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8.08.2009

群馬探訪その3

あくる日はすっかり晴れたので、まずは伊香保の山を登ることにした。旅館で朝風呂を浴び(これまた湯船を独占)、朝食に美味しい中華粥を頂き、値段を考えれば満点をつけられるこの洋風旅館を出発。ケーブルカーに乗ってあっという間に頂上に辿り着く。やや霧がかっているものの下界の温泉街を見渡すことが出来た。帰りは山道を徒歩で降り、森林浴の気分も味わうことが出来た。


(山頂からの眺め)


この後我々は、同じ群馬県でも少し離れたところにある富岡製糸場を目指すことにした。途中前橋付近で物産センターに立ち寄り、お土産を漁って昼食をとる。富岡に着いたのは14時ごろ、うだるように暑い。


(富岡製糸場)


明治以降の産業史上にたいへん重要な意味合いを持つこの工場跡は、私の予想を超える規模を誇っていた。1987年まで操業していたせいか、保存状態はかなり良好で、説明員のおじいさんが大変熱心に弁を振るってくれたことも相まって、当時の女工さんや役人、お雇いフランス人などの姿に思いを馳せることが出来た。ここは世界遺産登録を目指しているようで、我々が説明を聞いている間にも別のバスツアー団体がどどっと入ってきたりと、史跡としては中々の盛況振りを見せていて、また私の目には、盛況するだけの価値があるものだと思えた。

それにしても暑い。酷暑の最中の社会見学によってすっかりバテた我々は製糸場を出ると、レトロなムードの洒落た喫茶店を発見しそこへ逃げ込んだ。閑散とした店を仕切っていた若者は、少し話してみると最近まで東京の入谷に住み、浅草のイタリア料理店で働いていたということで、同じく最近まで入谷に居を構えていた我々はしばしの間、打ち解けて雑談を交わすことが出来た。

さて、そろそろ帰ろうかという際にその彼が「もし時間があれば、この辺りが昔の城下町の風情を漂わせているので、寄っていくといいですよ」と、地図上の何も特別な印がない地点を指差して言った。こんな場所に本当に城下町などあるのか?と少し疑問を抱きながら、時間に余裕のあった我々はとりあえず、車を彼の指差した、小幡という地へ向かわせた。

10分ほど走ると小幡と思われる地点に着いた。なるほど城の堀のような佇まいの小川に沿って、武家屋敷風の旧家が立ち並んでいる。少し奥へ行くと城跡や和風庭園が整備されていて、長閑な田舎の風景が広がるこの地がかつて本当に城下町であったことを物語っている。


(小幡の和風庭園)


後で調べてわかったことだが、かつて小幡藩という藩地が存在したこの地は、明治の廃藩置県によってわずかの間、小幡県と名を変え、群馬県に編入された。その後の町村制施行によって生まれた小幡村は小幡町と名を変え、現在では甘楽郡甘楽町小幡という位置づけになっている。昔、短い期間ながらも"県"を名乗っていた地名が、今では町村の名にも残されていないというわけである。

我々は夕暮れの中、この儚い歴史を持つ城下町を後にし、帰京した。充実した2日間であった。

8.06.2009

群馬探訪その2

事件の香りこそすれど何も起きなかった榛名湖を後にし、我々は夕刻、予約していた洋風旅館にチェック・インした。伊香保へ投宿するにあたり事前にあれこれ検索していたところ、フレンチのフルコース付き1泊2食で8800円という破格の内容に惹かれここに決定しながらも、余りに安いので何か致命的な欠陥があるのではないかと恐れていたが、概観は新しくコンパクトでシック。ロビーに入ると高級そうなバーカウンターなどが置かれ、オーナーが道楽者であろうことを匂わせた。

部屋に荷を置き、私は早速入湯する。風呂がまた新しく、檜の香りが漂い期待を裏切らないものであった。他に誰もいない浴場を満喫した私は部屋に戻り、レストランへ向かいディナーをいただく。想像していた以上の繊細かつ美味で、それでいて気取ってはいない皿の数々が我々を迎え撃ち、これまた大いに満喫する。ここまで良い条件が続くと心配性が顔を出し、何で安いのかという説明がつかず気味悪くもなってくるが、部屋が多少狭いというのと、伊香保の中心である階段坂からは歩いて10分程度かかるという立地条件に無理矢理安さの理由を見出し、納得する。

ゆったりとした夕食を終えると20時を過ぎていた。温泉地の夜は更けるのが早いが、雨も上がったことだしと、私はパートナーと階段坂の方へ散歩に出掛けた。平日ということもあって、人影はほとんどなく、店も多くは閉まっている。それでもライトアップされた夜の階段坂には風情があって、飽きることはない。元々私が何故伊香保に興味を抱いたかというと、成瀬の「浮雲」や小津の「秋日和」といった映画に出てくる、モノクロの階段坂に深い感銘を受けたからなのであるが、私の目前にある夜の階段坂は、勿論カラーではあるのだけど落ち着いたライティングによって夜の闇が逆に強調され、映画で見た印象に近い雰囲気だ。

(夜の階段坂)


人気のない階段を一番上まで登ると伊香保神社がある。辿り着くとその狭い境内ではいきなり100人ばかりの群集、それも地元の人たちがうろうろと、何かが始まるのを待つようにして時間を潰している。何事かと思い待つこと30分。提灯行列がはじまった。年に1度の地元のお祭りに我々は偶然、遭遇したのであった。観光客を拒絶するでもなく、それでいて宣伝するでもない。大きすぎず小さすぎもない規模の粛々とした提灯行列が、伊香保の階段を降り、小道を練り歩く。その様は美しかった。


(提灯行列)


提灯行列の一行を見届け宿に帰り、もう一風呂浴びたが、今度もまた風呂場を独占することができた。だが好事魔多し。私はここで、宿のマスターキーと車のキーを取り違えて持ってくるという人生初のへまをやらかした。部屋のある本館ではなく、離れに位置する風呂から戻る際、その事実に気付いた私は本館に入ることが出来ず、絶望的な気分でタバコをふかしていた。3本ほど吸った頃だろうか、離れの戸締りに現れた従業員の出入りに便乗して私は、何とかこの窮地を逃れることができた。

(まだ続きます)

8.03.2009

群馬探訪その1

もう一月も前のことになるが、パートナーと共に群馬へ小旅行に出た。梅雨空の下、レンタカーを借りて10時前に東京を出発する。

カーナビゲーションによると、高速道路を使えば目的の伊香保温泉周辺まで3時間もかからず着いてしまうことが判明する。それでは旅情もなかろうということで、ひたすら一般道を北上。それでも丁度お腹の空いた13時半頃、伊香保温泉近くの水沢地区へ到着。まずは"まいたけセンター"という場所を訪れた。

ここでは特産物の舞茸や、舞茸を使った様々な加工品が販売されている。キノコの香りが充満する中でぐるっと商品を見渡していたところ、パートナーが舞茸を買おうとして、販売員のおじさんから色々と説明を受けているのが目にはいったので私も近づいて説明を聞いた。新鮮な舞茸は水で洗ってはならず、そのままソテーなどをするがよろしいとの御託宣であった。確かに洗ってしまっては、独特の芳香や味が失われてしまうであろうと至極納得した。

そして、"日本3大うどん"と呼ばれる(そもそも日本以外にうどんの有名な産地はあるのか?)水沢うどんを食べに、うどん屋が集中している通りに出た。風評通り、森の中を貫いている道路の脇にうどん屋だけが並んでいるという、ちょっと不思議な光景だった。東京で例えれば深大寺周辺とやや似た風景だ。我々は連なるうどん屋の中から「水香苑」というお店を選択、天麩羅と饂飩を頂いた。瑞々しくてコシのある、おいしい饂飩であった。


(水沢観音)


