラマといえど今という時代が抱えるものに投影するようなものであって欲しかったと思う。良くできたドラマだが、根本的にそこが私にとっては残念なところなんだな。



余談だが、「この自由な世界で」を見て、イギリスにおける移民労働者の実態を思うと、フットボールファンの私としてはやはり、ベルバトフ(ブルガリア人)やシェフチェンコ(少し前まで英国にいてイタリアへ戻ったウクライナ人)といった移民を供給する側の国籍を持つストライカーたちが、搾取される労働者の偶像としての存在感を強めているのだと想像せずにはいられない。映画の中にも何気なくかつ示唆的に、移民たちがボールを蹴っているシーンを見ることができるが、イングランド人のストライカー達がイングランド人労働者階級のアイコンであった時代は移ろい、資本(これも国際的になった)が移民供給国のストライカーを買い漁り、そしてイングランド人の優秀なストライカーはほぼ絶滅したのである。

対岸の火事と侮るなかれ。Jリーグとブラジル人選手、それと日本が多く抱えるブラジルからの移民(ついでに優秀な日本人ストライカーが現れない現状)との関係についても、考察してみる必要があるのかもしれない。

9.26.2008

さよなら王監督

福岡ホークスの王貞治監督が、辞任することになりました。
とりあえず、本当にお疲れ様でしたと言いたい。
私は一応、20年以上のキャリアを誇るホークスファンなのです。

しかしホークス、今シーズンはこのまま終わりそうだね。
来年以降も終わりつづけなければいいが・・

王監督の2年目から、去年まで10年Aクラス。で、その前が20年連続Bクラス(プロ野球記録らしい)。
更にその前は野村プレイングマネージャー時代(換言すると、弱いけどやりくり上手で何とかAクラス時代)、もっと前は伝説の強豪だったわけで、好不調のスパンの長さには何とも驚かされる。

王監督期は個人的に、野球への興味を失っている時期で、Bクラス時代のほうが印象深いのだけど、それでも、

・1999年の篠原の多用
・2003年の最強打線

この2つは見事だった。私の印象としては、王監督の采配は何といっても頑固一徹。このシーズンはこのピッチャーと決めると、延々と使い続けるのだ。酷使とも言えるその起用法は結果的に、そのピッチャーにスポットライトを当てることになり、心配やら共感やら同情やらという、ただ応援するという以上のものをマウンド上のピッチャーへもたらすことになる。99年の篠原はそういったファンの視線に答え、年間を通じて素晴らしいピッチングを展開した。後年の三瀬などにも同じことが言えよう。

そしてチーム打率ほぼ3割、30発以上打った打者が4人というプロ野球史上でも1、2を争う打線を形成した2003年。怪我でシーズンを棒に振った小久保がここにいたら一体どうなっちゃうんだ?ということを夢想したものだが、この打線は他所から好打者を取ってきて並べたものではなく、何年も前から将来に向けて、経験不足の打者たちを辛抱強く使い続けた"頑固一徹"が見事に結実したものであった。

いずれも、王監督でなければ実現し得ない成果だったのではないか。

8.26.2008

北京五輪雑感2 -サッカー-

さて私の大好きなサッカーですが、当然このオリンピックでも注目しておりました。最大の目玉はやはり、直前まで出場・欠場を取り沙汰されたメッシ(中国名:梅西)のプレイなのだろうが、ニュースのダイジェスト映像以外では決勝戦しか見れませんでした。もう彼の場合は、調子の上がらない試合でもなんとなく見せ場を作ってしまう域に達してきたようで、いよいよ超一流の仲間入りといったところに見えた次第であります。今シーズンも楽しみだ。

そこで、ほぼTVでフル観戦できたオリンピック日本代表の話に焦点を絞るが、女子の4位というのは事前に快進撃を予想していた通りになって、嬉しかった。他のチームと比較して特筆すべき点は終盤まで走り回れるその運動量だろう。相手の足が止まった後も、日本代表の面々は動き回っていた。ニュージーランド戦で追いついたのはまさにその長所が結果に出たものだったし、それ以降の試合も、例え劣勢にあっても最後まで期待を持たせてくれた。

難点を言うなら監督の采配と、キーパーだろうか。佐々木監督は大会前に「銅メダルなら十分狙える」というような発言をし、大いに選手の士気や視聴者の期待を煽った。この良い意味でペテン師的な行為は名監督と呼ばれるような人によくあるもので、この時点では佐々木氏の資質を大いに評価したくなったのだが、実際の試合を見る限りでは、縦に急ぎすぎる攻撃を序盤から最後まで貫く単調さが目に付き、選手交代が遅すぎるのも気になった。あの攻撃陣なら、もっとゆったり繋ぐサッカーができただろう。それでも、アイデアのない人ではないだろうという予感はするので、今後に期待したい。またキーパーのキックが精度に乏しいという技術的な問題も、いくらでも今後の練習によって解決できる話だろう。それにしてもやはり沢選手は一人、急ぎすぎる攻撃パターンの中でリズムを変えられるという点で異彩を放っていた。

男子もまあ、3戦全敗というのは残念ながら予想通りであった。相手が強いのだから仕方がない。
その中でも今後更に伸びそうな若手を幾人か確認することができた。特に内田選手などは、この1年だけ見ても飛躍的にプレイヤーとして向上している。思うに、従来日本代表チームは低い世代のカテゴリーであるほど結果を残してきたのだが、クラブチームなどの選手育成が浸透してきたことによって、選手の成長曲線が全体的にゆるやかな、年を取ってから向上していくというようなものに変化しつつあるのではないか(例えばイタリアのような)。中村俊輔や松井大輔といった選手たちが、20代後半になってからも目に見える成長を遂げていることなどが、それを裏付けているような気がするのだ。それに、柏木・梅崎などといった優秀な若手が選ばれないほど選手層が厚くなっていることも見逃せない。それこそメッシのように突出した存在は今だ現れないが、日本人サッカー選手全体の底上げは確実に進んでいる、と見た。

しかしまあ、難点は当然ながらある。やはりオーバーエイジ枠を活用してもらいたかった。オリンピックのサッカーについては完全に育成の機会と捉え、結果を不問とする国も数多く存在するのだが、JFAの態度は明らかにそれとは違っていたはずだ。それなのにきっちりとオーバーエイジの選手を確保できなかったというのは反町監督だけの責任では決してないであろう。私個人としては、中澤・中村憲・大久保を招集してもらいたかった(遠藤など体調不良だった者や海外組は除く)。反町ジャパンのコンセプトは簡単に言えばサイドアタック。しかもFWに高さのある人材を揃えない、ということは、サイドアタックからのセンタリングへFWに加えMFやDFの飛び込みを併せた数で勝負する、というものであったはずだ。それなのに、選ばれたMFの面々にはゴール前に飛び込んでいくというプレイオプションがなかった。これは大きな矛盾点だ。先述の私的希望オーバーエイジ選手たちには、そういうプレイができる。

男子サッカーに参加した国のうちオーバーエイジを活用しなかったのは、日本を含めわずか2ヶ国だったそうだ。不況が囁かれ始めている日本サッカー界にとって、この結果を出せず過程にも問題があったオリンピック男子の姿は、大きな痛手であろう。

8.25.2008

北京五輪雑感1 -サッカー以外-

久々の更新ですがオリンピックについて。今までは仕事に追われていたりとか、たまたま海外にいたりとかで、大会を通じてじっくりとTV観戦したことがなかったのだが、今回は随分と楽しんでしまった。

見ていて一番興奮したのは何と言っても、大会終盤に行われた重量挙げ男子105kg超級である。この競技は事前には全くのノーマークだったのだが、たまたま何かの作業中にTVをつけっ放しにしていたら決勝戦がライブ放映されていた。そして少し本腰を入れて見出したら、もう釘付けだ。何しろ「世界一の力持ち決定戦」である。このシンプルなテーマに、シンプルなルール。何よりバーベルを持ち上げる瞬間に選手が見せる気合のこもった表情がたまらないのだ。

ロイター配信のナイスな写真があったのでここにリンクしておきます。

この競技は最後にロシアの選手が、これ以上は無理だろ?というぐらいのバーベルを上げて喜んでいたところに、ドイツの選手がその無理を通してしまって見事な逆転優勝を遂げた。その劇的な展開も良かったが、何故か会場の観客にマッチョが多くて(ウェイトリフティング関係者か?)、盛り上がりぶりがド迫力だったのもまた印象的であった。

見ていて一番、自分もやってみたいと思ったのは、BMXだろうか。小さい自転車で段差のあるコースをレースする競技である。これも大会終盤に開催されていたが、短距離レースなのになにしろ完走率が低いのだ。狭いコースを8人で走るので、おそらくスタートダッシュ(瞬発力)と相手に接触せずに走る能力(動体視力)が主に要求されるのだろうが、多くのレースで接触が起こり、数人脱落していく。それでも皆、限界に近いところまで接触を恐がらずに走り、トップを目指すところが魅力的だ。決勝でも、2人が抜け出してデッドヒートを演じ、後ろの選手が「銀メダルはいらない」とばかりに仕掛けて自滅し、メダル圏外に終わってしまっていたが、この「勝利以外に意味無し」といった姿勢が、どこの国がメダル何個といったみみっちい計算をオリンピックの意義としているような、ある論調と対極を成しているようで清々しく思えた。

清々しいと言えば、この大会を通じて私が目撃した一番清々しい表情は、平泳ぎ100mで北島選手が優勝した際に、どこのコースからか寄ってきて彼を祝福したどこかの国の選手だ。北島自体、私が言うまでもなく素晴らしかった。アテネでヒーローになった時には特に興味をそそられる対象ではなかったが、偉そうに言えば、競技自体や、その後のマスコミ対応を含めて見ても、人間的な成長を大きく感じさせられたのだ。やはり鍛えている人間は違うなあ、俺も頑張らなきゃな、なんて気にさせてくれた。が、あの北島を祝福した選手の表情は北島以上に特筆ものだった。同じ競技をやっている者だけがわかる、北島が成し遂げたことの凄さに対する純粋な敬意と、決勝を一緒に戦った同志としての感情が入り混じった清々しさだ。

日本人選手の中に、負けてなおあのような人目を惹く態度を取れる者がどれだけいることか・・などと書いてみて、一人思い浮かんだのが女子レスリングの伊調千春選手である。彼女は2大会連続で決勝戦に敗れ、銀メダルに終わった。レスリングのようなトーナメント方式でメダルを争う競技において、銀というのは最後に負けて得る色で、3位決定戦に勝って得る銅メダルよりもどこか切ないものに感じられるのだが、伊調は掛け値なしで満足している様子に思えた。それだけ、そこまでの過程において「全てをやり切った」ということなのだろうということと、後に戦いを控える妹・伊調千春選手への気遣いでもあるということがひしひしと伝わってくる、実に見事な態度だったと思う。

6.06.2008

粗食

近所に安いスーパーがあるのだが、その近所にこれまた安い八百屋がある。若者が経営するこの八百屋は値段付けにおいてスーパーに強いライバル心を働かせているようで(実際に朝方、そのスーパーのチラシを凝視している主人を見かけたことがある)、資本力の差もあってか全ての品目においてというわけにはいかないが、毎日必ず数品目において激安の商品を前面に出してくる。