その後付近にある水沢観音を訪問する。坂東三十三箇所の16番札所であるこの寺院は、霧がかった天候との相乗効果で幽玄なるムードを醸し出していた。ここに円空の彫った仏像があると聞き、本堂の中を覗くと割りと平凡な像が鎮座している。この方面に疎い私は「ふむ、円空でもこのような真っ当な像を作るものなのか」などと勝手に結論づけようとしたが、そんなはずがないとばかりにパートナーはぐいぐいと雨中を突き進み、近くにある新しい建物に仏像類がまとめて置かれているのを発見。期間限定のサービスで無料入場することができた我々は、円空のあの独特なる彫刻を眺めることが出来た。

さて、これでまだ15時過ぎである。そこで我々は榛名湖へ向かうことにした。伊香保温泉を通過し山道をくねくねと登る。この山道が車を走らせていて、何とも言えず楽しいのだ。後で気付いたのだが"イニシャルD"という有名な車マンガに登場する秋名という峠の地名はここから採ったものに違いないだろう。マンガに出てくるだけあって、走り屋ではない私でも少し興奮するようなルートである。やがて車は坂を登り切り、しばらくして榛名山と、山に見下ろされた榛名湖が姿を現した。そう大きくもないこの湖の周辺には欧風のプチホテルがぽつぽつと建っていて、アガサ・クリスティやコナン・ドイルの小説に出てきそうな、事件の香りがする風景である。


(榛名山と榛名湖)


平日で雨の中とはいえ、それにしても人のいる気配がまるでしない。我々は車をとあるホテルに止め、喫茶室で休憩することにした。静々と顔を出し、コーヒーを給仕してくれたホテルマンに軽い気持ちで景気の具合などを尋ねると、高速道路が休日千円になり、首都圏の住民は更に遠くへ足を運ぶようになったため客足が遠のいたと、何とも景気の悪い答えを聞いてしまい、静かな湖畔の喫茶室には気まずい空気が流れた。

いたたまれなくなった我々はそそくさと勘定を済まし、伊香保温泉へと戻りチェック・インすることにした。

(思ったより長くなりそうなのでこの話は何部かに分けます)

5.03.2009

自転車日本一周? -3、小田原から沼津-

前のトピックで少し触れたが、年末に新車を購入していた。ブロンプトン(BROMPTON)という英国の折り畳み自転車なのだが、これが実に良い。折り畳み自転車というのはバランスよく作るのが難しそうなものであるが、ブロンプトンについて言えば職人が各部をきちっと作っているのでほとんど破綻がない。折り畳み方や畳んだ後の姿もチャーミングで、購入してからこれまでの数ヶ月間で、折り畳んでいる間に何度も見知らぬ人から声をかけられた程である。

そんな我が愛しの新車と遠出をしたくなり、ゴールデンウィーク中に自転車日本一周?事業を再開することにした。最初は伊豆半島を巡ろうかと思ったが、どうやら伊豆の道は急坂だらけで走りにくそうだ(しかも2日はかかりそう)・・従って伊豆半島は諦め、前回熱海へ行く際に立ち寄った小田原から箱根越えを目指すことにした。これなら1日で終わるだろう。

例によって朝からダラダラと時間を使ったため出発は遅く、折り畳んだ自転車を担いで小田原駅に降り立ったのは午後1時過ぎ。美しい小田原の町並みを過ぎると、緩やかな傾斜がはじまり、これが箱根湯本まで続く。


(箱根湯本付近)

箱根湯本の町並みは連休中ということもあって混雑していた。人と車の隙間を縫って自転車を進ませ、商店街を抜けると歩行者はいなくなり、急斜面と曲がりくねった道が5キロほど続く。ここが前半の難所だろう。汗を滝のように流しつつ自転車を押して1時間近く歩くと、大平台に宮ノ下、小涌谷という拓けた集落が現れてホッとする。宮ノ下で300円の共同浴場を発見した私は、時間を気にしつつも湯の誘惑には勝てず、軽く入浴することにした。

湯を存分に体に浴びせ汗を流し取り、風呂桶に浸かると早速、隣のおじさんが声を掛けてきた。
「自転車でどこから来たの?」
どうも、駐輪するところを見られていたようである。返事をすると、その人はかなり近所に住んでいることが判明した。逆に「よくこちらには来られるんですか?」なんて質問をすると「うん、週2回は来てるよ」という返事が・・優雅なもんだ。


(宮ノ下にある共同浴場)

しかし、この時点で15時を過ぎ、その日のうちに山を越え静岡県に入らなければいけない私は長湯も出来ず、おじさんとの会話もそこそこに再び出発した。腹も空き、昼食処も決めないといけないのだが、ここはちょっと高そうだとか蕎麦はあまり食べる気がしないだとか店の値踏みをしているうちに、小涌谷を過ぎると店が全くない山道になってしまった。後半の難所だろうか。私は少し焦りつつも、黙々と自転車を押し続けた。日は徐々に暮れゆき、16時半近くになった頃、山小屋風の食事処が急に姿を見せた。是非もなく入店する私。「たきのや」というこの店は定食のみならず、ちょっと凝った料理もレパートリーに入れつつも値段は観光地にしては安い定食屋並みのレベルを保ち、雰囲気もこだわっているという感じはしないが味があるという、押し付けがましさのない感じの良い店であった。ゴマラーメンと豚丼が旨かった。


(たきのやさん)

さて、遅い昼食を終え再び山越えに挑むと、私と同じように自転車を押して歩く人を100mおきぐらいの間隔で見かけた。ここまでの道中にも何人か見かけ、追い越したり追い越されたり、挨拶したりしていたのだが、"たきのや"から頂上までの区間には固まって何台もの自転車と人が最後の難所に挑んでいた。皆一様に疲労し切っている中、休憩したばかりで体力が回復した私は一人、また一人と追い抜いていく。高校生風の若者もいれば、初老のおじさんもいた。ジャック・バウアー似の白人もいた。このジャック・バウアー氏は風貌や高級そうな自転車のわりには、てんで大したことがなくて、比較的平らなところでもずっと自転車に乗ることなく押し続けていた。完全に力を使い果たしていたのだろう。

17時を大きく過ぎ、ようやく国道1号線の最高地点を越える。ここから数分の間ずっと下り坂で天国にいるかのような気分を味わうと、その先には夕焼けを反射する芦ノ湖が悠然と佇んでいた。美しい。ここまで来ると、もうゴールしたような感覚に襲われ、湖畔でしばしの間、足を伸ばして呆然と日没まで大自然を眺めていた。いよいよ日が沈み、間もなく残照もなくなって暗くなるというところで私は重くなった腰を上げ、自転車を再出発させると、のろのろと自転車を走らせるジャック・バウアー氏が私の休憩地点に到着し、これから休憩するという構えを見せていた。どれだけ遅いんだこの人は・・


(国道1号線最高地点)

後は静岡側へ下っていくだけである。芦ノ湖からは10分ほど登り、後は飽きるぐらいに延々と下り坂が続いている。私の愛車は下りの間、上りで抜いていった人たちに次々と抜かれていった(ジャック氏は見かけなかったが)。これはタイヤの口径が小さいために仕方がない。それでも時速40km近くのスピードで山を下っていくとすぐに静岡県に入り、三島市、そして沼津市へあっという間に到着した。ここで今回のチャレンジは終了。沼津駅前の寿司屋で、達成感と新鮮なネタの寿司を肴にうまいビールを頂き、帰宅した。

深夜、良い機嫌で帰宅した私を待ち受けていたのは、忌野清志郎の訃報であった。一度見たそのステージも忘れられないものだが、同時に以前、友人がカラオケで「僕の好きな先生」をがなりたてたその強烈な歌声を思い出し、先ほどからそっちの方が頭の中を渦巻いて今、大変困っている。

11.28.2008

三崎のマグロ

先日、介護に追われるパートナーにつかの間の休日が訪れたので、連れ立って三浦半島へ小旅行に出掛けた。かの半島は神奈川生まれの神奈川育ちである私にとっては愛すべき土地であり、大概の見所へは足を運んでいると思うのだが、今回は私も初めて訪れる、なにかと評判の高い横須賀美術館をまずは目的地と設定。澄んだ秋空の下、車を走らせた。