過日などは、3束入った新鮮な水菜が20円で売られていた。5本100円の胡瓜と共に、どう料理するかなどまるで考えず反射的に購入。家に戻り水菜を用いた見知らぬ料理はないものかとインターネットで検索していたら、「はりはり鍋」というメニューが目に飛び込んだ。桃太郎電鉄というすごろくゲームに確か「はりはり鍋屋」が登場していたな・・などと連想しながらレシピを見てみると、これが水菜と鯨(あるいは豚や鴨)を昆布だしで水炊きするだけという、実にシンプルなものなのだ。

早速今度は八百屋の近所の安いスーパーにて豚バラ(これも安く、グラム1円を切っていた)を購入し、その夜我が家の食卓はこの見た目も美しい素朴な鍋で飾られた。大根おろしと醤油で具を受けて食べてみると、これが実に旨い。同居人にも好評であった。私はこのように、安くて簡単な料理については、メニューを考えるのも買い物をするのも作るのも食べるのも大好きだ。

しかし粗食にも上には上がいるものである。ある日書棚を整理していると、20年以上前の「我が家の食卓」というようなタイトル(現在手元になく、正確な書名を忘れました)の文庫本が出てきた。これは各界の著名人が、自らの夕食を紹介するという内容のもので、アントニオ猪木が前夫人と食卓を囲んで、大量のブラジル風料理を前に「最近は腹七分目にしているんですよ」なんて言ってたりするちょっと面白い本なのだが、その中に故・遠藤周作が大変な粗食を夫人とつまんでいる写真がはさまっていた。

遠藤氏の夕食はご飯に漬物、それとメザシ一人一匹だけだ。氏のユーモラスな表現によれば「私は美味しくも豪華なフレンチなどを食べたくもなるのだが、夕食を決めるのは妻の仕事で、私が執筆に口を挟まれたら嫌なのと同じように妻も仕事に口出しされたら困るだろうと思って文句が言えない」ということだった。毎食、ご飯と漬物以外に一品しか出ないのだそうだが、そんなルーティンを遠藤氏がどこか楽しんでいるような雰囲気が伝わってくる。ここまで質素になると、今日の一品は何が出てくるのか、という楽しみからはじまって、もしかしたら「今日の漬物は昨日から一日経っているから、少しばかり味が変遷しているな」なんていうミニマルな楽しみの境地にまで達するのかもしれない、などと空想を抱かせる。遠藤氏はもっぱら作らず、食すことに専念しているようだが、それにしてもこの質素な洒脱っぷりには到底、私など叶わない。

私は今日も八百屋の前を通ると、葉っぱが長く青々と茂った大根一本68円に目を奪われ購入し、大根の葉と茎を細かく刻んで挽肉と一緒に醤油・みりんで味付けして炒めた。これは私の得意とする粗食メニューで、ご飯の振りかけとしては最高の部類で、酒のつまみにもなるので、この駄文を読んでいただいた皆さんにもぜひ一度試していただきたいと思います。

4.22.2008

病院食の侘しさ

ここ10日ばかり、ぶっ倒れていた。その内5日ほど入院した。物心ついてからはじめての入院である。まずは頭痛がはじまり、その日のうちに高熱を発症。市販の薬品ではおさまらないのでタクシーで近所の大学病院へと足を運ぶが、外来の受付時間を終えていたため救急外来へ行き、診察してもらう。救急であるため簡単な検査しかできず、「2日経って改善されなければ、また来てください」と言われて渡された薬を2日飲むが、熱も頭痛も治まっては再起の繰り返し。それどころか後頭部から後首部にかけて、デーモンが刻印したかの如く巨大で禍々しい出来物が隆起する。ここで再び大学病院へ向かい、診察の結果、そのまま帰れないことに・・いや参りました。

結局、変なウィルスが後頭部の辺りにあったちょっとした外傷部から感染して、こんなことになったみたいだ。入院中はまず、後頭部の髪を切り、禍々しい出来物をヘラみたいなものでゴシゴシと強引に削り取られて(これは痛かった)、あとは患部へ綺麗に皮が再生するのを待つばかり。その間定期的な点滴で血中のウィルスを滅菌するといったところで、手術などはない。入院2日目には頭痛が治まり、3日目にようやく平熱へ戻ると、それまでの寝ることもままならぬ地獄のような日々が、嘘のように穏やかで退屈な日々へと変わった。不思議なもので、高熱と頭痛の中では半狂乱の様相で読書に耽っていたのが(ちなみにこの期間「ロリータ」、「ウェブ進化論」、「離島を旅する」の3冊を読了。いずれも今後の人生について大変考えさせられる本でした。)、元気になり退院が視野に入ってくると途端に本を読む気も失せ、シャバのことが気になって仕方がなくなる。それまでまるで見る気にならなかったTVに目が行くようになり、大して気にならなかった病院食の侘しさも、なかなか耐え難いものと感じられてきた。

まず基本的に米が美味しくない。朝に出るパンも良くない。おかずも当然味気なく、しっかりとカロリー計算されているのでやや大食の類に該当する私には足りないのだ。そうなるとやはり、食事の合間に口に入れるモノを探そうと、院内を彷徨いだすことになる。

この病院には一般的な売店の他に、スターバックスコーヒーが店舗を構えていた。ガラガラと点滴を引っ張りながら院内をうろうろし出した私はやはり、ここへ午前・午後と通うようになった。コーヒーはもとより、サンドウィッチが美味しい。シャバの味である。病院の入り口付近にあるこの店には、私のような入院患者や院内で働く人たち以外にも、お見舞いに来た人がよく顔を出す。そんな外部の人たちが運んでくる、実体のない"なにか外部の空気みたいなもの"がとても、眩しくて新鮮なものに感じられる。

こうして病院食の侘しさをコーヒーとサンドウィッチ、そして"外部の空気"で紛らわす2日間を経て、入院5日目には血液検査の結果も平常な数値へ近づいてきた私は、めでたく退院することになった。これまた不思議なもので、いざ退院が決まると、侘しい病院食について不満を抱いていたこと自体が大変、贅沢で傲慢なことだったのではないかという、我ながら実に殊勝な思いが身をもたげ、今後とも病院食を食べ続けるであろう残された入院患者さん達が暮らす病棟を背に少し反省したのだった。

3.25.2008

ピラミッド校舎

学習院大学にある前川國男設計の通称"ピラミッド校舎"が解体され、新たに高層の新校舎が建てられるというニュースは前から知っていたのだが、先日池袋で用を足した後ぽっかりと空き時間が生まれたので、隣駅の目白まで歩いていって今ピラミッドがどうなっているのかを見てみることにした。

1980年代の話であるが、当時中学受験を控えていた小学校6年生の私は、横浜にあった当時の自宅から都心まで、週末になると模擬試験を受けに出かけていた。そこで目にする東京の風景は新鮮で、男の子がよく興味を持つ、近未来的な光景にやはり当時の私も心を惹かれたものだった。重層に折り重なり今何処にいるかをちゃんと把握できること事態が(子供には)優越感を与える渋谷駅や、NHKや代々木体育館など渋谷付近にある様々な景色が主な対象ではあったが、その中でも確かただの一度模擬試験を受けに訪れただけの、学習院キャンパスにある三角錐型の建築物は確実に心に刻まれた、忘れることの出来ない近未来的な具象の一つであった。それから何年かして私が大学を受験する段階になっても、その心象だけで学習院を受けてみようかという気にさせられたものである。

結局私は学習院を受験せず、その後も縁がないまま年月を経たので、かのキャンパスを訪れるのは実に20年以上ぶりのことなのであった。池袋から雑司が谷の心地よい町並みを経て、目白に至るとそこには、整った佇まいの大学が立地していた。春休みなので人はまばらにしか見当たらない。敷地の中には、私の記憶にあるピラミッド校舎よりもずっと古びて、かつ格別な評価を与えることの出来ない建物が幾つか存在するのだが、これらの明治期から大正期にかけて建てられたであろうものは生きながらえるようだ。キャンパスの中心付近に位置するピラミッドは、周りを別の建物に囲まれていて遠巻きに見ることは出来ず、囲んでいる校舎を越えると不意に現れた。再会したピラミッドは既に解体作業用にロープで囲まれていたが、その時点(3月22日)で外観はまだ保たれていた。そのフォルムが実に格好良いのだ。非常にシンボリックであるにも関わらず、絶妙なバランスで周囲に溶け込んでいる。稀有な存在感だ。

私が持参したカメラで写真を撮り始めると(姉妹サイト「世界の風景(仮)」に写真が掲載されています)、今春この大学に入学予定と思われるガクランを来た若者とその父親が寄ってきて、ピラミッドをバックに2ショット写真を撮ってくれないかとお願いされた。私は快く引き受けたが、ふと見渡すと、ピラミッドの周りには休みにも拘らず幾人かの現役学生やOB、あるいは建築物愛好家と思われる人がいて、皆思い思いに写真を撮っていたのだ。取り壊しを決めた大学側にどのような事情があったにせよ、私はこの風景を亡くすというのは本当に残念なことだと思えた。この拙文をご覧になってピラミッド校舎に興味を持たれた方がいらっしゃったら、是非目白に足を運んでみてください。まだ失われる寸前の風景に間に合うかもしれませんよ。

3.10.2008

ワイズマン初体験

いつの間にか名門競馬新聞「ホースニュース 馬」紙が休刊していた。若き時代の数年を競馬に捧げた、と言っても過言ではない私には、一抹の寂しさを感じさせる出来事であったわけであるが、それとは関係なく今、フレデリック・ワイズマンというドキュメンタリー映画監督の特集が都内で開催されていて、ずっと前から気になっていた彼の「Racetrack(邦題:競馬場)」という作品を、私はようやく観る事が出来た。

某日、会場のアテネ・フランセを数年ぶりに訪れると、平日の夕方にもかかわらずシアターの入口付近は数十名の開場を待つ人々で溢れていた。そのほとんどはアテネや映画美学校の生徒であると思われるおしゃれな若者なのだが、スーツを着たサラリーマンや老年層も若干混じっている。中でも目を惹いたのは、明らかに何故か場違いな所へ迷い込んだという面持ちの、片手に競馬新聞を持ったおっちゃんがいて、開演までの待ち時間を明日のレース予想に費やすその姿であった。私はぼんやりと、ここに集う人々の中で最も私とメンタリティーが近いのはそのおっちゃんではないか(何故ならその時、私のカバンにも競馬新聞が入っていたから)と思いをはせ、ある種のシンパシーを一方的に抱いた。

「競馬場」というタイトルながら、映画は競馬場ではなく牧場で仔馬が生誕するシーンから始まるのだが、やがて高速道路を走る車のカットを重ねて舞台は競馬場へと移される。米国の競馬は中央集権的なものではなく、各競馬場が割と独立していて、調教など色々なことが競馬場内で完結される(その意味において「Racetrack」というタイトルは正しい)。淡々とカットが重ねられていく中で、幾つかのシーンにおいては、非常に丁寧で長く時間を取り、合間にはワイズマンが感覚的に捉えた、少し寄り道であるかのようでいて、それでいてその積み重ねによって本質を見出していくかのような映像が繰り広げられていく。当然ナレーションは一切なく、登場人物間の会話も少ない(これはワイズマンの作品では珍しいことであるらしい)。ベルモント・ステークスという大レースを終えて、人がいなくなった競馬場の場面で映画は終了する。造りとしてはドキュメンタリーの王道とも言うべきものだが、そもそもその王道を開いていった一人が、このワイズマンである。

僭越ながら私はこのワイズマン初体験において、競馬という少しは私自身が理解していると自負するジャンルをワイズマンがどのように料理しているかという、巨匠を試すような気分で映画鑑賞に臨んだのであるが、果たしてそのような鼻高々なる目論見は2時間に凝縮された彼の積み重ねによって粉砕された。ワイズマンが元々競馬に造詣が深かったのかどうかは知らないが、知識がなかったとすればその本質を捉える嗅覚に驚愕せざるを得ず、造詣が深かったのであれば、その先入観を取っ払ったかのようなカットの数々にやはり、物凄い嗅覚を感じさせるのである。嗅覚と一言で言っても、それは天性の好奇心に由来するものもあれば、ドキュメンタリーを数々制作するという場数の踏み方によって養われていくものもあるだろう。ワイズマンの嗅覚はその両方を備えているものだ。

贅沢な時を過ごし、映画館を出ると不意に、忘れていた過去がよみがえってきた。ずっと昔に私がはじめて万馬券を的中させ、少なからぬ掛け金を投入していたため大儲けして狂喜乱舞したあのレースに勝った馬が、マイネルワイズマンという名前だったということを。私はこれがワイズマン初体験ではなかったようだ。

3.04.2008

京都・大阪旅行 -京都の朝-

夜行バスに揺られ眠れぬ夜を過ごした私は、6時に京都駅八条口へ到着した。2月の京都では、この時間はまだ夜が明けたばかりの薄暗く、どんよりとした灰色が空を覆っていた。観光を開始するにも寺社の類は9時まで開門を待たねばならない。私は小腹も空いていたので、とりあえず7時にオープンするはずであるかの有名なイノダコーヒーの本店を目指して動き出すことにした。

数年前、私は日本人とコーヒーの関わりについてのテレビ番組を企画したことがあった。その辺りに詳しい知人の先生に出演をお願いし、紆余曲折を経て結局はラジオ番組としてこの試みは具現化されたのであるが、今ここでその当時、先生から教わったイノダコーヒーについてのウンチクを語ろうとしても、どうしても細部を思い出すことが出来ない。断片的に覚えているのは、歴史あるこの本店が朝早くから開いているのは、市場の近くに立地していたためで、また、特に断りを入れなければコーヒーにミルクと砂糖を入れてくるというサービスの由来は、市場で働く忙しい人々の、さっと飲んでさっと出て行くようなスタイルに合わせ、お客さんの手間を省略したためである、ということだ(と、ここまで書いてしまったところで大変恐縮だが、悲しいことにこの覚えているはずのエピソードですら確かであるという自信がない)。

かくして、コーヒーについての知識は未だほとんど無きに等しい私であるが、以前京都を訪れた際、在住の友人に教わったこの喫茶店の得がたい魅力ははっきりと記憶している。四条烏丸駅で地下鉄を降りた私は、まだ開店まで時間の余裕があったので、ぶらぶらと寄り道しながら歩いた。時折不意に強烈で、それでいて上品な鰹出汁の匂いが私の鼻をつき、やがて消える。そんな時に振り返ると必ず料亭の看板が目に入り、こんなにも朝早くから仕込みを行っているのかと感心する。やがて私は偶然、錦市場の通りに差し掛かる。アーケードの中に入り歩き出すと、暗がりの中、どの店もまださすがに営業を開始してはいないが、何やら店の奥に人がいてごそごそと蠢いているのがわかる。通りにいるのは私一人で、始業前の厳かな錦市場の雰囲気を独占しているかのような、何とも贅沢な気分になる。これが京都の朝だ!

7時を過ぎ、私はイノダコーヒー本店に辿り着き、暖簾をくぐった。既に常連と思わしき数名の客がテーブルについて、株価やらの時事について論議を交わしていた。席に着き、メニューを見て注文しようと顔を上げると、ベテランの(私は数年前に一度ここへ来ただけなのにも関わらず、その顔を覚えていた)ウェイター氏が見計らった絶妙のタイミングで、さりとて見計らったという緊張を私に伝えることなく、オーダーを受けに来た。完璧な給仕である。その後、美味なるハムサンドと、酸味が程よく入ったコーヒーをゆっくりと堪能して私は、この旅行の一番の目的としていた醍醐寺へと向かうことにした。

醍醐寺は京都の中心からは離れているが、その最寄り駅までは地下鉄で辿り着くことが出来る。醍醐の駅を降りると、時計は8時30分を指していた。京都に着いてからここまでの2時間半は、やけに濃密な時間であった。ゆっくりと10分ほど歩いて下醍醐に到着する。世界遺産に指定されているこの醍醐寺は、山の裾野に伽藍を配置した"下醍醐"と、そこから1時間ほど、500メートルほど山を登った場所に位置する"上醍醐"に分かれている。私は寝不足でヘロヘロなのにも関わらず、上醍醐まで山登りする心積もりであった。まずは下醍醐(いわゆる醍醐寺)を見学しようと思い、9時開門のところを8時45分にチケットカウンターへ到着し、既にスタンバイしていた捥ぎりのおばちゃんに「少し早いけど、入れてくれないか?」と頼んだところ、おばちゃんはいかにも京都らしい(これはアウトサイダーから見た京都人への偏見なのかもしれないが)、もったいぶって嫌味の入った、それでいて愛情もある言い回しで、「本当はだめだけど、特別に許してあげる」という内容を伝えてくれた。

下醍醐は期待通りの威厳を備えた場所であった。京都府に現存する最古の建物だと言われる五重塔が伽藍全体に風格の楔を入れている。講堂からは朝早くから、真言密教の呪文めいたお経を、大勢のお坊さんが輪唱している声が聞こえる。しかし私はこの仏閣を堪能しながらも、心は早や、この後に登るであろう醍醐の山に向けられていた。どんなに素晴らしい光景が私を待ち受けているのだろうか?また、前夜一睡も出来ずにいた私の体力は果たして登山に耐えられるのだろうか?1時間ばかりを醍醐寺の探索に費やした後、私の足はのろのろと、上醍醐への登山路へと向けられた。

そこは、鬱蒼とした山林であった。既に体力が限界近くに達していた私は、無理をせずゆっくりと足を運ぶ。時折後ろから、私より2回りは年上であろう、そしてこの山に何度も足を運んでいるのであろうベテランの人々が軽快な足取りで私を抜き去っていく。ベテランの人々は身なりもちゃんとしたハイキング仕様で、ロングコートにカンペールの現代的な靴で身を包んだ私の姿は、全くをもってその場にそぐわなかった。それでも一歩一歩、地を噛み締めて私は前に進んだ。中腹辺りからは雪が積もっていて、私の行程を更に遅らせた。疲れと幻想的な景色の最中、ほぼ無心になって歩み続けた先には、不意を突くような形で山寺のレイアウトが顔を覗かせた。こんな山奥に、立派な寺院建築物の数々が整然と、自然にマッチして配置されている。私はこの奇跡的な光景に胸を打たれ、しばし呆然とした。本当に、呆然としてしまったのである。ふと我にかえり時計を見やると、徒歩60分と案内されていた登山路に私は75分を費やし、それでも時計の針は11時を回ったところであった。こんなに贅沢な朝の、午前の時を過ごすことは、又とないのかも知れぬと私は感慨に耽ったのである。

2.27.2008

京都・大阪旅行 -夜行バス編-

ぽっかりとスケジュールに空きの出来た二月の中旬、私は何処かへ行こうと思い遠くはスペインから近くは伊香保温泉までの、幾つかの候補地から迷った挙句、数年ぶりに京都へ行くことにした。かの地をちゃんと訪れるのは3度目のことである。最初は中学生時の修学旅行で、新幹線で行った記憶がある。2度目は友人と共に、車で訪れた。3度目の今回は一人で夜行バスによる往復である。回を重ねる毎に交通手段のレベルが落ちているのは何故だろう(次回は自転車だったりするのだろうか)?それはさておき、今回は初体験の夜行都市間バス体験について書こうと思う。

某日深夜、指定された西新宿の高層ビル街へ行くと、そこでは百名を優に越える人々が寒さに身を震わせながらバスの到着を待ち受けていた。旅行代理店の社員数名が拡声器を用いて、バスの到着やチェックインの方法などを絶え間なく知らせている。その中、次々と大型のバスが到着し、客を乗せて去っていくのであるが、行き先は東北方面や新潟方面など様々で、私が向かう関西方面だけでもかなりの台数が毎日運行されているようだ。バスの種類も内装によって数タイプに分けられ、スタンダードな一列に2×2名乗車のものから、一列3人掛けタイプや座席がベッドのようになる豪華版まで用意されている。それぞれ料金は異なるが、豪華版のものでも新幹線よりは安い。この価格設定が夜行バスの何よりの魅力であろう。私はその中でも最も安いスタンダードタイプのチケットを購入していた。京都まで片道、4200円である。

安さを求めてか、やはり客層は若者が圧倒的であった。そのほとんどが男女のカップルである。出張目的のサラリーマンや、私のような一人旅風の者はほとんど見かけなかったが、やがて私が搭乗するバスが到着し、指定された席に座ると、私の隣席は齢50を越えた(推定)サラリーマンであった。12時ごろ、バスは発車した。首都高から東名高速をバスは走る。私は眠れぬまま、さりとて明かりもないので本を読むなどして時間を潰せぬまま、ぼんやりと車窓を眺めていた。1時半ごろ足柄サービスエリアでバスは止まった。15分のトイレ休憩後、バスは再び西へと走り出す。私にとっては、ここからが地獄であった。

眠れないのだ。カーテンが閉められ、車窓を見ることもできなくなった。隣のサラリーマンは軽くイビキをかきながら、体をこちらに伸ばしてくる。バスは止まらず、ひたすら走る。私は5時半に草津サービスエリアでバスが止まるまでの4時間、物思いにふけるしかなかった。それにしても4時間休憩なしで運転し続けるドライバーの集中力には驚くばかりだ。バスは6時過ぎに京都駅八条口へ到着し、私はようやく解放された。

私は京都と大阪に滞在した3日間に、既に支払いを済ませている帰りのバスに乗るのを諦めて、新幹線で戻ろうかと何度か考えたものの、やはり余分な費用をかけようと決意するには至らず、再び京都駅八条口へ舞い戻った。復路は2階建てのバスだった。見た目は良いが、居住性は往路のものより更に悪い。今度の隣人は私のように、一人旅を終えたのであろう若い女性だったが、その女性が搭乗後すぐ眠りに落ちてしまうのをうらやましく思いながら、私は再び地獄を味わう。日中京都の街中を歩き詰めて疲れ果てていた私は、眠れないバスの中でふと足を組んだ刹那、腿の筋肉がつってしまい、静寂の中、声にならない悲鳴をあげたのだった。

2.08.2008

再会

引越しは無事終えたものの、元々散らかってた一軒家に輪を掛けて山積みとなったダンボール箱や棚などを徐々に片付けなくてはならないというプレッシャーを感じつつ、雑事などの合間にそれをやってしまおうという気概がいまいち湧いてこない2月初旬のある日、私はとある7人制フットサル大会へ出場することになった。以前在籍していた会社の社員によるフットサル大会である。

以前と言っても既にその会社を辞めてから8年は経っているのだが、同期入社した友人たちとは今でも交流がある。その中には私と同様に、未だにボールを蹴っている奴もいて、そいつに誘われたというのが出場に至る経緯なのだが、大会2週間前に参加した練習で、私が入るチームにはその友人以外に知った顔が存在しなかった。しかもその友人は急用により大会には参加しないことが明らかになり、私は一度、出場を躊躇したのだが、事前練習で出会ったチームの面々が気さくな人たちだったことと、もう一つ、再会してみたい人が別のチームから大会に出るはずだという予想が後押しして、結局私は参加することにした。