横須賀の市街地を抜け、観音崎の海沿いを行くと、コンパクトな現代建築が姿を現す。大変恵まれた立地条件であると言えよう。既に14時近くだということもあって、空腹感を覚えた我々は入館する前に付随するイタリアンレストランへと向かった。混んではいたが、10分程度の待ち時間で席を確保することが出来た。東京にある有名店が経営しているらしいこのレストラン。当然、期待は膨らむのだが、出てきたものはやや残念なものであった。まず"地魚"と銘打ったメインディッシュが鮭っていうのは、仮に地元の市場で仕入れたのだとしても期待外れというものだ。サラダも、味付けは悪くないのだがやや素材の新鮮味に欠けるものだった。ここで私は小旅行の出鼻を少しくじかれたような気になったが、かと言って酷い料理というわけでもなかったので「まあ、こんなもんだよね」なんていう高飛車な感想を抱きながら店を出て、美術館へ入る。


(横須賀美術館外観)

ここでは常設展示の他に、「日本彫刻の近代」という企画展が開かれていた。仏像や人形といった立体造形物の時代から、明治期に西洋から塑造技法と美術思想が輸入され、伝統的なものと交じり合って独特の歴史を重ねていったという流れが、オーソドックスに示され、私のような素人には非常に判り易く楽しむことができた。時代によって人物像の鼻が高くなったり、低くなったりする過程が面白い。おそらくこれは、西洋の直接的な影響を受けた後に、そこを離れ日本独自の、あるいは作家個々の表現によるものを目指したという過程を示しているのだと類推するが、作家主義というもの自体がやはり西洋からの影響なのではないかとも思う。明治から昭和中期に至る日本彫刻の近代という流れは、作家たちの大いなる苦悩の下で育まれたグローバルスタンダードへの到達の道筋であり、また同時にローカルな伝統工芸への美術的な解釈を含む再評価の途上であったのだろう。

とまあ、企画展の観覧にはすっかり満足した私であるが、巷では高い評価を得ている美術館建築自体には少し不満を覚えた。外見等のデザインはさておき、私が美術館に求める"回廊性"とも言うべきものが希薄なのだ。企画展を見て、常設展を見て、屋上に登り景色を見て・・などとする過程において、同じ地点を何度も通過するという構成にはいただけないものがあると感じてしまう。これは企画展中心の箱モノを意図してフレキシビリティーを優先した結果なのかもしれず、ある意味現代的な結末なのかもしれないが、何にせよ私の趣味とは残念ながらマッチせず、同行のパートナーも同じような意見であったため、揃って満足するに至らなかった。


(横須賀美術館内部、ここを幾度となく通る)

このまま小旅行を終えては詰まらないだろうと思いつつ再び車のハンドルを握ると、パートナーが「三崎でマグロを食べたい」と言い出した。遅い昼食からまだそれほど時間も経過していず少し戸惑ったが、何と言ってもあそこのマグロは美味いので反対することもないだろうと、私はハンドルを右に切り、浦賀、三浦海岸を経て三崎へと向かった。秋空は暮れるのが早く、もう暗くなっている。途中ほぼ太陽が沈み、乏しい光の中で通過した、一面に広がる三浦大根畑の美しさがやけに印象に残った。

渋滞などもあって、三崎に着いたのは夜の7時前だ。我々はいそいそと市場へ赴き、閉店時間直前の魚屋でお土産を物色し、大きくて安いアジの開きを買い込んだ。あまり滞在せぬうちに市場の店は全て閉まってしまい、いよいよ外に出て、マグロを味わう店を選ぶ時が来た。辺りにはマグロを食わせる店が10件以上ずらっと構えている。ここで店を間違えたら、1日が台無しである。

私は嗅覚を働かせ、裏路地に佇む一軒の老舗を選んだ。「たちばな本館」というこの店は、あまりやる気のない接客でカウンターには客がおらず、やや不安を覚えたものの、導かれた奥座敷のふすまを開けると大部屋にほぼ満員の盛況振りであった。座った机の斜向かいの客席には、巨大なマグロのカマが焼かれてドカンと置かれている。私も同じものを猛烈に食べたくなったが、要予約の上に高価で、しかも5~6人前の量と聞いて断念。赤身と中トロの乗った丼を注文した。これが実に美味かった。私が今までに食べたマグロの刺身で1番美味かったかもしれない。これより上等なものを欲せば、本当に高級な寿司屋か料亭に行って大枚をはたかないと得られないだろう。が、ここなら3000円もかからない。パートナーが注文した定食に乗っかっていたマグロの唐揚げや煮物も大変良かった。メニューにはマグロのハンバーグやステーキなど、気になるものが幾つもあり、絶対にまた来たいと思わせる店であった。

かようにして1日は、建築や彫刻や風景を忘却の彼方へと追いやり、マグロの味に染められたのだ。

11.20.2008

自転車日本一周? -2、東京から袖ヶ浦-

ALPSLABというサイトのrouteというサービスがなかなか面白い。地図上で基点と終点までのルートをクリックしたりドラッグしたりして決めると、基点から終点までの動きが動画になって表示され、また距離や標高もわかるというようなサービスなのだが、1つ重大な欠陥がある。とにかく重いのだ。深夜にならないと内容を更新したり、閲覧することができない。モノが面白いだけに何とかならないのかねえ?

とはいえ、私もこのサービスを用いて自転車旅の記録を残すことにしました。気が向いた方は見てやってください(ただし深夜に)。

ALPSLAB routeで表示する今回のルートはこちら↓

東京-袖ヶ浦


ところで、東京から熱海へ自転車で走り「何年かかけて日本一周でもしてみようかしらん」などと想起した後、鉄は熱い内に打てとばかりに次の旅を企んでいたものの、予定がたたぬうちにとりあえず11月3日、日帰りで千葉方面へ行けるところまで行くことにした。例によって発走は遅れに遅れ、午後1時半にようやく出発。いきなりカメラを忘れたことに気付くが、戻るのも面倒なのでそのまま環状7号線を進む。

北区・足立区・葛飾区と、ほとんど土地勘のない地区を行くが、そこには東京のある典型とも言うような町並みが続いていた。色の少ない、四角い建物が林立し、緑に乏しい景色の中をぐいぐいと走る。時折現れる隅田川や荒川、中川などの水辺を行き、橋を超える時だけは心が安らぐものである。やがて千葉県に入り、国道14号線を市川や船橋と所を変えて走るが、大して景色が変わることなく、私は淡々と前へ進んだ。

景色が急変したのは千葉港の辺りからだ。11月の短い日は暮れ、右を見ればコンビナート、左を見れば公園か林というロケーションが続く。街灯は極端に少なく非常に暗いので、安物のライトしか持ち合わせない私はほとんど足元が見えない中を慎重に進むしかなかった。体力も既にかなり消耗していたが、それよりも暗さが精神力を侵食しているのが堪える。6時過ぎだったか、左に曲がると姉ヶ崎という標識が見えたので、私は迷わず姉ヶ崎駅へと向かった。もう限界である。

駅近くで光と空腹の解消を求めて、ケンタッキーチキンへと滑り込むと、生き返る思いがした(多少大げさだが)。チキンをほおばり、ここまでの道程を地図片手にぼんやりと追っているうちに、もう10kmぐらい走ってみようかという気になった。すっかりと日は暮れているものの、まだ7時にもなっていないのである。私は腰を上げ、再び自転車にまたがり、線路沿いの田舎道を2駅分進んで7時半に袖ヶ浦駅に到着した。

しかしホッとしたのもつかの間、時刻表を見ると、次の快速電車まで14分しかない・・私はダメもとで自転車の解体に全力を注いだ。前輪を外し、サドルを抜いたりして無理やり袋に詰め込むとそれを抱えてホームへダッシュ。息を切らせながら時計を見ると、なんと今まで30分近くかけていた輪行作業を9分で終えていた。達成感と共に缶コーヒーを味わっていると「まもなく電車が参る」というアナウンスが聞こえた。しかしそこで私は、ホッとしたのもつかの間という状況をまた体験する。