当日、会場が家と近かったので自転車を漕いで向かった先は、200人を超そうかというプレイヤーであふれていた。23チーム参加による大きな大会だったのだ。会場をうろうろして、2週間前に会ったチームメイト達を見つける。相変わらず気さくに対応してくれてホッとする。そして隣に陣取る敵チームを見やると、偶然にも私が再会したいと思っていた人がその輪の中にいたのである。

その人は私の直属の先輩だった。大学を出たばかりで社会の何たるかをまるでわかっていなかった私に、社会での振舞い方を教えてくれたのはその先輩だ。押し付けるでもなく、それでいて甘やかすでもなく、少なくとも当時の私にとっては非常にありがたい接し方で、色々なことを結果的に教えてくれた人である。彼とは私があっさりとその会社を辞した後もしばらくは交流が続いていたが、ここ数年は連絡を絶やしていた。

挨拶する間もなく我々の初戦が始まったのだが、試合の審判はその先輩だった。三浦カズと同年齢であるその先輩は私が知っている当時、会社のサッカー部で主力として活躍していたが、今でもサッカー部で活動しているようで、その関係から審判を兼ねているのだ。試合前にセンターサークル付近で並ぶと自然に目が合い、お互いの顔がほころんだ。「お久しぶりです」「おお、久しぶり」と声を掛け合いながら握手をしていた。しかしまあ、試合直前なのでこの場はそれっきりで終えた。

私の不出来もあってチームは初戦を落とし、同じ予選グループに所属する先輩のチームは次元の違うサッカーで初戦を完勝していた。プレイヤーとしてだけでなく審判としても活動する彼とは積もる話に花を咲かせる間もないまま、我々は2戦目にその先輩がいる強豪チームと対決することになった。我々のチームは15人ほど所属する大所帯で、初戦に長いこと出ていた私は出場を遠慮して、対決を眺めていた。カズと同い年の先輩はカズのように(と言えばさすがに大げさだが)衰えを見せることなく躍動していた。ピッチの最後尾から的確にボールを散らし、機を見てはオーバーラップして攻撃に絡むという動きを見せていた。私にはそれが眩しく見えた。しかし圧倒的な実力差をものともせずに我がチームは粘りを見せ、同点のまま終盤を迎える。「・・さん、お願いします!」不意に私へ声が掛かった。今や我がチームは優勝候補相手に引き分けるという目標へ向け一丸となっていた。素人交じりのこのチーム内において客観的に見てもキープ力に長けている私はチームの総意を汲んで、かつてのブラジル代表におけるデニウソン(と言うのは本当に大げさだが)の如く、ボールを受けるとサイドライン付近でドリブルし、とにかくボールを失わないよう必死でキープして時間稼ぎをした。

タイムアップ。我々が優勝したかのように大騒ぎする横で、熱血漢でもあるその先輩は自らのチームメイトを呼び集め、反省会を開いていた。あるいは私が最後に見せた嫌らしいプレイが彼に火を点けたのかも知れぬと想像すると、何やら微笑ましかった。会話がほとんど無くとも、同じ場所でボールを蹴りあっているだけで会話を遥かに越えたのコミュニケーションがしばしば成されてしまうというのがサッカーの醍醐味であるが、まさにそういった空気が私と彼の間に漂っているような気がした。

その後先輩のチームは反省会の甲斐あってか、予想通り圧倒的な力を誇示し続けて優勝し、我々も健闘し上位へ食い込み賞品まで頂いた。その先輩とは対決の後、合間を見て少しだけ会話する時間が出来た。簡単な近況報告の後、ふと私が「しかし、僕とIさん(その先輩)が一緒にいた頃のIさんの年齢を、僕はいつの間にか超えてしまいましたよ」とノスタルジックなことを洩らすと、彼も遠くを見ながら「そうだな・・これからの何年かもあっという間だぞ」と、やはりノスタルジックに返した。私はその一言だけで、十分に満ち足りたのだった。二人はいつかの再会を約束して別れ、私は自転車にまたがり帰路へと向かった。

1.09.2008

引越し

半年に渡って都内の2箇所を彷徨う生活を送っていたが、遂にこの1月いっぱいで元々暮らしていた浅草近くのマンションを明け渡すことになった。多忙を極める連れ合いの荷をあわせ2人分の諸物を梱包しなければならないのだが、私とて諸々の雑事をこなしながらの荷造りとなるわけで、作業は遅々として進まない。大丈夫かな?

ところで"引越し"とタイトルを銘打ったものの、ここでは2年間を過ごした浅草近辺への郷愁を込めて、私が複数回お世話になった飲食店の中から幾つかのお店をピックアップして紹介したいと思う。国際的な観光地のそばで暮らすというのは、なかなか刺激的な体験だった。3軒隣のホテル前にはよく観光バスが停泊していたし、各国のバックパッカーたちとは毎日のようにすれ違った。下町の一軒家の軒下で育まれる植物にも日々目を奪われた。しかし何と言っても、飲食店が充実しているというのが魅力で、その中でも観光客ではなく地元の人が通っているようなさりげない名店に私は心を惹かれた。ここでは、そんなお店について書きます。

・角蔓(蕎麦)
"上野藪蕎麦""並木藪蕎麦"など蕎麦の名店には事欠かない地域だが、ここでは吉原の入口に位置する角蔓を推したい。入る客はほぼ皆、暖簾をくぐるなり「ひやにくだい(冷肉大、冷えた肉蕎麦大盛りの意)」などとぶっきらぼうにオーダーを伝え、さっと食ってさっと帰る。まあこれが下町の粋ってやつなのだろう。江戸時代から続くこの店の蕎麦はワイルドそのもの。極太で長さも不安定、量も多め。トッピングの肉やら葱やらもドカンと盛られている。しかしこれが絶妙に旨い。何百年も前の色男がここでさりげなく蕎麦をすすってスタミナを蓄え、花街へ消えていく・・そういった情景を偲ぶことができる店だ。そういえば蕎麦屋といえば稲荷町から田原町へ移った"おざわ"というお店も、こちらは正統派ながらかなりの名店です。

・SUN(喫茶店)
鶯谷と入谷の間にある、目立たぬ喫茶店。私がこの店を知ったのは某雑誌の東京パスタ特集で、ここの納豆スパゲッティーが紹介されていたからなのであるが、行ってみると本当に雑誌で紹介されたのかという疑問が湧くような、地域密着型の見かけ平凡な喫茶店だった。今月のセットメニューに納豆スパゲッティーが入るまで納豆スパゲッティーをオーダーせずに何度か通ったのは、セットメニューが安いからというけち臭い理由のみならず、他のメニューもヴァリュアブルで、比較的浅煎りのコーヒーも美味しかったからなのであるが、何度目かにして初めて食べた納豆スパゲッティーはバターの味が利いた、雑誌に紹介されるだけのことはあると唸らせるものであった。

・あづま(中華料理)
浅草のすしや通りにある一見ひなびた中華料理屋(だが、割と有名らしい)。"純レバー丼"という看板が目を惹くが、このメニューはこの界隈ではしばしば目にするものである。私はここの店でしか純レバー丼を食べたことがないので他所との比較はできないが、とても美味しいものだった。この店では他にDX(デラックス)ラーメンというメニューが普通のラーメンと独立して存在していて、これも平凡な外見と裏腹になかなか味わい深い一品だった。が、普通のラーメンをここで食べたことがないのでこれまた比較ができない。ちなみに、ここには大して旨くないメニューが地雷のように幾つか存在する。そういったものを経験し、乗り越えていくのもまた下町裏グルメの楽しさなのではないかと思う。

他にも、オマージュ(フランス料理、浅草外れのとても不便な場所にあるが呆れるほど安くて旨い)や、初音茶屋(甘味、浅草ひさご通り沿いに所在するこの店より繊細なカキ氷を私は知らない)など、私が感銘を受けたさりげない名店は枚挙に暇がないほどこの地には存在する。だがしかし、こういった裏の名店というものは表の名店とは違って、どこにでも存在しえるものであろう。引越し先について、そこで育った連れ合いは愛憎を込めて「世界で最も平凡な場所」というような表現をした。私はそこまで平凡だとも思っていないが、もしそうだとしても、世界一というのは何にせよ大したものだし、そこからインスパイアされることというのは大きいんじゃないかと、むしろ期待を寄せている次第である。そこには感銘を受けるような名店もおそらく幾つか存在するだろうし、そういったお店を幾つかモノにしたら、またこの場で発表させてもらおうと思っている。

12.29.2007

パラメヒコ

今年も年甲斐もなく随分とサッカーやフットサルをプレイしたものだが、先週末の土曜にフットサル、そして日曜にサッカーの大会へ出場することでボールの蹴り納めとなった。しかしスパイク着用OKのサッカーに出場するのは数ヶ月ぶりのことで、ちょうど私は2足持っていたトレーニングシューズのうち1足を履き潰してしまっていたこともあり、せっかくだから久々に新しくスパイクでも購入しようかという気分になっていた。

土曜の早い時間にフットサルを終えた後、帰りがけにスポーツショップへと向かった。棚には数多くのシューズが陳列していて、その時点ではスパイクを買ってもいいかなと思いつつもトレーニングシューズでもいいやと、更に言えば金欠気味だし1足残ったシューズで明日の大会に臨んでもいいかなと、非常に優柔不断な態度で棚を眺めていたのだが、やがて一対の白いスパイクが目に留まった。

プーマのパラメヒコである。この靴は昔、私が中学や高校のサッカー部に所属していた頃には既に存在していたブランドで、当時カンガルー革製と謳うこのスパイクの性能と、耳慣れないスペイン語のネーミングには大いに惹かれていたものの、定価2万弱という価格設定に手を出せず、泣く泣く所有が叶わなかった青春の思い出詰まる一品なのだ。だが、なんとそこに置かれている白いパラメヒコには超特価と銘打たれ8000円台の値札が貼られていた。

「おーい」
私は、フットサル後もショッピングに付き合ってくれたMを呼んだ。
「これどう思う?」「おっ、パラメヒコじゃん。懐かしいなあ。」
どうやらMも青春の思い出を共有していたようだ。これが後押しとなり私は齢30を優に越えてからようやく、カンガルー革のパラメヒコホルダーとなったのだ。物を粗末に扱う悪癖のある私にしては珍しく、帰宅後すぐに取り出して丁寧に靴紐を通す。一穴通すごとに新品スパイクへの愛しさが募る。

あくる日、天気予報は雨だったがサッカー大会の時間には嘘のように空は晴れていた。平均年齢30台半ばの我がチームは、一回りは年齢が下と見られる他の参加チームを相手に決勝トーナメント進出を目指して戦いに挑んだ。が、あっという間に初戦を0-1で惜敗。
「あーもったいなかったなあ。今の相手が今日対戦する中で一番弱かったんじゃないの?」
なんていう声が仲間内で上がった。ということは、予選リーグの残り3試合を大差で敗北することになるのか・・別の仲間がこんなことを言った。
「(野球の)野村監督が、勝敗を決めるのは強弱ではなく、チャンスをものにするかどうかだと言ってましたよ!」
初戦は、良く守ったものの得点チャンスゼロだったんだけど・・

ともあれ、そんな檄が利いたのかどうか、2戦目の我々はディフェンスラインを高くして攻撃的に挑んだ。相手の攻めを守備の要・Hがカット。カウンター攻撃のチャンスである。そのまま中央でフリーの私に縦パスが渡り、前を向くと丁度、Sさんが後ろ向きながらもゴール前右寄りの位置でマークを外したところだった。私は迷わず右足を一閃する。インサイドで強く蹴ったボールは長い距離を滑ってSさんの足元へ。Sさんはそれをヒールで左にはたき、そこに飛び込んだMがゴールに流し込む、先制点だ。おおパラメヒコよ、おまえは早速美しい得点に絡んだぞ!

この試合は点の取り合いとなり、3-3の引き分けで終わったが、私は密かに"あの一蹴り"に満足してしまっていた。そしてこの後は、普段はサイドでのドリブル突破を無上の喜びとしているにも関わらず、"今日はパラメヒコでスルーパスを出す日"と勝手にテーマを決めてピッチ中央を王様の如くうろうろする時間が続いた。しかしあとの2試合は実力差があり過ぎて完敗。我々の大会はここで終わりを告げた。

1分け3敗という結果を残したが、それでも私は更に別の満足感を得ていた。ニュースパイクを着用しながらも、4戦を終えて靴づれができなかったのである。こんなことは今までになかったことで、さすがカンガルー革だと一人悦に入ってしまった。来年もパラメヒコと共に頑張ります。

12.21.2007

自動車免許の再取得 -まとめ-

年の瀬となった。何ヶ月も前に長々と書き連ねた"自動車免許の再取得"についての文章がなんとも的を得ないものになってしまい、不評を買っていたので、ここで有益かと思われる情報をまとめてお伝えしようと思う。


・教習所へ行く必要があるのか?

私の場合は行きましたが、実技教習のみで学科のない所を選びました。実技教習に関しても自分がやりたい回数だけチケットを購入して教えてもらうという融通の利く教習所でした。こういった教習所のデメリットは、

「試験を教習所で受けられず、運転免許試験場で受けなければならない」

ということです。運転免許試験場での実技試験は教習所で受けるものより大分合格のハードルが高くなっているような気がしました。もっとも、私が最初に免許を取得した10年以上前とは教習所のスタイルが変化し、教習でハンコをもらうのが容易になった分試験を難しくしたという話を某教習所関係者から聞いたこともあり、今では教習所で受けようが免許試験場で受けようが差はないのかもしれません。ともあれ免許を所持していた頃それなりに運転履歴を重ねていた人であれば、悪くとも何回か不合格を重ねれば合格へたどり着くはずです。再取得までのコストや時間を考えると、普通の教習所で学科も実技も学び直して試験を受けるよりは、私のように実技教習のみを何度か受講して試験に臨むというやり方をお勧めします。全く教習を受けずに試験へトライするというのもいいでしょうが、以前に路上で身につけた悪癖というのはなかなか落ちないものです。その癖が試験結果に影響するので気をつけてください。

・再取得までの流れ

1.取消処分者講習(2日間)
2.仮免許筆記試験
3.仮免許実技試験
4.特定講習(7時間ぐらい、1日にまとめられる)
5.本免許筆記試験
6.本免許実技試験

という順番がベストかと思います。1の取消処分者講習では2日間とも簡単な、仮免許実技試験のレクチャーを受けることができるので、その時間を無駄にしなければ試験結果へと結びつくはずです(私は仮免許取得後にこの講習を受けたので、そのメリットを享受することができませんでした)。従って1から3まではなるべく短いスパンでこなすことを求められます。筆記で落ちないようにしてください。4の特定講習は本免許試験後に受けることもできますが、試験合格の当日に免許証を交付されるという喜びを得たければ上記の流れがいいでしょう。5と6は都道府県によって順番が逆転します。なお、1の講習は私の場合、非常に混雑した時期に予約したため2ヶ月待ちという羽目に陥りました。通常でも2週間程度は待たされるようです。

・心構え

まず厳しいことを言えば、筆記で落ちるというのは論外だと思います。大体再取得に挑戦する人というのは、仕事の合い間を縫って、ない暇をやり繰りしてチャレンジするのだと思いますが、そこで筆記試験を複数回受験するという時間の浪費は痛恨の極みでしょう。何があっても合格できるというところまで参考書を読み込んでから受験するぐらいで丁度良いのではないかと思います。反対に、実技試験にはそれほど切羽詰った状態で臨まないほうが良いのではないかと思います。緊張が運転にも影響しますし、次に受かるための模擬試験だというぐらいの心持ちでいってください。仮に落ちたとしても、そのぐらいリラックスしていた方が、何故落ちたのかをよりよく理解できるはずです。

・まとめ

そもそも運転免許の再取得という行為は非日常的なもので、免許を一旦取得した人の中でも数%程度しか体験しない出来事でしょう。後ろめたさや、再取得しないと体裁が悪いなんていう考え方をいっそのこと捨てて、自分は今、普通じゃできないことを経験しているのだという前向きな姿勢で、好奇心を持って運転免許取得に関する全てのことに目を光らせていけば、辛いことも楽しく感じられるのではないかと思います。


そして私は4月に免許を再取得して以降、実家の車やレンタカーなどを乗り回す日々が続いている。免許を失効してから3年近く運転とは離れていたものの、それでも再取得してみると運転する必要のある用事が積み重なるもので、逆に言えば私が免許を所持していなかった3年もの間、周りには迷惑を掛けていたのだと思い知らされた。現在私は、新車の購入を計画している。

11.28.2007

自転車旅行 -銚子編- 2

滑川駅から電車に乗ること1時間。銚子に着いたのは夜の8時で、人口減に悩むこの街への第一印象は暗がりの下、うら寂しく感じられるものであった。A君とT君は先に晩飯を済ませていたが、その2人が先に腰を落ち着けた"鮪蔵"という店の閉店時間が迫っていたので、私とO君は取りも直さずタクシーを用いてその店へ直行。着いた周辺には魚料理を食べさせる料理屋が軒を並べ、魚市場らしき大きな建物もあって、駅前と比べてやや活気を漂わせていた。

店に入りO君と乾杯する。程なく出てきた刺身や天麩羅の数々に舌鼓を打つ、期待通りの味だ。特に金目鯛が旨い。自転車を長時間走らせていると本当にお腹が空くので、私は年甲斐もなく丼飯を3杯もおかわりしてしまった。すっかり満足した我々は宿へと歩き、ようやく先に着いていた2人との再会を果たす。しばしの歓談後、既に夜も更けていたのでそれぞれ床に就いた。が、先に噂では聞いていたA君のイビキというのが、想像を遥かに超えた日本代表級の凄まじさで、前夜も寝不足で疲労しているというのになかなか寝付くことができない。最初はイビキのバリエーションが豊かなことに笑いが止まらず眠れない、そのうち慣れてはくるが、あまりの音量の大きさに眠ることができない・・

結局、準備良く耳栓を持参していたT君こそ熟睡できたものの、私とO君はあまり睡眠時間を取れないまま朝を迎えた。まあこれは自転車を置いて電車で来た我々に対する天罰ということなのかもしれない。ともあれ、我々4名は朝食を終えて宿をチェックアウトした。歩いて駅まで向かい、銚子電鉄で犬吠崎へと向かう。

経営難やぬれせんべいの販売、ファンが多いことなど何かと話題の多いこの銚子電鉄であるが、休日ということもあってか車内は乗客でそこそこ埋まっていた。江ノ電のように駅間は短く、狭いところを縫うように走る。そのうちに車窓には畑が広がるようになり、そう時間も経たないうちに終点手前の犬吠駅に到着。駅から犬吠崎灯台までの道程には、やたらと"地球が丸く見える"というキャッチフレーズの広告が目立つ。確かに長く伸びた水平線を眺めていると、それは真っ直ぐではなく丸まって見えるのだ。雄大な海を見やりつつも5分歩くと灯台の下へと来た。150円払って敷地に入る。99段の螺旋急階段を登ると、灯台の上から地球がやはり、丸く見えた。灯台の敷地には他にもちょっとしたミュージアムが併設されていて、安価な入場料にしては内容が充実していた。

その後、駅から見えた巨大な、成金趣味の寺院にも行ってみた。ここに巨額の寄付金を贈った人は石碑を建ててもらえるようで、何十本と建つ石碑の中に寄付5000万円と銘打たれたものがあるのには驚かされた。そんなこんなで昼時を迎え、我々は銚子市街へと戻り昼食をとることにした。銚子駅までは戻らず手前の駅で降り、昨夜訪れた飲食店密集地の辺りへと歩く。ヤマサの大きな工場からは醤油の匂いが強く漂っている。閑散とした町並みを越え目的地に辿り着くと、その通りにだけ大勢の人々が現れ、飲食店の前に列を成していた。これはかなり予想外の出来事で、我々もその中の一店舗にあたりをつけ並んだが、いざ料理を目前にするまでにそれから1時間近くを要した。私は昨夜の味が忘れられず、金目の刺身定食を注文。やはり旨い。いつの間にか我々は、これから自転車で帰宅するというのにも関わらずビールを何本か空け、すっかり気分のいい状態になってしまった。

さて、帰宅である。A君とT君は自転車を分解し袋に入れ、共に家近くの駅まで電車で帰ることにしていた。私は自転車を置いてきた滑河駅で降り、その先を考えなければならない。だんだんと帰りが憂鬱になるも、私は滑川から自転車を1時間ほど走らせ、成田から京成スカイライナーで帰るというルートを憂鬱の中で選択した。銚子駅で50分待って乗った電車は、1時間掛けて滑川に着いた。3人と別れ、自転車をゆっくりとスタートさせる。既に夕暮れ時で、間もなく暗くなった。周辺の民家から発生する焚き火の煙が、自転車に乗った私を直撃し悩ませた。わずか1時間のツーリングながらもすっかり疲弊した状態で私は成田駅へと辿り着いた。早速、自転車を分解し始めるのだが、1年半ぶり2度目のこの作業に手間取る。「ここはこうして・・あれー?」などと独り言を発しながらの分解・袋詰め作業には30分を要し、乗車予定のスカイライナーにはぎりぎりのタイミングで乗れず、そこから45分間、次のスカイライナーを待つことになった。なんとも待ち時間の長い旅であった。

11.26.2007

自転車旅行 -銚子編-

いつの間にやら木枯らしの吹く季節となった。アツい夏の間、結局どこへも冒険に出向くことなく日々を過ごした私の元に、秋も深まった頃合いで友人から「自転車で銚子まで行かないか」というオファーが届いた。

今回は十日町への旅に同行してもらったT君を含む、A君、O君との四人旅である。しかし、四人で併走する姿なども思い浮かべながら臨んだ"打ち合わせ"と称する飲み会(於:アントニオ猪木酒場)の中で、元よりいい加減なこのメンバーでは何も決まることもなく、ただ現地集合ということだけが定められた。従って、各人がルートや出発時間をまちまちに計画立てることになったわけだが、私は一応朝8時出発で千葉県中央部を通っていくということに決めた。

しかし物事は予定通りには運ばないものである。アントニオ猪木氏は「一寸先はハプニング」などという造語をよく用いているが、私の身にも前夜にあるハプニングが降臨し、眠れなくなってしまった。朝7時にセットした目覚まし時計が鳴り、それを一睡もできずに止める。そしてその直後に睡魔が襲い、起きたら10時を過ぎていた。呆然としているところにA君からの電話が入った。「今どこら辺?」と聞かれ、寝坊してまだ在宅している旨を伝えた。彼は電車に自転車を乗せ取手に向かい、下車して既に走り始めているということだった。