自転車の解体や組み立てに用いるペンチを、駅前の解体した場所に忘れてきたことに気付いたのだ。私はかなり情けない思いを抱きながら再びダッシュ。階段を上り降り、改札をくぐって置き去りにされていたペンチを握ってまた階段を上り降りると、電車は到着していた。重い輪行袋を持ち上げてなんとか電車へ乗り込むと、他に誰も乗っていない客車の中で私はへたり込んだ。いやはや、自転車を漕いだ事よりも最後のドタバタ劇が印象に残る旅であった。


そして次週、友人たちから「サイクルモードという自転車の展示会を見に行かないか?」という誘いがあった。重い自転車を持ち歩いたり、解体や組み立てを行う輪行という所業をなんとか楽にできないものかと、前週の体験によって考え始めていた私は、その誘いに乗っかって幕張メッセまで足を運ぶことにした。

事前知識なしで訪れたこのイベントは、想像を大きく超えたスケールで催されていた。メッセの巨大な空間に何百という自転車関連業者が所狭しとブースを並べ、会場の脇には試走コースが数箇所設置されていた。数多くの来客は、昨今の自転車ブームを物語っていた。驚いたことに、ちょっと名の知れたメーカーのブースで試走を申し込むと、数時間待ちだったり終了していたりするのだ。入場料を払って自転車売り場に来てるのに、試乗もできないってどういうこと?と憤慨を覚え、スタイリッシュに過ぎてスノッブな感のある自転車ブームというやつに唾を吐きたくなる気分ではあったが、私はその唾をぐっと飲み込み、会場を黙々と歩いていると、大手折り畳み自転車メーカーのブースを発見した。

(サイクルモードの光景)

折り畳みか・・輪行は楽そうだが、走行性能はどうかなと、試走を待つ行列の最後尾に並ぶ。10分後にそのメーカーで最軽量の自転車が私に回ってきた。約8kg、実に軽い。コースで走ってみると、スピードも随分と出る。立ち漕ぎなど負荷をかける動きをした場合の安定性に不安は残るものの、ほぼ申し分ない性能だ。こいつはいいなあと思い、ブースへ戻って値段を見てまた驚いた。20万弱、今乗ってるやつの約9倍!

いくらなんでも、高いよね?でもいいなあ、高級折り畳み自転車。こうして私の新車購入計画は、再び迷走期へと突入したのであった。

10.07.2008

自転車日本一周? -1、東京から熱海-

去年の今頃だったと思うが、私は東京から実家のある藤沢までボロ自転車を漕いで帰った。その前には新潟県の十日町まで行ったこともあり、その後も銚子へと向かったことがある。こうやって書くと実にたくましく、遠距離を乗り回している自転車野郎のような印象を与えてしまいそうだが、実のところそれ以外には遠距離自転車旅をしたことがないし、メンテナンス等の知識もほとんどない。

そんな私だが、普段からたしなんでいるフットサルやサッカーの場において、最近めっきりと運動量が落ちているのをぼんやりと自覚していた。元々大したテクニックなどを持たない私だが、多少は優れていると思っていた体力に陰りを見せたとあってはプレイヤーとして致命傷である。これはいかんな・・と思っていた矢先に、フットサルのない週末が訪れたので、私はふと思い立って、トレーニングがてらに1年ぶりで実家へと自転車を走らせることにした。2008年10月4日、夕方4時過ぎに板橋の家を出発。

まずは山手通りを渋谷付近まで南下。この通りは相変わらず工事と区画整理を続けているが、おかげで元車道だったような区画が、暫定的に歩道化していて走りやすい。ロードレーサーでもクロスバイクでもない、なんちゃってモトクロス・タイプの我が愛車は、ママチャリに毛の生えたような性能しか持ち合わせていないが、その"毛の生えた"程度のアドバンテージは悪路の走行性にあって、ちょっと混んでいるような都会で車道と歩道を気ままにチェンジしながら道筋を選んでいく分には都合がいい。


(延々と工事を続ける山手通り、車道に見える中央の道は歩道なんです)

国道246号線を西に走り、多摩川を渡って神奈川県に入ると、既に日は落ちて夜道となっていた。一年前はこのまま246号線を走り続けたのだが今回は多摩川沿いのサイクリングロードを下ることにする。これはなかなか爽快な体験であった。暗がりの中、時折すれ違うサイクリング愛好家たちに一方的な同胞感を抱いたりしながら丸子橋のあたりで、泣く泣く一般道へ。そこからは綱島街道、そして菊名付近から環状2号を通り、東戸塚へと進む。比較的走りやすい道筋ではあったが、環状2号は細かなアップダウンが続き閉口した。

東戸塚からは国道1号を、既にへばった体にムチを入れて走り、なんとか10時前に実家へと到着。ネコと祖母が出迎えてくれたが、母親の姿がない。聞けば「2泊3日で甲州街道をウォーキングしている」とのことだった。母もまた、冒険していたのね・・

ところで、例えばgoogleなどで"自転車 日本一周"などと検索してみると、いろんな人の旅行記がヒットする。私はそういった旅行記を読むのが好きで、よく"世界中の地名"と"自転車"といったキーワードを組み合わせて検索し、旅人の足跡を眺めては妄想に耽ったりするのだが、今回自転車を漕ぎながら「自分にも日本一周ができるのではないか?一気にやるのはいろんな意味で到底無理な話だとしても、休日に各地をちょこちょこと走って、その合計でぐるりと日本中を回るというのは可能だろう」などと考えてしまった。いわば、新たなライフワークというわけだ。一気に心が盛り上がってきた馬鹿な私は、とりあえず次の日にできるところまで西へ向かうことにした。

10月5日、いきなり寝坊した私は11時過ぎにようやく藤沢の実家を出発。海沿いの国道134号を少し走ったところで、更に海岸線沿いに自転車道があるのを発見。やがてこの道を走っていて、ある事に気付く。

「この道、中学校のマラソン大会で走った道じゃないか!」
そう。この道は、いつか来た道だった。ちなみにそのマラソン大会で私は9位入賞し賞状を貰った。あの頃は体力、あったなあ・・私と同じように学業成績が低迷し、そのせいかアイデンティティーをマラソンで優勝することに求めていた(そして、見事に優勝していた)K君は今、どうしているのだろうか?


(茅ヶ崎の自転車道、車両止めが烏帽子岩の形をしています)

自転車道は茅ヶ崎で終わり、平塚を越え、大磯へ。この辺りで134号は1号と合流する。1号を少し行ったところで私は、ふと脇に"太平洋自転車道入口"と書かれた看板があるのを目にした。反射的に左へ曲がり、その自転車道へと突入。そこは、有料道路・西湘バイパスの脇を通るルートだった。まさに海岸線沿いに伸びていた藤沢・茅ヶ崎付近の自転車道ほどには気持ちのいい道というわけでないけれど、信号もないし、自転車道なので走りやすい。こんな道が太平洋沿いに伸びていれば、日本一周も案外楽だろうなあ。しかし2キロほど走ったところで、その道(と私の楽観)はプツッと途切れる。続きを探したが見当たらない。なんとも中途半端な道路なのであった。


(短くも儚い太平洋自転車道、ちょっと名前負けでは?)