天候は良く、ツーリングにはもってこいの日だ。しかし睡眠不足といきなりの予定変更によって、私のモチベーションは大きく下がってしまった。ゆっくりと朝食を食べ、コーヒーをおかわりしているうちに正午を過ぎる。他のメンバーはどうしているのかと思いO君の動向に探りを入れると、彼もまたモチベーションが低下しているようでまだ家にいるということがわかる。ここで相乗効果が発生し、益々私の足取りは重くなる。こうしてアントニオ氏の言うような「迷わず行けよ、行けばわかるさ」というわけにはいかなくなり、迷い抜いた挙句、結局1時頃ようやくスタートすることになった。

明治通りから国道6号を走って松戸に至る。道は自動車で混み合い、側道も狭く危険を感じ主に歩道を走ったため、思うように距離が稼げず疲労も普段より蓄積する。6号線から逸れて松戸市内を抜け、北総開発鉄道沿いの国道に入るとようやく走り易くなり、スピードを上げてぐいぐいと進む。だが既に3時を過ぎ、早くも夕暮れ時に差し掛かっている。銚子まで完走するのは無理だということはスタートが遅れた時点でわかっていたが、そろそろ目的地を定めないといけない。私は白井駅付近で休憩がてらにラーメンをすすりながら地図を広げ、成田という選択肢と利根川沿いまで行くという選択肢の間で悩んだ。成田であれば、特急電車も停まるだろうし自転車を乗り捨てた後銚子まで行くルートに広がりを持たせられる、しかし利根川沿いの自転車道を少しでも走ってみたい。私は少し不安を抱きながらも、利根川沿いまで北上することを選んだ。まあ、行けばわかるさ。

北総開発鉄道沿いの道に別れを告げ、北上ルートを辿って利根川へ。日は沈み、時計の針は5時を回っていた。満月を進行方向に仰ぎながら、暗がりの土手上にある自転車道に合流する。左手には河口まで70キロ近くもあるのに、早くも雄大な佇まいを誇示する利根の流れが蛇行している。幻想的な光景であった。私は20キロほど先にある滑川という駅を終着の地と定め、ラストスパートを開始した。T君から連絡があり、A君と共に銚子に着いているということと、O君の所在が不明であるということを聞いた。

6時過ぎ、滑川駅着。ちょうど5時間のサイクリングだった。ここから銚子駅までは電車で1時間ぐらいのはずである。が、時刻表を見ると、なんと次の電車まで50分待たなくてはならないことが判明した。そこで待ち時間を使って、私はO君の所在を確かめることにした。携帯電話からメールを送ると程なくして返事が来た。彼は私より更に2時間も迷っていたようで、3時にようやく出発。東京から千葉駅まで自転車を漕いで、そこから電車で銚子に向かっているとのことであった。その後長いこと待たされてようやく滑河駅に到着した銚子行きの電車には、偶然そのO君が乗っていて、二人とも同じ電車で銚子へ向かうという、なんともしまらない顛末で往路を終えたのである。

(続く)

11.12.2007

MP3 PLAYERと、私

相も変わらず自転車に乗り続けている私だが、少し遠くへ行く際にはipodのお世話になるという癖がついてしまった。元々私はipodになぞ興味がないどころか、アンチを貫いていたにも関わらず・・

何故私がipod(というより、携帯型の音楽再生機全般)を問題視していたのかというと、それがユーザーの自己愛と鈍感力を助長しているとしか思えなかったからだ。電車に乗っていても、疲労感を顕わにした老人がヨボヨボと立っているその前に、どっかりと股を広げて腰掛けている若者の耳にイヤホンが突き刺さっている姿は今や日常茶飯事の如く目に入る光景である。この若者は多分、自分で選び抜いた音楽の世界に入ってしまって、目の前で座りたそうにしている人がいるということに気がついていないんだと思う。

また、ニューヨークのような格好いい都会にはじめて出かけたとしよう。空港へ降り立ち出国手続きを終え、地下鉄に乗ってマンハッタンへいざ行かんとする若者の耳にはやはり、イヤホンから流れる「自分のフェイバリットソングス・NYCバージョン」が鳴り響いているのではないか。少なからず存在するであろうそういった人たちについて私は、もったいないと思わずにはいられないのだ。見聞という言葉があるけど、はじめての場所で街の音から耳を閉ざしていては、半分(つまり見聞の、見)しか世界が広がらないではないか。そんなに自分の世界を守って、愛してどうするんだよ・・

なんていう持論を抱えた私に、とある知人がタイ土産という名目で小さなipodをプレゼントしてくれた。何故タイの土産がipodなのかは全くもって謎に包まれているのだが、一応タイっぽいイメージのゴールドカラーであったことを記しておこう。兎に角、期せずしてipodを所有することになってしまったのである。

いくら頂いたからといっても、そんなに嫌いならば放っておけば済む話なのだが、私はipod(シャッフルとかいう機種です)の余りの小ささに心を奪われてしまった。元来音楽好きで、またPCではiTunesをプレイヤーソフトとして使用していたせいか、この小さな機械にお気に入りの音楽を詰め込み、街へ出て行くまでにそう時間はかからなかった。最初は「自転車に乗るときは危ないから止めよう」と思っていたものだが、一度それを試すと、疲労が半減するような気がした。その効果を理由に自転車外出の際、ipodが手放せなくなってしまったのである。

こうして、晴れて自己愛の囚人と化した私は今日(正確に言えば昨日)も所用をこなしに台東区から板橋区へと、音楽を聴きながら自転車を走らせた。用を済ませ、外していたipodを再び装着して外に出ると雨が降っていたが、それでもイヤホンをつけたまま台東区へと戻る。道中、雨は徐々に激しさを増し、自転車のスピードも鈍る。が、流れてくる音楽に勇気付けられつつなんとか台東区へ入り、家の近所までたどり着いた。目の前に迫る信号は変わらず青のままで、私は右折すべく体を傾けた。右折した先に、車線を逆走してきた自転車2台が突然視界に現れた。急ブレーキをかけてハイドロプレーン現象を起こした私の愛車は大きく傾き、とっさに伸ばした右足でなんとか転倒を防いだ私の体は、気がつけばサドルから降りて車道に立ち尽くしていた。何の挨拶もなく2台の対向車は遠くへ過ぎ去り、私は呆然としたまま左手でかろうじて自転車のハンドルを握り締め、右耳からはイヤホンが抜け落ちていた。

雨で視界不良の中、聴覚を自ら塞いでいた私の落ち度であった。

10.17.2007

自転車で帰郷

帰郷なんて書くと大げさだが、去る週末に現在居を構えている板橋から実家のある藤沢までを自転車で往復することにした。復路の途中、あざみ野でフットサルを2時間プレイするというオプション込みでの挑戦だ。オプションを除いて考えても、十日町まで行った経験以外では今までで最長の距離を走ることになる。

思えばこの夏、私は昨年と同様にどこか遠くまで自転車で行ければと願いつつも叶わず、その間の暴食もたたって気がつけば中量級のK-1マックスに出場できるか怪しいところまでに体重が増加していた(もちろん、K-1側からオファーが来ているわけではない)。十日町遠征時に激ヤセした効果の再現も少し期待しつつ、予定よりやや遅い14時過ぎに板橋をスタート。目標時間はやや余裕を持たせて、6時間と設定した。

実は1年前十日町へ行って以降、私の愛車はメンテナンス不足もたたって不調を極めた。複数の部品が壊れ交換し、2度に渡って自転車屋にメンテナンスをお願いした。スーパーマーケットで購入した安物のBMXなので、さほど耐久力も強くないのであろう。新車購入をも視野に入れている私は、この自転車とのロングツーリングも最後かもしれないという感傷を抱きながらペダルをこぎ始めたのであるが、意外やこのツーリングは順調な滑り出しとなる。

山手通りを南下し、神泉からR246を西へ。二子玉川到着までに休憩含め2時間と見積もっていたが、30分も早くかの地を通過する。事前にメンテナンスを行っていた甲斐あって愛車の調子がいい。工事中の山手通りも、車道を走るのが難しい代わりに工事の好影響で歩道がやたらと広い。こういう時に車道と歩道を選択しながら進めるのは段差に弱いロードバイクと違う、BMXのいい所だ。

途中ラーメン屋にピットイン。自転車をこぎ続けると実に腹が減るので、これはダイエット中といえども仕方がなかろう。R246も神奈川県に入ると坂が多く、また自転車通行を禁じた箇所も増えて、スムーズに事は運ばなくなる。が、あざみ野通過を想定時間の1時間も早く達成してしまう。これは随分と早く実家に辿り着いてしまうなと思ったが、夕暮れ時になり、闇の世界が私に迫っていた。このまままっすぐ西へ行くと、境川を越える。神奈川県中部を流れ江ノ島付近に河口を持ち相模湾へと続くこの細い川に沿って自転車道が整備されているという情報を事前に仕入れていた私は、R246を降りて少し迷いながらも境川の自転車道を発見し、下流に向かって進むことにした。

しかしその時点ですっかり夜になっていた。自転車道はそこそこ整備されているものの、照明など何もなく大変暗い。この先スピードダウンを余儀なくされた私は持ち合わせていたipodから流れる音楽を聴きながら、ひたすら田舎道を進んだ。自転車道ということで自動車に気兼ねせず走れるのは大変好ましいのであるが、コンビニや自販機などがまったく存在せず休憩スポットを設定できないのはつらい。暗がりの中を、多少感じてきた疲労感と戦いながらゆっくり進んでいくと、ipodから友人の弟(ラッパー)がリリースした曲が流れてきた。横浜の、それも特にドリームランド周辺をテーマにした曲に耳を傾けていると、本当にドリームランドの夜景が見えてきた。このあたりはそれこそ自転車で、中学生時代に走っていた地域だ。引越しを繰り返してきた私に久しく訪れなかった"地元愛"のような感覚が、疲労と相成って湧き上がった。そこからはかつて知ったる道を辿りながら、実家に到着した。出発から5時間、当初予定より1時間早かったが、あざみ野通過時点からは予定を短縮することができなかった。

あくる日、実家で英気を養った私は16時にあざみ野で開始するフットサルに向けて13時前に実家を出発した。境川沿いを戻っていくつもりであったが地図を見たらドリームランド付近から環状4号-中原街道といった道を行くほうが距離としては短いはずだとわかったので、昼の境川にも未練はあったものの、距離短縮を優先させることにした。

東京と比べて、横浜はアップダウンの多い地形だ。往路にもそれは実感したが、復路の環状4号-中原街道において私はそのことを痛感させられた。それでも黙々とペダルを漕いでいくと、あざみ野のフットサルコートには2時間強でたどり着いてしまった。涼やかな秋の曇り空の下、びっしょりと汗をかいた私はアイスクリームをほおばりながら仲間の到着を待った。

程なくして仲間も集い、フットサルが始まった。事前の予想では、私はこの時点でボールを追いかけて走れるような体調にはないだろうと思っていたのだが、実際に相当疲労していたにも関わらず私はパブロフの犬が如く、スペースがあればそこへ走りこみ、カウンターを食らえばあわてて戻るという行為を繰り返していた。2時間後、疲労し切ってしまった私は「帰りたくない」なんていう我侭を仲間に洩らしながらも、帰らなければならないという現実に直面しつつ、重い足を回し始めた。往路は2時間で済ませた距離を、再びラーメン屋込みで3時間かけて板橋に至ることとなった。シャワーを浴びてから計量したところ、私の体重は1.5キロ減少していたのだった。