気を取り直して再び1号線を走る。小田原の市街が近づいてくると、この街道沿いも旧家に蔵といった風情のある景色が見えてくる。市街地に建つ小田原城への到着時刻は、午後1時半ぐらいだったろうか。ここまで2時間少々の道程だったが、起伏もなく、道も走りやすく、景色も良くと三拍子揃った大満足のサイクリング内容だ。私は一旦自転車を降りて、城内の公園を散策した。ここは幼少の頃、祖父に連れられて来た記憶がおぼろげに存在するのだが、ほとんどはじめてと言ってもいい場所だ。園内ではニホンザルやゾウが飼われていた。このゾウは非常にチャーミングなゾウだった。


(小田原のゾウ、優しい眼をしている)

一通り園内を散策し、さてそろそろ昼食でもと思ったが、私は店を探しつつ、とりあえず熱海方面へと出発することにした。この時点で伊豆方面には行かず、箱根へと向かう選択肢もあったのだが、一応日本一周を視野に入れている以上、伊豆半島ぐらい大きな半島を無視するわけにもいくまい。それに箱根越えは辛そうだし、伊豆は楽しそうだ。しかしその選択はあまり正しくはなかったのかもしれない。小田原市街を出て国道135号に出ると、ほどなくして歩道はなくなり、側道もほとんど存在しないという自動車のことしか考えてないような道が続いていた。おまけに交通量も多い。わたしはちょっとビビりながらも、ゆっくりと足を進めた。根府川の手前に「浜屋」という食事処があり、ここで昼食をいただくことにした。もう3時前である。この店の2階には屋外デッキがあり、相模湾の景色を堪能しながら私は1500円の刺身定食と、いわしバーグなる特産品を味わった。このいわしバーグは美味で、帰りがけにもお土産として購入した。愛想のいい店の若者に「自転車ですよね?今日はどちらまでですか?」と聞かれたので、あまり終着点のことを考えていなかった私は少し考えて「熱海までで、その後電車で東京に帰ります」と答えた。この瞬間に今日の目的地が決定した。


(浜屋から見た135号、側道がほとんどなく自転車には危険)

3時過ぎに浜屋を出ると、程なくして有料道路・真鶴道路と135号の分岐が出現した。自転車の私は当然135号の方へと進んだのだが、その行く手には延々と上り坂が続いていた。地図を見るとほぼ海沿いを進むこの道だが、この辺りは陸地がすぐ崖になっていて、僅かな平地は真鶴道路が占めているため坂を上っていかないと熱海には到達できないのだ。私はヒーヒー言いながら上り坂を漕ぎ、やがて自転車を降りて押し、頂上からはパラダイスのような下り坂を飛ばし、そしてまた真鶴から上り坂を漕ぎ、自転車を押し、2度目の頂上から2ndパラダイスを堪能した。辺りの崖地はずっと、みかん畑だったと思うが、もう景色を楽しんでいる余裕はなかった。2度目の幸福な時間を終えると、道路標識にやおら"熱海駅"という表示が出てきて、あっさりと駅に到着した。夕方の5時ごろであった。

伊豆の地形は想像する限り、この小田原から熱海までのようなものの延長であろう。日本一周を夢想した私は早くも、行く先の険しさにげんなりとしながらも、去年から検討し続けてきた新車の購入について思いを巡らせながら、帰路についた。

続く(のか?)

ALPSLAB routeで表示する今回のルートはこちら↓

東京-藤沢
藤沢-熱海

3.04.2008

京都・大阪旅行 -京都の朝-

夜行バスに揺られ眠れぬ夜を過ごした私は、6時に京都駅八条口へ到着した。2月の京都では、この時間はまだ夜が明けたばかりの薄暗く、どんよりとした灰色が空を覆っていた。観光を開始するにも寺社の類は9時まで開門を待たねばならない。私は小腹も空いていたので、とりあえず7時にオープンするはずであるかの有名なイノダコーヒーの本店を目指して動き出すことにした。

数年前、私は日本人とコーヒーの関わりについてのテレビ番組を企画したことがあった。その辺りに詳しい知人の先生に出演をお願いし、紆余曲折を経て結局はラジオ番組としてこの試みは具現化されたのであるが、今ここでその当時、先生から教わったイノダコーヒーについてのウンチクを語ろうとしても、どうしても細部を思い出すことが出来ない。断片的に覚えているのは、歴史あるこの本店が朝早くから開いているのは、市場の近くに立地していたためで、また、特に断りを入れなければコーヒーにミルクと砂糖を入れてくるというサービスの由来は、市場で働く忙しい人々の、さっと飲んでさっと出て行くようなスタイルに合わせ、お客さんの手間を省略したためである、ということだ(と、ここまで書いてしまったところで大変恐縮だが、悲しいことにこの覚えているはずのエピソードですら確かであるという自信がない)。

かくして、コーヒーについての知識は未だほとんど無きに等しい私であるが、以前京都を訪れた際、在住の友人に教わったこの喫茶店の得がたい魅力ははっきりと記憶している。四条烏丸駅で地下鉄を降りた私は、まだ開店まで時間の余裕があったので、ぶらぶらと寄り道しながら歩いた。時折不意に強烈で、それでいて上品な鰹出汁の匂いが私の鼻をつき、やがて消える。そんな時に振り返ると必ず料亭の看板が目に入り、こんなにも朝早くから仕込みを行っているのかと感心する。やがて私は偶然、錦市場の通りに差し掛かる。アーケードの中に入り歩き出すと、暗がりの中、どの店もまださすがに営業を開始してはいないが、何やら店の奥に人がいてごそごそと蠢いているのがわかる。通りにいるのは私一人で、始業前の厳かな錦市場の雰囲気を独占しているかのような、何とも贅沢な気分になる。これが京都の朝だ!

7時を過ぎ、私はイノダコーヒー本店に辿り着き、暖簾をくぐった。既に常連と思わしき数名の客がテーブルについて、株価やらの時事について論議を交わしていた。席に着き、メニューを見て注文しようと顔を上げると、ベテランの(私は数年前に一度ここへ来ただけなのにも関わらず、その顔を覚えていた)ウェイター氏が見計らった絶妙のタイミングで、さりとて見計らったという緊張を私に伝えることなく、オーダーを受けに来た。完璧な給仕である。その後、美味なるハムサンドと、酸味が程よく入ったコーヒーをゆっくりと堪能して私は、この旅行の一番の目的としていた醍醐寺へと向かうことにした。

醍醐寺は京都の中心からは離れているが、その最寄り駅までは地下鉄で辿り着くことが出来る。醍醐の駅を降りると、時計は8時30分を指していた。京都に着いてからここまでの2時間半は、やけに濃密な時間であった。ゆっくりと10分ほど歩いて下醍醐に到着する。世界遺産に指定されているこの醍醐寺は、山の裾野に伽藍を配置した"下醍醐"と、そこから1時間ほど、500メートルほど山を登った場所に位置する"上醍醐"に分かれている。私は寝不足でヘロヘロなのにも関わらず、上醍醐まで山登りする心積もりであった。まずは下醍醐(いわゆる醍醐寺)を見学しようと思い、9時開門のところを8時45分にチケットカウンターへ到着し、既にスタンバイしていた捥ぎりのおばちゃんに「少し早いけど、入れてくれないか?」と頼んだところ、おばちゃんはいかにも京都らしい(これはアウトサイダーから見た京都人への偏見なのかもしれないが)、もったいぶって嫌味の入った、それでいて愛情もある言い回しで、「本当はだめだけど、特別に許してあげる」という内容を伝えてくれた。

下醍醐は期待通りの威厳を備えた場所であった。京都府に現存する最古の建物だと言われる五重塔が伽藍全体に風格の楔を入れている。講堂からは朝早くから、真言密教の呪文めいたお経を、大勢のお坊さんが輪唱している声が聞こえる。しかし私はこの仏閣を堪能しながらも、心は早や、この後に登るであろう醍醐の山に向けられていた。どんなに素晴らしい光景が私を待ち受けているのだろうか?また、前夜一睡も出来ずにいた私の体力は果たして登山に耐えられるのだろうか?1時間ばかりを醍醐寺の探索に費やした後、私の足はのろのろと、上醍醐への登山路へと向けられた。

そこは、鬱蒼とした山林であった。既に体力が限界近くに達していた私は、無理をせずゆっくりと足を運ぶ。時折後ろから、私より2回りは年上であろう、そしてこの山に何度も足を運んでいるのであろうベテランの人々が軽快な足取りで私を抜き去っていく。ベテランの人々は身なりもちゃんとしたハイキング仕様で、ロングコートにカンペールの現代的な靴で身を包んだ私の姿は、全くをもってその場にそぐわなかった。それでも一歩一歩、地を噛み締めて私は前に進んだ。中腹辺りからは雪が積もっていて、私の行程を更に遅らせた。疲れと幻想的な景色の最中、ほぼ無心になって歩み続けた先には、不意を突くような形で山寺のレイアウトが顔を覗かせた。こんな山奥に、立派な寺院建築物の数々が整然と、自然にマッチして配置されている。私はこの奇跡的な光景に胸を打たれ、しばし呆然とした。本当に、呆然としてしまったのである。ふと我にかえり時計を見やると、徒歩60分と案内されていた登山路に私は75分を費やし、それでも時計の針は11時を回ったところであった。こんなに贅沢な朝の、午前の時を過ごすことは、又とないのかも知れぬと私は感慨に耽ったのである。

2.27.2008

京都・大阪旅行 -夜行バス編-

ぽっかりとスケジュールに空きの出来た二月の中旬、私は何処かへ行こうと思い遠くはスペインから近くは伊香保温泉までの、幾つかの候補地から迷った挙句、数年ぶりに京都へ行くことにした。かの地をちゃんと訪れるのは3度目のことである。最初は中学生時の修学旅行で、新幹線で行った記憶がある。2度目は友人と共に、車で訪れた。3度目の今回は一人で夜行バスによる往復である。回を重ねる毎に交通手段のレベルが落ちているのは何故だろう(次回は自転車だったりするのだろうか)?それはさておき、今回は初体験の夜行都市間バス体験について書こうと思う。

某日深夜、指定された西新宿の高層ビル街へ行くと、そこでは百名を優に越える人々が寒さに身を震わせながらバスの到着を待ち受けていた。旅行代理店の社員数名が拡声器を用いて、バスの到着やチェックインの方法などを絶え間なく知らせている。その中、次々と大型のバスが到着し、客を乗せて去っていくのであるが、行き先は東北方面や新潟方面など様々で、私が向かう関西方面だけでもかなりの台数が毎日運行されているようだ。バスの種類も内装によって数タイプに分けられ、スタンダードな一列に2×2名乗車のものから、一列3人掛けタイプや座席がベッドのようになる豪華版まで用意されている。それぞれ料金は異なるが、豪華版のものでも新幹線よりは安い。この価格設定が夜行バスの何よりの魅力であろう。私はその中でも最も安いスタンダードタイプのチケットを購入していた。京都まで片道、4200円である。

安さを求めてか、やはり客層は若者が圧倒的であった。そのほとんどが男女のカップルである。出張目的のサラリーマンや、私のような一人旅風の者はほとんど見かけなかったが、やがて私が搭乗するバスが到着し、指定された席に座ると、私の隣席は齢50を越えた(推定)サラリーマンであった。12時ごろ、バスは発車した。首都高から東名高速をバスは走る。私は眠れぬまま、さりとて明かりもないので本を読むなどして時間を潰せぬまま、ぼんやりと車窓を眺めていた。1時半ごろ足柄サービスエリアでバスは止まった。15分のトイレ休憩後、バスは再び西へと走り出す。私にとっては、ここからが地獄であった。

眠れないのだ。カーテンが閉められ、車窓を見ることもできなくなった。隣のサラリーマンは軽くイビキをかきながら、体をこちらに伸ばしてくる。バスは止まらず、ひたすら走る。私は5時半に草津サービスエリアでバスが止まるまでの4時間、物思いにふけるしかなかった。それにしても4時間休憩なしで運転し続けるドライバーの集中力には驚くばかりだ。バスは6時過ぎに京都駅八条口へ到着し、私はようやく解放された。

私は京都と大阪に滞在した3日間に、既に支払いを済ませている帰りのバスに乗るのを諦めて、新幹線で戻ろうかと何度か考えたものの、やはり余分な費用をかけようと決意するには至らず、再び京都駅八条口へ舞い戻った。復路は2階建てのバスだった。見た目は良いが、居住性は往路のものより更に悪い。今度の隣人は私のように、一人旅を終えたのであろう若い女性だったが、その女性が搭乗後すぐ眠りに落ちてしまうのをうらやましく思いながら、私は再び地獄を味わう。日中京都の街中を歩き詰めて疲れ果てていた私は、眠れないバスの中でふと足を組んだ刹那、腿の筋肉がつってしまい、静寂の中、声にならない悲鳴をあげたのだった。

11.26.2007

自転車旅行 -銚子編-

いつの間にやら木枯らしの吹く季節となった。アツい夏の間、結局どこへも冒険に出向くことなく日々を過ごした私の元に、秋も深まった頃合いで友人から「自転車で銚子まで行かないか」というオファーが届いた。

今回は十日町への旅に同行してもらったT君を含む、A君、O君との四人旅である。しかし、四人で併走する姿なども思い浮かべながら臨んだ"打ち合わせ"と称する飲み会(於:アントニオ猪木酒場)の中で、元よりいい加減なこのメンバーでは何も決まることもなく、ただ現地集合ということだけが定められた。従って、各人がルートや出発時間をまちまちに計画立てることになったわけだが、私は一応朝8時出発で千葉県中央部を通っていくということに決めた。

しかし物事は予定通りには運ばないものである。アントニオ猪木氏は「一寸先はハプニング」などという造語をよく用いているが、私の身にも前夜にあるハプニングが降臨し、眠れなくなってしまった。朝7時にセットした目覚まし時計が鳴り、それを一睡もできずに止める。そしてその直後に睡魔が襲い、起きたら10時を過ぎていた。呆然としているところにA君からの電話が入った。「今どこら辺?」と聞かれ、寝坊してまだ在宅している旨を伝えた。彼は電車に自転車を乗せ取手に向かい、下車して既に走り始めているということだった。

天候は良く、ツーリングにはもってこいの日だ。しかし睡眠不足といきなりの予定変更によって、私のモチベーションは大きく下がってしまった。ゆっくりと朝食を食べ、コーヒーをおかわりしているうちに正午を過ぎる。他のメンバーはどうしているのかと思いO君の動向に探りを入れると、彼もまたモチベーションが低下しているようでまだ家にいるということがわかる。ここで相乗効果が発生し、益々私の足取りは重くなる。こうしてアントニオ氏の言うような「迷わず行けよ、行けばわかるさ」というわけにはいかなくなり、迷い抜いた挙句、結局1時頃ようやくスタートすることになった。

明治通りから国道6号を走って松戸に至る。道は自動車で混み合い、側道も狭く危険を感じ主に歩道を走ったため、思うように距離が稼げず疲労も普段より蓄積する。6号線から逸れて松戸市内を抜け、北総開発鉄道沿いの国道に入るとようやく走り易くなり、スピードを上げてぐいぐいと進む。だが既に3時を過ぎ、早くも夕暮れ時に差し掛かっている。銚子まで完走するのは無理だということはスタートが遅れた時点でわかっていたが、そろそろ目的地を定めないといけない。私は白井駅付近で休憩がてらにラーメンをすすりながら地図を広げ、成田という選択肢と利根川沿いまで行くという選択肢の間で悩んだ。成田であれば、特急電車も停まるだろうし自転車を乗り捨てた後銚子まで行くルートに広がりを持たせられる、しかし利根川沿いの自転車道を少しでも走ってみたい。私は少し不安を抱きながらも、利根川沿いまで北上することを選んだ。まあ、行けばわかるさ。

北総開発鉄道沿いの道に別れを告げ、北上ルートを辿って利根川へ。日は沈み、時計の針は5時を回っていた。満月を進行方向に仰ぎながら、暗がりの土手上にある自転車道に合流する。左手には河口まで70キロ近くもあるのに、早くも雄大な佇まいを誇示する利根の流れが蛇行している。幻想的な光景であった。私は20キロほど先にある滑川という駅を終着の地と定め、ラストスパートを開始した。T君から連絡があり、A君と共に銚子に着いているということと、O君の所在が不明であるということを聞いた。

6時過ぎ、滑川駅着。ちょうど5時間のサイクリングだった。ここから銚子駅までは電車で1時間ぐらいのはずである。が、時刻表を見ると、なんと次の電車まで50分待たなくてはならないことが判明した。そこで待ち時間を使って、私はO君の所在を確かめることにした。携帯電話からメールを送ると程なくして返事が来た。彼は私より更に2時間も迷っていたようで、3時にようやく出発。東京から千葉駅まで自転車を漕いで、そこから電車で銚子に向かっているとのことであった。その後長いこと待たされてようやく滑河駅に到着した銚子行きの電車には、偶然そのO君が乗っていて、二人とも同じ電車で銚子へ向かうという、なんともしまらない顛末で往路を終えたのである。