10.06.2007

植村直己について

諸事情が重なり、台東区から板橋区へと引っ越すことになった。実は数ヶ月前から両区を行ったり来たりしているのだが、年末には台東区の家を引き払う予定だ。

引越し先から程近いところにある商店街を歩いていると、古い構えの豆腐屋があった。そこは1984年にマッキンリーで行方不明となった植村直己にゆかりのある店だという噂を聞いて、植村のことを調べてみると、彼は最後に消息を絶つまでの10数年間を板橋区民として過ごしたということがわかった(最も、半分ぐらいは海外などに遠征していたようだが)。また、植村冒険館という施設が区内に存在することも判明したので、暇をみて行ってみようと思い立った。

それから、なかなかその日程を組むこともできずに月日は流れ行き、その間に私は植村に関する著作を読みふけったりもして、益々彼への憧憬を膨らませながら過ごしたわけなのであるが、ついに先日、暇を見つけて植村冒険館を訪れることができたのである。

板橋区の新居から自転車で出発。そこから冒険館までの道程は偶然にも、半年前まで通っていた自動車教習所へ行くバスのルートと一致していた。懐かしい風景を堪能しながら私は、植村の魅力について思いを募らせ、それを整理しながらペダルを漕いだ。

私が惹かれた植村の魅力を一言で表現すれば、「単独行」という彼のこだわりに尽きるのである。植村はまだ無名だった若い頃にエベレスト日本人初登頂を目指す一隊に加わり、そのずば抜けた体力を買われて最終的な登頂アタッカーへと抜擢され見事にそれを成し遂げるのであるが、その過程においては多くの人々に支えられたということに感謝し、また大勢の人に支えられながらも一握りの者しか栄誉を勝ち取れないという冒険の在り方に疑問を覚える。そこから、彼の単独行志向がはじまる。

そんな植村の精神は、有名になった後年、スポンサーがつくようになってからも変わることなく続いた。自分の冒険のために集められた資金を冒険以外のことに使用することを厳密に禁じた。北極にて偉業を成し遂げた直後、米国政府からねぎらいのレセプションに呼ばれた際に「私はそのような場に出る服を持ち合わせていず、また冒険のために集められた資金を礼服の購入に用いるのは筋違いなので、私が持っている服で出席してもいいようなレセプションでなければ断って欲しい」というような主張を曲げなかったというエピソードは、彼にまつわる様々なエピソードの中でも私が好きなものの一つである。

そういった事前に仕入れた植村のイメージで頭を膨らませながら、私は目的地に辿り着いた。入館料は無料だった。ここで詳細を記すことは止しておくが、生誕からの彼にまつわる出来事が年表化されてパネルになっており、私はそのいちいちに思いを巡らせ、植村観を膨らませたり修正したりしながら、メイン展示場に進んだ。そこでは植村を単独行へと向かわせた、エベレスト登頂時に使われた登山用具の数々が置かれていた。私は登山に詳しいほうではないのだが、そこにあった用具は皆当時の最先端をいく物であったのにも関わらず、私の想像を超えるような便利なものではなく、現代なら手軽に調達できそうな物ばかりであった。もう40年以上前に使用されたものなので無理はないが、当時はこんな装備で極地へ向かっていたということに感嘆した。

エベレスト登頂時のディスプレイを見終えると最後に、大型テレビで植村のDVDが放映されていた。若き日の植村夫人もそこには登場していた。結婚した数ヵ月後には長期の遠征に出ていた植村を、結婚生活の多くにおいて、最愛の人の生死をテーマにしていたであろう彼女の心理状況とは、いったいどのようなものなのだったであろうということを否応なしに連想させられた。

ここに余すことなく表記すると何行に渡るかわからないほどの感傷を抱え、展示室を後にしようとする私に、受付にいる初老の女性が欲のない、実に純粋な表情で「ありがとうございました」と声を掛けてくれた。どことなくDVDで見た植村夫人の趣が重なって、「あなたは植村さんの奥様ですか」と聞きたくなったのだが、できなかった。帰りがけに通りすがった古い構えの豆腐屋は、夫人の旧姓に豆腐店という文字が連なる名称であった。

9.13.2007

懐かしき山盛りのラーメン

先日体重計に乗ったら、過去最大の数値を示していた。これはまずいと思って数日の間意識的に体を動かすようにしていた矢先の出来事である。

夜、池袋で用事を済ませ、さてどうしようかと思いながら街をぶらつきだすと、学生の頃に幾度となく足を運び、社会人になってからも最低数年に一度は顔を出しているラーメンチェーン店の看板を見かけてしまった。ほぼ反射的に、入店を待つ人の行列へ向かい、その一員となる。

しかし私はダイエット中の身であり、更に言うと、その時点で腹を空かせている訳でもなかったのだ。ここのラーメンは量が尋常ではないことで良く知られている。ここはひとつ、ラーメンを諦めて家に帰るべきかとも考えたが、その時点で私の後ろにも既に数人並んでいるという人気っぷりにも押され、なんとなく躊躇しながらも並び続けることにした。

この店は量と共に、注文の仕方が特殊であることでも有名だ。大盛りやチャーシューの数を増やすというチョイスは有料で行われるが、それ以外にも無料で野菜やニンニクの量、味の加減などを調節してくれる。それらを、ラーメンが運ばれてくる直前に要望するのだが、並びながら先に座っているお客さんを眺めていると、無料オーダーのやり方が私の覚えているやり方と若干違っていることに気付いた。

これは池袋店だけの話なのかもしれないのだが、私の知る限りでは、例えば野菜を増やして欲しい場合は「野菜」とか「野菜増し」と言えば良かった。しかしここでは「野菜増し増し」と要望するお客さんが多かった。そうして運ばれてくるラーメンに乗っかった野菜は、以前私が「野菜」とだけ注文して出されたものに乗っかっていた野菜の量と同じ、剣山のように盛り上がった異常な量のそれであった。また、従来私がやっていたように「野菜」とだけオーダーする人もいたので、その人に運ばれてくるラーメンを注目して見たが、「野菜増し増し」とは明らかに違う、常識的なトッピング量のものだったのだ。

そんな観察をしながらも私が席に座る番になり、程なくしてトッピングの具合を聞かれた。私はまたしても反射的に、今覚えたばかりの「野菜増し増し、辛め」などという呪文を唱えていた。スープの上に富士山の如く盛り付けられた野菜が乗っかった一物が目前に届けられた。チャーシューも麺もトッピングの下に埋もれて見つからない。なんとか食べ終えて帰宅し体重計に乗ると、数日前の数値を大きく更新していたことは言うまでもないだろう。

8.11.2007

打楽器の調べ(あるいは、その周辺)

友人Oが運営に関わっているという打楽器中心のコンサートを見に、また新潟県の十日町まで行ってきた。今年は自転車でなく自動車で赴いた。実は去年自転車で当地を訪れた際にも滞在期間中に"世界太鼓フェスティバル"というコンサートを見ていて、見るだけでなく会場の設営や撤収の手伝いまでしたのであるが、この度見たコンサートの出演者は"世界太鼓フェスティバル"にも出ていた音太鼓座(おんでこざ)とPURIの2組。更に言うと、今年も運営のお手伝いをしたので、焼き直しのような体験をしたとも表現できそうだが・・

私を含めた今回のコンサートを手伝う人数名を乗せた車が現地の宿舎に到着したのは夜の12時頃だった。利口な人はここで明日に備えて眠りにつくのだが、馬鹿な私と友人O、そして馬鹿ではないが好奇心旺盛な同行者の一部がビールを片手に宿の外にあるオープンデッキへ足を運ぶと、先客2名が既に酩酊した状態で会話を繰り広げていた。一人は数日前からここでボランティアとして生活しているという青年、もう一人は60歳前後の紳士で、コンサートに出演するアーティストのマネージメントをしている会社の社長ということだった。2人のオープンな雰囲気にのまれ、合流した我々は酒を振舞われつつもとりとめもなく話を続け気付いたら時計の針は4時を回っていた。ここでまだ飲んでいる先客の2人を残して我々は退散。僅かばかりの睡眠を取った。

2時間程度休息した後、早朝から我々はコンサート当日の行動を開始した。とはいえ、当初の予想以上にコンサートの準備はこの時点で完成していたため、座席を整えた後、私はOと共に会場近くの駅前にチケットブースを開き、イベントの告知を兼ねてチケット販売を行うことになった。10時ごろから販売を開始。しかし駅前といえど、そこは田舎なのでまず人通り自体がほとんどない。そう、ここは山と林と棚田に囲まれた静かな田舎町なのである。途中チケット販売を別のコンビに交代してもらったが、17時までブースを開いて全体で売れたチケットはなんと1枚のみであった。

それでも前売りで相当量売れていたらしく、屋外にある会場は開演時間が迫るにつれ徐々に埋まっていった。開演の頃にはほぼスペースが埋まっていたように思う。私はビデオ撮影による記録係を任ぜられていたのでスタンバイしたところ、プロのカメラマンが何人か入っていたので、彼らに遠慮して周辺からの撮影に徹することにした。しかしこれが私の体力を大きく消耗させる要因になった。三脚を持って様々な場所を彷徨いながらの撮影、下手糞ながらも元来撮影好きであるため、朦朧としながらも夢中になってファインダーを覗く。そんなこんなでコンサートが終わったときに私は倒れそうになっていた。

音楽自体は大変聴き応えのあるものであった。"世界太鼓フェスティバル"を見たときから密かに注目していたPURIは、去年より難易度を下げた演目に終始した感もあったが、それでも独特の、様々な拍子をコンパイルした不思議な音を鳴らし、音太鼓座は相変わらずの迫力あふれる演奏に加え、剣玉によるパフォーマンスなどで観客を魅了していた。撮影なんかしていなかったらおそらく、打楽器のリズムが遠く棚田の方にまで沁み伝わっていくような幻想的な感覚を味わえることができただろうが、私はむしろカメラを通した狭い視点から見ていたせいか、狭い屋内で演奏を聞いているような感覚になってしまったのが残念といえば残念だ。

宴は終わり、会場の撤収作業の後軽い食事を取ると、もう夜の12時近くになっていた。私は宿に戻りすぐにベッドへ入ったのだが、何故か3時前には起きてしまった。仕方がないので前夜と同じくオープンデッキに足を運ぶと、なんとまたボランティアの青年と社長が酒を飲んでいるではないか。この人たちは一体いつ寝ているのだろうか?私は唖然としながら、そこからまた6時ぐらいまで彼らの酒に付き合うことにした。思えば昨年も、十日町に到着後の日々は夜な夜な酒を囲み語らい寝ないというものであったので、やはり前述の通りある意味コピー体験となったのであるが、しかしどうして毎度こんなにも無茶なことをして体がもつのだろうか。

あくる日東京へ帰る車中で、同行者の一人がふと(この人は連日夜明けまで酒席にいたわけではないのだが、それでも大して眠れなかったらしい)「あまり眠れなくても、こういう空気の澄んだ場所だと眠りが深くなるのか、日中も起きていられるのよね」というようなことを洩らした。それは実に腑に落ちる言葉で、私はああなるほどと思い、東京に着いた途端に吸った空気のまずさが急に気になるようになった。

7.24.2007

PC同時多発クラッシュ顛末記

7月某日、某所で私が他者と共有しているPCのOSが起動しなくなった。原因はサービスパックのアップグレードがうまくいかず、2種類のOSが変な具合に混合してしまったためと思われる。OSメーカーのせいにしたいところだが、アップグレード作業を行ったのは私なので、PCを共有する他者の暖かい理解と協力を得ながら、またIT関係に詳しい友人の知恵を拝借しながら復旧作業に取り組んだ。

まずは友人の好意により頂いたOSメーカーの有料サービスチケットを元にメーカーへ電話連絡。なかなかつながらずもようやく出た先方は、症状を一通り聞いた後でにべもなく「PC本体のメーカーに問い合わせて、それでも直らなければ再度連絡してください」と言う。言っていることに筋は通っているし理解はできるが、こうした問い合わせをしてくる者の状況や心理をもう少し酌んでくれないものかな、と思う。気を取り直してPCメーカーに連絡。この電話もなかなかつながらなかったのだが、出てきた人のガイドに従い色々と調べていくうちに、やはりハードディスクの障害はなくOSに問題があるということがわかり、こちらでは「OSを再インストールするしかないですね」という、ある結論を導いていただいた。

そんなこんなで、緊急に使用する必要があるというほどではなかったためPCの回復作業を次週以降に持ち越し、週末実家に戻ると、もう8年も使っている実家のPCが起動しなくなっていた。これはもうなんとも原因不明というか、寿命というか、特に大切なデータはバックアップを取っていて、またPCの故障復旧にはげんなりしていたこともあって、その時私はあっさりと"回復不可能"という烙印を押した。

そして東京の自宅に戻り、自分のノートPCを開いてスイッチを押すと、なんとこれまた立ち上がらないのだ。いったいこの異常事態をどう説明したら良いのか、私の手先から邪悪な電流でも流れているのだろうか・・触るPCが皆傷ついていくという現象に私は恐れをなした。PCを使用し始めてから約10年、今までこういったトラブルとは無縁できたのだが、数日間で一気に3台も使用不能状態になるとは。

週が明けると、私は必然的に複数のトラブルを解決するために奔走することになった。まずは共有しているPCの復旧である。困ったことにこのPCと私のプライベートPCに関しては、ハードディスクからデータを抽出する必要があった。私は再度OSメーカーに問い合わせると、この時の担当は何とも親切でプロフェッショナルな人であった。電話を片手に2時間強もの間、彼は声色に疲れ一つ見せず、それどころか私の疲れを敏感に察知しねぎらいの言葉をかけながらもナビゲートしてくださった。CDからの起動もなかなかままならず、DOSの画面からコマンドを打ち続けなんとか起動に成功。バックアップデータを取得し、OSの再インストールで復旧ができるところまでこぎつけた。

大きな問題を抱えていたのは、自分のノートPCであった。こちらはハードディスクに障害を持ってしまったようで、電話サポートではにっちもさっちもいかないよ、と思わせる趣きを湛えていた。私は彼女が使用しているMACを、「これも壊すんじゃないか?」などと恐れつつも使用させてもらいインターネット上を検索。秋葉原のとある会社にあたりを付け、データの復旧作業をお願いすることにした(彼女のMACは幸いにして無事である)。現在データは外付けのハードディスクに保管され戻ってきたものの、ハードディスクは取替える必要があり、OSや各種ソフトも購入しなければならないという状態なので、この際新たにPCを購入したほうがいいのかもしれないと思案しているところ(姉妹サイトである「世界の風景(仮)」は、この問題を解決次第再開します)。

共有PCはその後、OSの再インストール時に私の無知から紆余曲折を招いたものの、復帰を果たした。最も不思議であったのは実家にある古PCで、翌週末に何気なくスイッチを押したところ、何事もなかったかのように起動したのだった。前の週にあのタイミングで起動しなかったのは、何かの嫌がらせとしか思えないような出来事だ。PCだって人間のようにベテランにもなると、一筋縄ではいかないものなのかな。

7.12.2007

自転車旅行 -十日町編- 2

3日目の朝、熟睡から目覚めたらいよいよ脚が上がらなくなっていた。昨日までに肩と、臀部の痛みは発症していたのだが、いよいよ本命がやってきたという感じだ。

昨日自転車の大クラッシュにより負傷した友人は、どうやら旅を続行する気である。途中で「輪行バッグ」なるものを買って、自転車をそのバッグへ入れて電車に乗って追いかけるということだ。輪行とは自転車界ではメジャーな用語であるらしいのだが、私はその時初めて耳にした言葉であった。自転車を別の交通手段に積載して、自らもその交通手段を用いて目的地まで行くような意味なのであるが、例えばJRでは裸で自転車を電車に載せるわけにはいかず、分解して袋に入れて載せることが義務付けられている。そのための袋が輪行バッグというわけだ。これは後々使いそうだと思ったので、私の分もバッグを購入してもらうよう友人にはお願いした。

この日は山越えである。東京から沼田までの道程においては、沼田付近に到るまで特に目立つ坂道などなかったのだが、昨日の夕刻ごろ走った沼田周辺では素人には厳しい登り坂と、それに続く長い下り坂が待ち受けていた。快晴の朝、猛暑の中ノロノロと私はペダルを漕ぎ始めたが、脚が思うように回らない。6段変速ギアの中で、昨日までは6速を使っていたような平坦な所でも3か4速しか使えず、3速で登っていたような坂では1速しか使えないような体たらくだ。

しばらく走ると、三国峠という本格的な山道に差し掛かった。山道と言っても自動車用のもので、しっかりと舗装されたものなのだが、歩道はほとんどなく、側道も狭いので自転車にとっては非常に危険な場所だ。1速で少し進み、やがて自転車を降りて押して歩くという行為を繰り返す。そのうち全く自転車にまたがらなくなり、ひたすら押して歩くようになる。周囲は完全に森の中で、携帯電話のアンテナも立たない。太陽は道路を容赦なく照りつける。だんだんと、私は何でこんなことをやっているのだろうか?という気になり、更にはシジフォスの神話であるかのごとく、私はこの不条理をあるがままに受け入れるようになる。私は、下るためにこの厳しい上り坂を歩いている。そして下り坂は、その後また上るために存在しているに過ぎない。その繰り返しなのだ、と。

ふと気がつくと、トンネルの入口が見えてきた。その先は新潟県だと表記もされている。どうやら登るのはここまでということらしいが、いったいどれぐらいの時間が経ったのであろうと思って時計を見ると、まだ正午を過ぎたぐらいのところを針は指していた。永遠にも感じられた時間は、たったの3時間弱だったのである。これには拍子抜けした。ここから先の長い下り道は実に痛快なものであった。まさに上り坂は、下り坂を走るためのものであることが再確認されたわけであるが、その意味合いは先程までのシジフォス的無感情なものではなく、大変前向きなものへと変化を遂げていた。苗場のあたりで友人からの連絡が入り、越後湯沢駅で待っているとのことであった。その後上り坂があり、再び地獄へ落とされたかのようなショックを受けたものの、その坂は大したものではなく、また長い下りが続き、平地へ降りるとすぐそこに越後湯沢駅があった。

越後湯沢から十日町まではまた大きな峠を登って降りる必要があるのだが、私は友人と会い、1も2もなくここから十日町までは輪行しようということになる。電車を使ってシジフォスの輪廻から脱却しようというわけだ。はじめての輪行である。近所のレンタカー事務所からレンチを借り、自転車を分解し袋に詰める。慣れないのもあって30分ほどかかった。この先私たちは電車に乗り、何泊かした十日町でも濃厚な時を過ごしたのだが、自転車旅行としてのハイライトはまさにここに綴った3日間であり、その後の経過は省略する。この旅によって体重が5キロも落ちた私も大変なことは大変だったが、不慮の事故によって怪我まで負った友人のその後の奮闘振りには今でも頭が下がる思いだ。

ここまで、去年の思い出話が長くなってしまったのだが、先日その友人を含む4名で落ち合い、馬鹿な話に興じていたところ、「今年も自転車でどこかへ行こう」ということで盛り上がり、皆で場所を検討しあったのであった。遠出初体験の新潟行きを超えたインパクトのある、非日常体験をするのは容易ではないかもしれないが、一度このような無謀な冒険を行ってしまうと、その再現を夢想したり調査したりするという時間が発生し、それ自体がまた非日常的で楽しいものなのだと今、感じている。

7.09.2007

自転車旅行 -十日町編-

今年もアツい夏が到来した。

内輪話から始まり恐縮なのだが、去年の今頃だろうか、仲間内の一部で「アツい夏」という言葉がキーワードとなった。その先鞭をつけたのはおそらく私が突発的に「自転車で東京から新潟県まで行ってくる」と発表したからである。私が乗っている自転車は近所のスーパーで購入したシボレー製のモトクロス風バイクで、とても遠出に適しているとは言えず、また自転車に責任転嫁するまでもなく、私自身が普段から特に体を鍛えてもいず、自転車を趣味として乗り回しているわけでもなかった。つまり無謀な企みだったのである。

しかし私には幸いにも、この発表を受けて賛同し、共だってくれる友人が存在した。私はその彼とスケジュールをすり合わせつつも、同時に出発することが難しそうな状況であったため、去年の8月某日夜に自宅のある東京を離れた。何故夜に出発したかというと、真夏の日差しを少しでも避けるという狙いと、目的地である新潟県十日町市までの距離やどこに宿泊地を設定するか、私が1日にどの程度の距離を走れるかなどを想定した結果、導き出された判断なのであるが、1日にどれほど動けるかなんてことは、今までに一度も自転車で遠出をしたことがない者にとって計算のたつものではない。結局のところ、直感で決めたわけだ。

初日の夜は3時間程度走り、大宮の先にある街道沿いの漫画喫茶で休止し一夜を明かした。しかし士気が高揚してしまいなかなか寝付けず、ほとんど徹夜に近い状態のまま次の日を迎えた。友人はこの日、千葉県の自宅から私を追いかけてくることになっていた。

2日目、どこまでも平坦(に見えるが、おそらく緩やかな登り傾斜なのであろう)な埼玉県を走る。ほぼ徹夜明けの体にも関わらず快調に時速20キロ平均で飛ばしていく。「マルホランド・ドライブ」という映画で、デビッド・リンチはマルホランド・ドライブと書かれた道路標識がゆっくりと流れていく車窓を何カットか効果的に使用しているのだが、20キロで走る自転車から見た"高崎まで何キロ"なんていう標識の移ろいはまさに、そのカットの臨場感を再現しているかのようだった。自転車を走らせて得る爽快さと、徹夜明けの気だるさ、それにそろそろ気になりだした荷を背負う肩の痛みを複合的に感じながら、昼過ぎには群馬県に入る。気のせいか、急に道が良くなったような印象を受ける。ここまで内地へ来ても、利根川が大河の趣きを残していることに、やはり隅田川や多摩川とは格が違うなと感じ入る。

と、至極順調なサイクリングを遂行していた私に衝撃的な一報が届けられたのは、私が高崎・前橋と過ぎ渋川付近の街道沿いにあった温泉で休憩している最中であった。昼を越え、夕方に差しかかろうという時である。私を追いかけていた友人の自転車が、走行中にいきなり前輪を外し、バランスを失った友人は顔面から道路に突っ込んで負傷したというのだ。電話から聞こえる友人の声は比較的平静なものであると理解したが、その友人は元々、相当に肝の据わった性質なので、怪我の具合やツーリング続行の可能性が今ひとつ判断できない。私は気の利いた台詞を言うこともままならず報告を受け、とりあえず出発。沼田にある温泉施設のカプセルルームに投宿した。

(長くなりましたので続編を設けることにします)