(続く)

10.06.2007

植村直己について

諸事情が重なり、台東区から板橋区へと引っ越すことになった。実は数ヶ月前から両区を行ったり来たりしているのだが、年末には台東区の家を引き払う予定だ。

引越し先から程近いところにある商店街を歩いていると、古い構えの豆腐屋があった。そこは1984年にマッキンリーで行方不明となった植村直己にゆかりのある店だという噂を聞いて、植村のことを調べてみると、彼は最後に消息を絶つまでの10数年間を板橋区民として過ごしたということがわかった(最も、半分ぐらいは海外などに遠征していたようだが)。また、植村冒険館という施設が区内に存在することも判明したので、暇をみて行ってみようと思い立った。

それから、なかなかその日程を組むこともできずに月日は流れ行き、その間に私は植村に関する著作を読みふけったりもして、益々彼への憧憬を膨らませながら過ごしたわけなのであるが、ついに先日、暇を見つけて植村冒険館を訪れることができたのである。

板橋区の新居から自転車で出発。そこから冒険館までの道程は偶然にも、半年前まで通っていた自動車教習所へ行くバスのルートと一致していた。懐かしい風景を堪能しながら私は、植村の魅力について思いを募らせ、それを整理しながらペダルを漕いだ。

私が惹かれた植村の魅力を一言で表現すれば、「単独行」という彼のこだわりに尽きるのである。植村はまだ無名だった若い頃にエベレスト日本人初登頂を目指す一隊に加わり、そのずば抜けた体力を買われて最終的な登頂アタッカーへと抜擢され見事にそれを成し遂げるのであるが、その過程においては多くの人々に支えられたということに感謝し、また大勢の人に支えられながらも一握りの者しか栄誉を勝ち取れないという冒険の在り方に疑問を覚える。そこから、彼の単独行志向がはじまる。

そんな植村の精神は、有名になった後年、スポンサーがつくようになってからも変わることなく続いた。自分の冒険のために集められた資金を冒険以外のことに使用することを厳密に禁じた。北極にて偉業を成し遂げた直後、米国政府からねぎらいのレセプションに呼ばれた際に「私はそのような場に出る服を持ち合わせていず、また冒険のために集められた資金を礼服の購入に用いるのは筋違いなので、私が持っている服で出席してもいいようなレセプションでなければ断って欲しい」というような主張を曲げなかったというエピソードは、彼にまつわる様々なエピソードの中でも私が好きなものの一つである。

そういった事前に仕入れた植村のイメージで頭を膨らませながら、私は目的地に辿り着いた。入館料は無料だった。ここで詳細を記すことは止しておくが、生誕からの彼にまつわる出来事が年表化されてパネルになっており、私はそのいちいちに思いを巡らせ、植村観を膨らませたり修正したりしながら、メイン展示場に進んだ。そこでは植村を単独行へと向かわせた、エベレスト登頂時に使われた登山用具の数々が置かれていた。私は登山に詳しいほうではないのだが、そこにあった用具は皆当時の最先端をいく物であったのにも関わらず、私の想像を超えるような便利なものではなく、現代なら手軽に調達できそうな物ばかりであった。もう40年以上前に使用されたものなので無理はないが、当時はこんな装備で極地へ向かっていたということに感嘆した。

エベレスト登頂時のディスプレイを見終えると最後に、大型テレビで植村のDVDが放映されていた。若き日の植村夫人もそこには登場していた。結婚した数ヵ月後には長期の遠征に出ていた植村を、結婚生活の多くにおいて、最愛の人の生死をテーマにしていたであろう彼女の心理状況とは、いったいどのようなものなのだったであろうということを否応なしに連想させられた。

ここに余すことなく表記すると何行に渡るかわからないほどの感傷を抱え、展示室を後にしようとする私に、受付にいる初老の女性が欲のない、実に純粋な表情で「ありがとうございました」と声を掛けてくれた。どことなくDVDで見た植村夫人の趣が重なって、「あなたは植村さんの奥様ですか」と聞きたくなったのだが、できなかった。帰りがけに通りすがった古い構えの豆腐屋は、夫人の旧姓に豆腐店という文字が連なる名称であった。

7.12.2007

自転車旅行 -十日町編- 2

3日目の朝、熟睡から目覚めたらいよいよ脚が上がらなくなっていた。昨日までに肩と、臀部の痛みは発症していたのだが、いよいよ本命がやってきたという感じだ。

昨日自転車の大クラッシュにより負傷した友人は、どうやら旅を続行する気である。途中で「輪行バッグ」なるものを買って、自転車をそのバッグへ入れて電車に乗って追いかけるということだ。輪行とは自転車界ではメジャーな用語であるらしいのだが、私はその時初めて耳にした言葉であった。自転車を別の交通手段に積載して、自らもその交通手段を用いて目的地まで行くような意味なのであるが、例えばJRでは裸で自転車を電車に載せるわけにはいかず、分解して袋に入れて載せることが義務付けられている。そのための袋が輪行バッグというわけだ。これは後々使いそうだと思ったので、私の分もバッグを購入してもらうよう友人にはお願いした。

この日は山越えである。東京から沼田までの道程においては、沼田付近に到るまで特に目立つ坂道などなかったのだが、昨日の夕刻ごろ走った沼田周辺では素人には厳しい登り坂と、それに続く長い下り坂が待ち受けていた。快晴の朝、猛暑の中ノロノロと私はペダルを漕ぎ始めたが、脚が思うように回らない。6段変速ギアの中で、昨日までは6速を使っていたような平坦な所でも3か4速しか使えず、3速で登っていたような坂では1速しか使えないような体たらくだ。

しばらく走ると、三国峠という本格的な山道に差し掛かった。山道と言っても自動車用のもので、しっかりと舗装されたものなのだが、歩道はほとんどなく、側道も狭いので自転車にとっては非常に危険な場所だ。1速で少し進み、やがて自転車を降りて押して歩くという行為を繰り返す。そのうち全く自転車にまたがらなくなり、ひたすら押して歩くようになる。周囲は完全に森の中で、携帯電話のアンテナも立たない。太陽は道路を容赦なく照りつける。だんだんと、私は何でこんなことをやっているのだろうか?という気になり、更にはシジフォスの神話であるかのごとく、私はこの不条理をあるがままに受け入れるようになる。私は、下るためにこの厳しい上り坂を歩いている。そして下り坂は、その後また上るために存在しているに過ぎない。その繰り返しなのだ、と。

ふと気がつくと、トンネルの入口が見えてきた。その先は新潟県だと表記もされている。どうやら登るのはここまでということらしいが、いったいどれぐらいの時間が経ったのであろうと思って時計を見ると、まだ正午を過ぎたぐらいのところを針は指していた。永遠にも感じられた時間は、たったの3時間弱だったのである。これには拍子抜けした。ここから先の長い下り道は実に痛快なものであった。まさに上り坂は、下り坂を走るためのものであることが再確認されたわけであるが、その意味合いは先程までのシジフォス的無感情なものではなく、大変前向きなものへと変化を遂げていた。苗場のあたりで友人からの連絡が入り、越後湯沢駅で待っているとのことであった。その後上り坂があり、再び地獄へ落とされたかのようなショックを受けたものの、その坂は大したものではなく、また長い下りが続き、平地へ降りるとすぐそこに越後湯沢駅があった。

越後湯沢から十日町まではまた大きな峠を登って降りる必要があるのだが、私は友人と会い、1も2もなくここから十日町までは輪行しようということになる。電車を使ってシジフォスの輪廻から脱却しようというわけだ。はじめての輪行である。近所のレンタカー事務所からレンチを借り、自転車を分解し袋に詰める。慣れないのもあって30分ほどかかった。この先私たちは電車に乗り、何泊かした十日町でも濃厚な時を過ごしたのだが、自転車旅行としてのハイライトはまさにここに綴った3日間であり、その後の経過は省略する。この旅によって体重が5キロも落ちた私も大変なことは大変だったが、不慮の事故によって怪我まで負った友人のその後の奮闘振りには今でも頭が下がる思いだ。

ここまで、去年の思い出話が長くなってしまったのだが、先日その友人を含む4名で落ち合い、馬鹿な話に興じていたところ、「今年も自転車でどこかへ行こう」ということで盛り上がり、皆で場所を検討しあったのであった。遠出初体験の新潟行きを超えたインパクトのある、非日常体験をするのは容易ではないかもしれないが、一度このような無謀な冒険を行ってしまうと、その再現を夢想したり調査したりするという時間が発生し、それ自体がまた非日常的で楽しいものなのだと今、感じている。

7.09.2007

自転車旅行 -十日町編-

今年もアツい夏が到来した。

内輪話から始まり恐縮なのだが、去年の今頃だろうか、仲間内の一部で「アツい夏」という言葉がキーワードとなった。その先鞭をつけたのはおそらく私が突発的に「自転車で東京から新潟県まで行ってくる」と発表したからである。私が乗っている自転車は近所のスーパーで購入したシボレー製のモトクロス風バイクで、とても遠出に適しているとは言えず、また自転車に責任転嫁するまでもなく、私自身が普段から特に体を鍛えてもいず、自転車を趣味として乗り回しているわけでもなかった。つまり無謀な企みだったのである。

しかし私には幸いにも、この発表を受けて賛同し、共だってくれる友人が存在した。私はその彼とスケジュールをすり合わせつつも、同時に出発することが難しそうな状況であったため、去年の8月某日夜に自宅のある東京を離れた。何故夜に出発したかというと、真夏の日差しを少しでも避けるという狙いと、目的地である新潟県十日町市までの距離やどこに宿泊地を設定するか、私が1日にどの程度の距離を走れるかなどを想定した結果、導き出された判断なのであるが、1日にどれほど動けるかなんてことは、今までに一度も自転車で遠出をしたことがない者にとって計算のたつものではない。結局のところ、直感で決めたわけだ。

初日の夜は3時間程度走り、大宮の先にある街道沿いの漫画喫茶で休止し一夜を明かした。しかし士気が高揚してしまいなかなか寝付けず、ほとんど徹夜に近い状態のまま次の日を迎えた。友人はこの日、千葉県の自宅から私を追いかけてくることになっていた。

2日目、どこまでも平坦(に見えるが、おそらく緩やかな登り傾斜なのであろう)な埼玉県を走る。ほぼ徹夜明けの体にも関わらず快調に時速20キロ平均で飛ばしていく。「マルホランド・ドライブ」という映画で、デビッド・リンチはマルホランド・ドライブと書かれた道路標識がゆっくりと流れていく車窓を何カットか効果的に使用しているのだが、20キロで走る自転車から見た"高崎まで何キロ"なんていう標識の移ろいはまさに、そのカットの臨場感を再現しているかのようだった。自転車を走らせて得る爽快さと、徹夜明けの気だるさ、それにそろそろ気になりだした荷を背負う肩の痛みを複合的に感じながら、昼過ぎには群馬県に入る。気のせいか、急に道が良くなったような印象を受ける。ここまで内地へ来ても、利根川が大河の趣きを残していることに、やはり隅田川や多摩川とは格が違うなと感じ入る。

と、至極順調なサイクリングを遂行していた私に衝撃的な一報が届けられたのは、私が高崎・前橋と過ぎ渋川付近の街道沿いにあった温泉で休憩している最中であった。昼を越え、夕方に差しかかろうという時である。私を追いかけていた友人の自転車が、走行中にいきなり前輪を外し、バランスを失った友人は顔面から道路に突っ込んで負傷したというのだ。電話から聞こえる友人の声は比較的平静なものであると理解したが、その友人は元々、相当に肝の据わった性質なので、怪我の具合やツーリング続行の可能性が今ひとつ判断できない。私は気の利いた台詞を言うこともままならず報告を受け、とりあえず出発。沼田にある温泉施設のカプセルルームに投宿した。

(長くなりましたので続編を設けることにします)

4.18.2007

マラッカの安宿で

私は学生の頃、いわゆるバックパッカーのようなスタイルでの中長期海外渡航を幾度か経験したことがある。その中では印象的な人たちとの出会いもあり、私などとは比較にもならないほどの凄まじい旅行体験を持った人とか、語らっている中で某国のスーパーエリートだということが判明した人だとか(そんな人が私と同じ安宿に泊まっていたことも興味深い)、それぞれの人が与えてくれた印象も様々なのであるが、共通してそんな人たちに抱いた感覚は年齢を超えた尊敬の念と、僭越ながら少しばかりのシンパシーなのであった。

はじめて海外へ旅立った時、私は無謀にも一人で、アムステルダム行きと1ヵ月後に成田へ戻るチケットだけを準備して、宿の予約を一切せずにその"修練"をスタートさせたのだが、甘ちゃんの私には想像以上にヨーロッパの壁が厚く、異文化の心地よい刺激を超えてホームシックが5日目あたりに襲来したのである。その時私はデン・ハーグという町の日本人が経営する宿にいた。そこで私と同じ日にチェック・インした人もまた、印象深い人物だった。

彼の名はもう忘れてしまったが、当時の私より10歳ほど年上で、高校の美術講師をしながらアーティスト活動を生業としているということだったと記憶している。彼が勤めている高校と私が当時通っていた大学の所在地が近かったということも記憶しているが、そんなエピソードを超えて私は彼に、共に過ごした期間が短いのにも関わらず強い敬意を覚えずにはいられなかった。とにかく垣根のない人なのである。大学で倫理学を専攻していた年少の私に哲学的な質問を、挑発的な雰囲気を全く感じさせない純粋な感覚でぶつけてきたり(大して勉強していなかった私はシドロモドロになった)、フランダースの犬というアニメが好きだったので、そのストーリーとゆかりのあるアントワープの教会で、犬の銅像にまたがって写真を撮ってもらったとかいう他愛のない彼の話に、というよりその話し方に私は惹かれたものだった。ホームシックにかかりながら自らそれを認めることが出来ないでいる私の前で、彼は奔放に振舞い、その姿が私の心の障壁を打ち砕いたのである。

私は天邪鬼な性質から、敬意を持った人には"いつかまた会える"という思いと"今の私には会う資格もないだろう"という考えから、再会を避けていく傾向があるので、その人ともその時限りのままでいるし、久しく忘れていた存在なのであったが、先日ふと彼の存在を思い出す機会に遭遇した。短期間ながら私は友人とマレーシア・シンガポールへと海外旅行に出かけ、久しぶりに安宿を泊まり歩くという体験をしたのだが、マラッカという町に滞在して2日目の夜、宿へ戻った私たちにホテル・スタッフが「日本人が今日から増えたよ」と言って宿泊者共有ロビーの方を指差した。そこには私より若いであろう青年が佇んでいた。

青年は明るく我々に挨拶をしてきた。聞くと大学で建築を学んでいるというその青年はちょうど、私がはじめて海外に出た頃の年齢で、そして私は昔出会ったアーティストと同じぐらいの年齢に達していた。私は仕事で建築学に関わったこともあり、興味のある分野だったので、その青年にそういった学問の話を持ちかけた。私の友人は青年が日本で住んでいる町と縁があったので、その町の話題で一時の語らいを構成していた。私たちは次の日、クアラルンプールへ移動したので一晩限りの付き合いとなってしまったが、私はデン・ハーグでの夜を思い出さずにはいられなかった。マラッカの青年は同年代の頃の私よりも大人びていたし、私がデン・ハーグのアーティストから受けたような敬意やシンパシーを、その青年に与えられるほどの存在ではなかっただろう。むしろ私のほうが忘れていた出来事を思い出し、何か初心のようなものを回想することになった。そんなマラッカの夜であった。